とんでもない"好敵手"

とんでもない"好敵手"

海野厩舎に届く郵便物の回収は翔平の仕事だ。



今日も翔平はガサゴソと、厩舎事務所の郵便受けを探っていた。


公共料金の請求書などが主だが、その中には翔平ののモノも少なからず届く――クロテンへのファンレターだ。



海野厩舎の在厩馬の9割は下級条件の馬 (――というか、オープンクラスはクロテンのみ)なので、残念ながら人気はクロテンに集中している。


これまでレースで1番人気になった事が無いクロテンだが、厩舎に戻ればその人気は圧倒的、ある意味では『内弁慶』なのである。



「……あったあった♪」


――と、お目当てを見つけた翔平は鼻歌混じりに郵便物を仕分けする。



厩務員1年目の翔平は、先輩たちに叱られながら仕事に取り組んでいるが、この時だけは、言い様のない優越感に満たされる――決して、自分の手柄ではないのだが。



仕分けを終えて、請求書などを定位置に置くと、届いたファンレターを小脇に抱え、翔平は馬房へと向かった。



翔平は、届いたファンレターを必ず全てクロテンに読んで聞かせている。


他の厩務員たちに「馬に伝わるかよ(笑)」と、鼻で笑われたりもするが、翔平は御構い無し。


翔平の馬に対する感情はそれほどのモノなのだ。



翔平は、馬房へと歩きながら封筒の宛名を確かめる。



(今日も来ていない……か)


翔平は、少し残念そうに小さくうな垂れた。



クロテンへのファンレターは、AJCCでの重賞初制覇の後からさらに増加。


お目当てを見つける日が多くなった事は嬉しいのだが、翔平は#あの人__・__#からの手紙が来ない事を気にしていた。



(レースの後は必ず、休養中でも、月に一度は必ず来たのに……)



――時は、あの歓喜と悲劇の一日から、1ヶ月が経とうとしている2月の下旬である……当然ながら、翔平はに起きた出来事は知らない。



「お前~、嫌われる様な事したんじゃないのか~?」


馬房に着いた翔平はそうおどけながら、クロテンの首筋を撫でた。




そんな翔平の危惧など、小さな砂粒に思えるニュースが競馬界を駆け巡っていた。



それはAJCCの2日後、海野厩舎の面々が、まだ勝利の余韻をニヤニヤしながら味わっている時に起こった。


海野厩舎から500mほど離れた所にある松沢まつざわ厩舎――そこに集まった、競馬記者たちのド肝を抜く発表が行なわれた。



話の核心に迫る前に、まずは松沢厩舎について話しておかなければなるまい。



松沢厩舎は開業から34年を数えるベテラントレーナー、松沢和博まつざわかずひろが調教師を勤める厩舎である。


松沢はリーディングトレーナーのタイトルを何度も手にしている名伯楽で、GⅠ勝利は53勝(※うち海外5勝)――現役では、唯一の"8大競争"(※桜花賞、皐月賞、天皇賞・春、オークス、ダービー、菊花賞、天皇賞・秋、有馬記念)完全制覇トレーナーで、最高の栄誉とされるダービー制覇も3度、という成績の調教師だ。



『美浦の首領ドン


『関東の生ける伝説』


――など、評に挙げる言葉に困らない偉大な存在。



3年目でGⅡを一つ勝った(※充分、誇らしい事ではあるが)海野からすれば、雲の上――いや、住む世界が違うとも言って良い、大物である。



そんな松沢が朝の調教を終えた後、この週のメインレースであるGⅢ、根岸ステークスの取材に来た記者たちに――


「――発表したい事があるから……集まってくれや」


――と、声を掛けた。



根岸ステークスの登録馬の中には松沢厩舎の所属馬はいなかったのだが、記者たちは何の事なのかをしっかりと勘付いていた。



松沢厩舎には現在、競馬に関わる者なら、誰もが注目している1頭のスターホースがいる。



その馬の名は――『アカツキ』



アカツキは、白く美しい芦毛に被われた4歳牡馬で、去年の皐月賞、ダービー、菊花賞のいわゆる『クラシック3冠レース』と、有馬記念を無敗のまま制した現役最強馬である。


ここまでの成績は8戦8勝…主な勝ち鞍は前出の3冠レースと有馬記念、2歳王者を決める朝日杯フューチュリティーステークス(※以上GⅠ)、弥生賞、セントライト記念(※以上GⅡ)――と、これまた成績の馬である。


お気づきの方もいるだろうが、クロテンが2着に奮戦した菊花賞で、7馬身離れた先で勝利の祝福を受けていたのが、このアカツキだ。


現状の差から言えば、おこがましい表現かもしれないが、クロテンにとっては同い歳のライバルにあたる。



そんなアカツキが生まれた所もまた、



アカツキを生産したのはここ40年間、馬産界のトップに君臨し続けている名門牧場、白畑しらはたファーム――ちなみに、オーナーもその系列の一口馬主クラブである白畑RC《レーシングクラブ》。


そう、海野厩舎とは縁が無い、クラブ馬主の頂点にいるクラブだ。



は、まだまだ続く。



アカツキの血統も、その名門牧場の力を結集した様な良血である。


母はもちろん、白畑ファームの生産馬で、桜花賞とオークス、古馬になってからは秋の天皇賞も制した名牝、シャインポラリス。


父は白畑Fが89億円を投じて購入し、アメリカから輸入した米3冠(※ケンタッキーダービー、ブリークネスステークス、ベルモントステークス)馬、ゴッドブレス


その輸出を嘆いたロックシンガーが『Good bye Godbreath』というバラードを発表したという逸話もある、が付く名馬で、日本でもリーディングサイアーのタイトルを何度も獲得している名種牡馬でもある。



の大トリはその鞍上。



ここまでの8戦、全てで手綱を取ったのは天才、関昴。


これだけ並んだビッグネームの中では、海野たちと関わりがある事が汚点に見えてしまいそうだが、異名が物語る様に、彼も充分、ジョッキーである。



ちなみに、AJCCのレース中に「がいるから……」と、関が評していたのがアカツキの事だ。



が、幾重にも連なっているアカツキに、競馬記者たちが付けた異名は"究極エリート"である。



ボキャブラリーの少なさを露呈している様な陳腐なネーミングだが、これを提唱した競馬ライター曰く――


「凄過ぎるから、これぐらいが丁度良い」


――と、皮肉ったという。



松沢厩舎に集まった記者たちの期待は、在厩中とはいえ休養に入っているアカツキがいつ復帰するのか?、そして、当座の目標はどのレースになるのか?、――という2点だった。



何度取材しても、愛想笑いで誤魔化す松沢に、痺れを切らした記者たちは――


「順当に春天(※春の天皇賞)!」


「オーナーサイドは海外も視野か?!」


――など、推測合戦を紙面で展開しているほどの熱の入れ様。


「松沢先生が今、発表するのならこの事しかない!」と、に厩舎の前に集まっていた。



「やあやあ、悪いね」


――と、少し訛りのある口調で飄々と松沢が出て来た。



イレ込み気味の記者たちも、松沢が放つ何とも言えない雰囲気に気圧され、黙って松沢の言葉を待っている。



そんな『借りてきた猫状態』の記者たちの姿に小さく笑みを見せ、松沢が口を開く。


「え~…皆さんの、今日来てもらったのは、です……」



期待通りの部分を少し強調した言い方で、松沢は話し始めた。


記者たちから「おおっ!」と小さくどよめきが起こる。



さんと話し合ってねぇ……春の目標は、ドバイに決めたよ」


「おおおっっっ!」と、大きなどよめきが起こり、海外云々の記事を書いていた記者などは、小さくガッツポーズを見せた。



「――でね、シーマにするか、ワールドカップにするかで、なかなか決まらなくてねぇ……」


松沢は困った時のクセでもある自分の顎を擦るポーズを見せた。



――ここで出てきた『シーマ』と『ワールドカップ』はレースの名称である。



シーマとはドバイシーマクラシック、ワールドカップとはドバイワールドカップの事を指す。


シーマクラシックは芝2400mで行なわれるGⅠレースで、芝の競馬を主とする日本馬の勝利例も多いレースである。


一方のドバイワールドカップはダート(※路面が砂の馬場)2000mで行なわれ、世界最高額の優勝賞金を売り物に創られたGⅠレース、その名称に恥じない世界最強馬を決めるレースである。



「おらぁ、シーマは勝った事あるで調整しやすいし、アカツキも慣れた芝ん方が良いんでないかって、言ったんだけど、馬主さんが『ゴッドの仔だからダートは苦にしないはずだ』って、言うんよ」


松沢は身振り手振りを加えて、まるで世間話でもする様に語っている。


「まあ、馬主さんがそう言うんならって、一応、両睨みしてさぁ……とりあえず"フェブラリー"でダート試して、まずは、ワールドカップを一番の目標にしとく事になったから」


松沢はサラッとそう言って、ニヤニヤと笑いながら――


「――だから、もう、勝手な事は書かねぇでよ?」


――と言って、事務所へと戻ろうとする……



「――ちょっ!、ちょっと待ってください!、先生!」


「ん?」


「フェッ……!、ってぇ……"フェブラリーステークス"ですか?!」



フェブラリーステークスとは、中央競馬に2つしかない、ダートの馬場で行なわれるGⅠレースである。



「あんた、な~に言ってんの?、フェブラリーったら、他に何あるの?


なら、もう、とっくの昔に無ぇぞぉ?」


――と、松沢はフェブラリーステークスがGⅡだった頃の名称を例に挙げ、質問した記者をからかった。



「ダービー馬がぁ……3冠馬がっ!、ダートに参戦って……!」


――と、ザワザワとした記者たちの群れは動揺を隠せず、皆でお互いの顔を見合った。



今ではGⅠレースも、それに連なる重賞レースもかなり整備されたが、ダートのレースは芝のレースより格が落ちるという感覚は実に根深い


その好例が、GⅠレースが事だろう。


最高の栄誉を手にしたとされるダービー馬は、同じく"王道"から外れるという印象が強い、短距離のレースや、ダートのレースに出走する事は、事実上のタブーである。



"王道以外のレースに活路を求めなければならない、能力や状態ならいっそ引退させるべき"――それが、業界の通例、暗黙の了解になっているほど、というのは特別な尊称なのだ。



そんなダービー馬の中でも、ごく稀有な力を持った馬しかなれない"3冠馬"の称号をも持つ馬が、とされるダートレースに参戦するという……



「フェブラリーは、ダートである上にマイル(※1600m)ですよ?、距離が短いのでは?」


――と、記者の一人が手を挙げ、質問をぶつけた。



「マイルなら、朝日杯でやってるし、3000mでぶっちぎってるんだから、まさかバテねぇべよ?」


松沢は、そう言った後、スッと手刀を切り、ザワザワと騒ぎ続けている記者たちを制し――


「――異論は承知、タブーを犯しとることも解かっとる……だが、馬主さんの意見もあるけど、オラも、やってみたいと思っちまった。


オラも、もうすぐ"最後の1年"だべ?、最後は――面白い事やって消えるのも、なかなかだべよ?」



競馬の世界のは3月、松沢は、来年2月の末に定年を向かえ、この業界から去る。



「色んな馬に沢山勝たせてもらったし、色んな賞も貰った――もう、なんもねぇだろうと思ってたら、アカツキが3冠馬なんていうモンになってくれた……そんなアイツが、どこまでやれるのか?、それが見てみたくなったんよ」


松沢は、また顎を擦り――


「――年寄りの我儘かもしれんけど、まあ、応援してくれや」


――と、言って頭を下げ、事務所の中に消えて行った。



ピシャっと、事務所のサッシが閉まると同時に、記者たちは蜘蛛の子を散らす様に動き出した。



「『アカツキ、フェブラリー→ドバイWC《ワールドカップ》!』


見出しは、これで決まりだろ!?」


「ええ、アカツキですよ!、ア・カ・ツ・キ!、一面差し替えても良いでしょ?!、今は野球もオフなんだし!」


色めき立った記者たちは、興奮気味にトレセン内を駆け回った。






クロテンへのと、馬房周りの仕事を終えた翔平は、厩舎事務所に戻って来ていた。



だが、彼は、佐山が目の前で広げているスポーツ新聞の見出しを眺め――


「……どこもかしこも、アカツキですか」


――と、苛立ちを見せながら、コーヒーを啜っていた。



「なんだぁ?、翔平、ご機嫌ナナメか?」


佐山は新聞をたたみ、からかう様な言い方で問いかける。


「別に違いますよ、でも、今週の雰囲気が……ねぇ?」



3冠馬の参戦という歴史的なフェブラリーステークスを控えた週を迎えても、クロテンしかオープン馬がいない、海野厩舎の面々にとっては無縁な出来事なのだが、トレセン全体のムードは異様だった。


調教スタンドに集まったカメラの数は普段の週のほぼ2倍、GⅠレースなので多いのは当たり前だが、ダービーや有馬記念の週並みの注目度である。



「確かに、アカツキは強いけど……騒ぎ過ぎでしょ?」



翔平はアカツキが嫌いである。


理由を明かそうとしないが、その言動が菊花賞の後からなのだから、推測は容易い。


翔平は本当にクロテンを……そして、自分を受け入れてくれた海野厩舎が大好きなのだ。



「解かってねぇな、お前。


記事見ただろ?、3冠馬がダートに出るってのは、スゲェ事件なんだよ」


「それは解かってますよ!、新米の俺でもっ!」


不満気に頬が膨れた様の翔平は、コーヒーの残りをグッと飲み干した。



「ほら、クロテンの記事もあるぞ、これで機嫌直せ、うるさいから」


「えっ?!、ホントですか!」


――と、毟り捕る様に新聞を受け取り、翔平は紙面に目を落とした。



『クロダテンユウは日経賞から天皇賞・春へと向かう』



翔平は『次走報』という、小さく書かれた記事を見つけたのだが…


「……これだけ?、知ってるよ俺、先生に昨日聞いたし。


しかも、記事ちっさっ!」


「これがクロテンとアカツキの差なんだよ!、いい加減に身の程ってのを知れよ」


――と、佐山が説教を始めようかとした所に海野が戻ってきた。



「う~ん……困ったなぁ」


事務所に入って開口一番、海野は情けない声を発した。



「テキ、松村さんはどうでした?」


「それですよ、謙さん!、松村さん……インフルエンザだってさ」


二人は「えっ!?」と、顔を見合わせた。


海野は慌てて「だよ!、人間!」と、激しく強調した。


松村は今朝の調教の後、体調不良を訴え、海野が近くの病院へ連れて行っていた。


二人――特に、数年前の馬インフルエンザに因る騒動を知っている佐山は、松村には悪いが少しだけ安堵していた。



「ああ、どうしようかね。


松村さんには4頭も任せているのに……しかも、1頭は今週使うんだよ~っ!」


――と、頭を抱える海野に佐山は――


「翔平がいるじゃないですか」


――と、サラリと言った。



「翔平だって、もうすぐ1年――


『ウチが馬少ないから』


――ってのもありますけど、複数任せても良い頃じゃないですか?、もうコイツだって1……いや、0.8人前ぐらいの仕事、出来るでしょ?」


「確かに、2歳馬の入厩があったら翔平くんに――とは、私も思っていたけど……」


「じゃあ、丁度良い予行練習になりますよ、出来るな?、翔平」


佐山の期待を込めた眼差しに、パァッと笑顔になった翔平は――


「はいっ!」


――と、力強く応じた。



――老人は、最後の花道を飾り付けるために動き出し、若者は――次の階段へと昇るために動き出す。



そんな光景を垣間見た、2月の競馬界である。

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