歓喜の裏で(後編)

『――さあ!、アメリカジョッキークラブカップのファンファーレです!』



「はっ!?」


 実況アナウンサーの声に、優斗は慌てて飛び起きた。


「あっぶねぇ~!、見逃すところだった」


 焦った優斗の心臓は、まだドキドキと大きな鼓動を発てている。


 テレビ画面ではガシャン!、――と、けたたましい音を発て、ゲートが開いた。



『各馬、きれ~いに揃いました!、まず先頭に立つのは――』



 レースが始まり、クロテンの位置取りは――



『――菊花賞2着馬、クロダテンユウと関昴は5番手に付けました!』



 ――今日のクロテンは、前走の走りを評価されて3番人気、とは言っても……人気の半分は関が乗っている事からかもしれないが、なかなかの注目度である。



「よ~し!、関の(※その騎手が、初めてその馬にレースで乗る事)を心配したけど、良い位置だ!」


 優斗は身体の不調を忘れるぐらい興奮し、テレビ画面に見入っている。



『4コーナーを回って……あっと、外からジリジリとクロダテンユウ上がってきた~!』



 実況の通り、最後のコーナーに差しかかるとクロテンは3番手に上がる、関の手綱はまだだ。


 テレビカメラには捉えられてはいないが、この時のクロテンは鋭い視線と目つきで、自分の前にいる馬たちを睨んでいた。



(おいおい、調教ん時は、人違いならぬしてたんじゃないのぉ~?


 こりゃあ、母父じいさんそっくり――いや、もしかしたら……ヨッシー、凄いの引いたなぁ)



 鞍上の関は楽しそうにニヤッと笑みを浮かべた後――


(でも、今はがいるからなぁ……ヨッシーが運持ってても、こいつは不運だよ……)


 ――と、哀れむ様な顔をした。


 レースが直線に入ると、関は憐れむ様な口元をしながら手綱を緩めた。



『さあ、最後の直線!、先頭はレーザービーム!、レーザービームが逃げる!』



 全馬が第4コーナーを回り、直線へと向く。


 クロテンは1馬身差の3番手のまま、逃げる7番人気、レーザービームは射程圏に捉えている。



(よ~し!、行けぇっ!、クロテン!)



 関がムチを構え、クロテンのお尻を軽く叩くと――


『待っていたぞ!』


 ――とでも言いたげに、背中に乗る関へと目線を向け、クロテンはスピードを上げた。



 あっという間に、レーザービームの背後に取り付くが、クロテンはレーザービームに並びかけたが追い抜けない!



 ……いや、追い抜かないのだ!



(こいつ!、遊んでんのか?!)


 関はクロテンのお尻を再び叩く、今度は軽くではない――


『マジメに走れ!』


 ――という叱咤だ。


 だが、クロテンはスピードを上げず、指示に応えない。



 クロテンとレーザービームは並んだまま、心臓破りの急坂の異名を持つ、残り200mを表す地点に差し掛かった。



 坂を昇り始めると、先頭を走り続けていたレーザービームはもう限界……スピードを失い、バテて後方へ下がっていく。


 対してクロテンは余力充分――坂の途中で先頭に立ち、悠々とゴールへと向かい……バテて下がって行くレーザービームを横目に、チラリと抽象が篭って見える目線を送った。



 クロテンは、これがやりたかったのだ――


『オレは、余裕でこいつに勝った!』


 ――と。



(いや~!、嫌な性格!、ファン失くすぞ、お前っ!)


 関は少し笑い、少し呆れた顔で手綱をしごく。



(それに……まだ、終わってないだろうがっ!)



 ドドドッ!、――と、クロテンの左後方から影が迫る。



 そう、敵はレーザービームだけではない……クロテンが3番人気の評価だった様に、と、目されている強豪がまだいるのだ。


 その中の1番人気、つまりが、先頭のクロテンに迫っている!



 追い込み馬のジャイアントルーラーだっ!



 ジャイアントルーラーは前走の有馬記念で5着に食い込んだ実力馬、GⅠ勝利こそ無いが、3着経験に関しては4度もある。


 追い込み脚質が災いし、勝ち切れはしないが、その実力は競馬ファンの間でも有名だ。



『ルーラーの追い込みを封じて、勝つ事が出来るかどうかが試金石』



 ――というのは、調教師の海野も、一ファンの優斗も、共通して思っていた事である。



 しかし、関係者席で様子を見守っている海野は『もう観ていられない……』という表情で目を逸らしていた。



 海野は、管理馬のゴール前ではいつもそうだった……1着を争ってになっている時は特に。


 海野は本当に、勝負事には向かない性格である。



 関がもう一度ムチを入れると、クロテンは応じてスピードを上げる。



 まるで――


『まだ追っかけて来るヤツがいるのか?!、だから、人間が連れてくるレースっては面白い!』


 ――とでも言いたそうに。



『クロダテンユウ先頭!、ジャイアントルーラー迫る!、どっちだ!?、どっちだぁ~!?』


 アナウンサーの絶叫がこだまし、勝負が決する!



 結果は――


『クロダテンユウ!、クロダテンユウ押し切ったぁ~!』


 ――実況アナウンサーは、あおる様に言葉を続ける。


『菊の激走はまぐれではない!、冬枯れの中山に新星誕生!、その名は、クロダテンユウ~っ!!』




「やった!、先生!、クロテン勝ちましたよ!」


 横で一緒に観ていた調教助手の佐山が、海野の肩を叩くと「ふぅ~!」と大きな息を吐いて、海野は目を開けた。


「由幸くん、よくやってくれた」


 反対隣に座っている石原が歓喜の握手を求める。


「……ありがとう、ございます」


 海野はあまり喜ばず、淡々と祝福を請ける。


「じゃあ、行きましょう。


 クロテンを出迎えに……」


 ――と、海野が顔を引き攣らせながら席を立つ。



「……?、嬉しくないのかな?」


 石原が呟くと佐山が――


「違いますよ――オーナー、あれ……」


 ――何かを指差すと、ガクガクと震えた海野の歩き方が笑いを誘っていた。


「……まるで、生まれたばかりの(※0歳馬を現す隠語)だな」


 ――そう言って、石原は笑みを浮かべた。





 馬場から引き上げるクロテンを、翔平を加えた面々は満面の笑みで出迎えた。


「クロテン~!、やったなぁ!」


 翔平はクロテンを労い、彼の首筋を撫でる。



『当然っ!』


 ――とでも、言い出しそうな『ドヤ顔』を見せ、クロテンは鼻息を翔平に浴びせる。



「どっ!、どうだった!?、関君?」


 まだ緊張してていて、足下がおぼつかない海野が関に感想を尋ねた。


「ヨッシー、まずはおめでとう」


「あっ!、ありがとう……」


「聞いてた通り……いや、それ以上だね。


 調教とレースのあの違い!、こりゃあ楽しみだねぇ!」


 関は笑いながら海野の背を叩く。



「じゃ!、行こうかヨッシー!、苦手な記者相手の談話と、初めての重賞レースのウィナーズサークル!」


「関く~ん!、あおらないでくれよ~!」


 震えがさらに増した海野は情けない声を出して、関に引っ張られて行った。


『崖っぷち』の海野厩舎の潮目は、完全に変わっていた。





 一方、時間をゴール前まで少し戻して、ここは優斗のアパート。



「そのまま!、そのままだ!、テンユウ!」


 テレビ画面が写しているのは、ジャイアントルーラーの猛追……優斗は祈る様に画面に食いっている。



『クロダテンユウ先頭!、ジャイアントルーラー迫る!、どっちだ!?、どっちだ~?!』



 優斗の興奮も頂点に達した!



『クロダテンユウ!、クロダテンユウ押し切った~!』



「よっしゃぁぁぁぁっ!」


 優斗はガッツポーズを振り上げ歓喜する。


 実況アナの煽りには耳もくれず、何度も「よし!」とか「やった!」を繰り返し、テーブルの周りを回っている。


 ベッドの上に座り、優斗は「ふぅ~!」と大きな息を吐く、そして、マグカップの底に残っていたコーヒーを喉に流し込んだ。


「よ~し!、じゃあルルをうらえい…!?」


 優斗はと言おうとしたのだが――


(何だ……?、呂律が回らない……?)


 ――口の異変に気付き、右手で唇を触ろうとするが、今度は手が動かない!



(何だ!?、何なんだ?!、一体!?)


 ――と、頭を巡らせている内に、座っている事も困難になり、ついにベッドに横になってしまった。



『――これはヤバイ!』



 そう思った優斗は、救急車を呼ぼうと携帯電話を取ろうとするが、どうしたらそれが出来るかも解からなくなっていた。



 その時――!


「優斗~、ルルちゃんが帰りたいって、騒いで……」


 玄関に入ってきた智恵子が抱いていたルルは激しく暴れ、智恵子の手を振り払うと、ベッドに倒れている優斗の元に駆け寄り「ワン!ワン!」と激しく吠えた。



「優斗?、寝てるのかい?」


「あ~!、う~!」


 優斗は「違う!」と言おうとしているのだが、それが言葉にならない……



「…?!、優斗!、どうしたの?!」


「うぁ~!、あ~!」


 優斗はかろうじて動く左手足をバタバタさせて訴える。



「まさか……これって?!」


 智恵子は携帯電話を取り出し、119番をダイヤルする。



『もしもし……119番です。


 火災ですか?、事故ですか?、急病ですか?』


「きゅっ!、救急車をお願いします!」


『――住所と状況、解かりますか?』


 智恵子は素早く住所を答え、状況を説明する。


「家を訪ねるとベッドに倒れていたので詳しくは解かりませんが、身体の片方が動かなくなって、呂律が回らなくなっていて……以前観た経験がありますが、恐らくかと……」


「……解かりましたっ!、救急車が向かっているのでお待ちください」


 智恵子はピッと電話を切ると、優斗の側で「どうしたの?!」と興奮気味に吠えるルルを抱き上げる。



「ルルちゃん!、静かにしなさい!、優斗が大変なんだから!」


うおれぇんごめん……、ぶぅぅるぐぅあえいりれるぐぅあれルルを迎えに行けなくて……」



 優斗の言葉は、もう聞き取れないほどになっていた……



 ――程無くして、救急隊が到着した。




「臼井さん!、解かりますか!?」


ぐぁりはいじぇゅがっじゅぇるれろらぐぁけんじぇさっきまでは普通だったけど何か変で……」


 優斗は懸命に言葉を紡ごうとするが…


らぁ~!、じゃみくろぶくるあ何言ってるんだろう!?、じゅあっ?!」


「……解かりました、病院に連れて行きますから!、安心してください」


 救急隊員は優斗を手早く担架に乗せる。



「じゃあ、行きましょう」


 救急隊員が担架を持ち、家から出て小路の階段を下がろうとすると――『なんだ?、なんだ?』と野次馬が鈴生りに立っていた。


「優斗?!、何があったの?!」


 智恵子と同居しているもう一人のおば、佐和子が騒ぎに気付き玄関に出てきていた。


 智恵子は佐和子に手短に説明し「病院に付いて行くから」とルルを手渡す。


 佐和子の腕の中でもルルの興奮は冷めず、今度は野次馬に向けて吠え散らす――『見世物じゃねよ!』とでも激昂するように。


 優斗は吠えるルルの声を聞いたまま、意識を失った……

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