再起への苦慮

帰厩

ソワソワ……、ソワソワ……


そんな、心のざわめきまでが聞こえて来そうな程、翔平は海野厩舎の事務所と馬房を行ったり来たりしていた。



その様子が、何か――もしくは、誰かが来る事を、待っているのは明らかである。



時刻は、朝の調教を終え、各馬の手入れも片付けた後の午前11時。


秋分も過ぎ、日が昇る時が遅くなってきた10月初頭は、朝の気温も段々と低くなり、昼に近くなっても、外で何かを待つには、一枚多く羽織らなければならない季節だ。



「翔平、落ち着けよ」


観かねた佐山が、呆れた様に苦笑いを見せながら翔平を諌める。


「解ってます!、解ってますけど――っ!」


翔平は、そう言いながらも、トレセン入り口側の道路から目線を離さない。



ブロロロロロッ――



その方向から、トラックのエンジン音が聞えてきた。


「――あっ!?」


翔平は、その音の源を確認しようと身を乗り出す。


「!、やっぱりそうですっ!、来ます!、来ますよぉ~っ!」


海野厩舎に近付いてきたのは、各地への輸送でいつもお世話になっている、いつもの運送会社の馬運車だった。


『――バックします!』


――という、機械的な音声を響かせ、馬運車は馬房の前に停車した。



――ガチャッ!



――と、音をたて、助手席から降りて来たのは、成実分場に居た、大田という牧夫だった。


「おはようございます。


えっ~と、海野#調教師__せんせい__#は?」


「あっ、私です」


車のバック音が聞こえてから、慌てて事務所から出て来た海野は、小さな挙手を見せて大田に合図を見せた。



「お疲れ様です、白畑F成実分場の大田です」


そう、大田は胸の名札を海野に見せ――


「クロダテンユウの輸送、立会いに参りました。


えっ~と、それでですね――」


――彼は、小脇に抱えたバッグの中から、書類らしきモノとCDーRが入ったケースを取り出した。


「――まずは、こちらに受領のハンコを……それと、このCD-Rには、預託されてから牧場を出発するまでの管理記録が入っています。


経過と、お伝えしたい事をまとめておりますので、一読ください」


「わかりました、どうもご苦労様でした」



大田が、海野に一礼して運転手に合図を送ると、コンテナが開き、中から尾花栗毛の華麗な馬体が姿を現した。



「クロテン!」


翔平も、佐山も、そして海野も――声を挙げて、クロテンの帰厩を喜んだ。



だが、一同が姿を見ての第一声は――



「……太いな」


「……ですね」


「夏に会った時とは大違いじゃねぇかぁ~っ!、お前、ナニを食ってたんだぁ?」



――今のセリフは佐山、海野、翔平の順の感想である。



後の計量で解る事だが、クロテンの今の馬体重は、日経賞時から+46㎏という、かなり太めな仕上がりで帰ってきたのだった。



――しかし、海野の眼光は違う点も観ていた。



(筋肉の付き方が、怪我をする前とは……違う?


翔平くんの話や、撮ってきた写真とも違うというコトは――ひょっとしたら、”異様に賢い”というのも、言い得て妙かもね)


海野はそう心中で邪推して、ニヤリと笑った。



クロテンは、3人の感想を誤魔化すかの様に、口笛でも吹く様で顔をそむけ、彼はキョロキョロと辺りを見回す。



「なんだぁ?、帰って来れて、嬉しいのかぁ?」


翔平は、その反応を妙に嬉しく感じ、首筋を撫でてやろうかと手を伸ばしたが――


「あっ、あの、麻生騎手は?」


――と言って、同じく辺りをキョロキョロと見渡している大田の姿を見て、クロテンの思惑が透かして見えた。


「……結局、お前は怪我を治しても、スケテンのままなのかよ!」


そう言って翔平は、撫でようとした手を引っ込めた。


「ざあ~んねん!、翼は"バイト"で、松沢厩舎に行ってんだよ。


だから『可愛いテンくん』の迎えにも居ないの!」


翔平はそう教えて、クロテンと大田の期待を挫いた。



翔平はバイトと称したが、別に翼が田子さんのところで、コーヒーの売り子でも始めたワケではない。


もちろん、その美貌と人気を買われ、グラビアの類や写真集なんかの撮影などを始めたワケでもない。



翼のバイトは――馬乗りとしてのモノである。


自厩舎以外の馬の調教の乗り手として、翼は引っ張りダコなのだ。



北海道遠征で自分の腕を磨くため、そして、スランプからの脱出のために、翼は同じく遠征に来ていた他厩舎に積極的に営業を掛けた。


もちろん、実績ほぼゼロの新人、ましてやスランプ中というマイナス要素も抱えていた翼に、騎乗依頼を頼む陣営は少なかったが、翼は――


「後学のためにも、調教だけでも乗せていただけませんか?」


――そう、食い下がり(※優斗も大田もアッサリ陥落した、憂いを帯びたすがる様な表情で)、人手が散らばってしまう夏のローカル特有の人手不足も相待って、翼はかなりの数の調教騎乗をこなした。



持ち前の当たりの柔らかい騎乗スタイルからか、翼の調教騎乗は大層評判となり、北海道シリーズから帰って来ても、こうして調教の騎乗依頼を受けているのだ。


それを翔平は"バイト"と称していたのである。



「ホント、翼の調教騎乗は好評だよなぁ。


いつ騎手辞めても、助手や持ち乗り(※騎乗資格を持つ厩務員)で、喰っていけるぜ」


佐山が、何の気無しにそうつぶやくと、海野のメガネがキラッと光った。



「……謙さん、もしかしてそれは――


『女なんだから、さっさと現役から退いて、裏方に回れよ!』


――という意味じゃないですよね?、もしそうだったら……」


「いやいや!、そういう意味じゃないって!


単に、翼の稽古は良い評判だって、褒めてるんですよぉ~っ!」


佐山は慌てて、海野に発言の意味を説明した。



なぜ、佐山が慌てているかというと、例の翼に対するセクハラについてのペナルティを恐れたからだ。


確かに、今の佐山の発言は、そう判断されてもおかしくはない。


一年目の新人に、引退後の身の振り方を諭すのは、少々気が早いからだ。


海野は、札幌での竜太との一件を翔平に聞いてから、翼に対するその手の発言には、特に敏感になっているのである。



――バタバタバタッ!



海野厩舎の面々がクロテンを出迎えているのを横目に、何やら先程から競馬記者たちの動きが慌しい。



「そういえば、何の騒ぎなんですか?


馬運車の中でも、気にはなっていたんですが……」


翼がいないショックから立ち直った大田は、気になっていた騒ぎについて、佐山に尋ねた。



「う~ん……この方向は、松沢先生の所ですけど、いよいよ今週とはいえ、アカツキも先生も居ませんからねぇ――」



日本競馬界の悲願、凱旋門賞制覇にアカツキが挑む日を週末に控え、確かに、松沢厩舎は日本中の注目を受けているわけだが、現地からも調整は順調だと報じられている。



「――まあ、毎日王冠にも登録馬がいますし、ソッチじゃないですかね?」


「そうですね――では、受領確認しました。


クロダテンユウの活躍、期待しています」


――と、言って大田は馬運車の助手席に乗り込んで、海野厩舎を後にした。




「……戻りました」



馬運車が動き出したのとほぼ同時に、皆の耳に可愛らしい女性の声が聞こえた。



声の主は、とぼとぼと厩舎に向かって歩いて来た翼である。



その様子を、動き出した助手席の窓から、口惜しそうに眺めている大田の姿はさておき――翼は、疲れきった表情で皆の前に着いた。


「おっ!、翼、ご苦労さん。


クロテン、もう着いてるぞ」


クロテンの到着を嬉しそうに教える翔平に、乾いた笑みを見せた翼は――


「ああ、テンくん……おかえり。


ついに――帰って、来れたね……」


翼の登場に喜びを見せたクロテンは、嬉しそうに頬を近づけたが、翼の不可思議なその普段とは違う、乾いた笑みに戸惑った。


「……翼?、どうした?」


翔平も、その変化に気付き、その翼の表情を覗き込む。


「テンくんは――元気になって、戻って来たのにね……」


翼は、翔平の問い掛けには答えず、そう小さくつぶやいた後、皆を見渡して衝撃の事実を伝える。



「アカツキ――凱旋門賞、取り消しだそうです」



「!?」


一同は――言葉を失った。



「どっ!、どういうコトだい?!」


一番先に我に返ったのは、海野だった。


「私は一応、部外者なので、流石に詳しいコトは聞けませんでしたが、どうも熱発ねっぱつらしいです」



熱発とは、文字通り、発熱の症状の事である。



「泰博さんと来週の打ち合わせをしていたら、松沢先生から電話がかかって来て――もう、その後は凄い騒ぎでした。


追い切りに出す前に先生が様子を観て、元気が無いからと体温を測ったら――というコトらしいです」


「……」


海野たちは顔色を変え、その場で押し黙った。



アカツキとは、直接的な関わりが無い海野厩舎の面々ではあるが、アカツキのこの挑戦は日本のホースマン、そして、競馬ファンの悲願が注がれた挑戦である――決して、他人事ひとごととして済ませられるモノではない。



「――やっぱり、なんかあるんですかね?、あのレースには」


翔平は顔をしかめて、悔しそうにクロテンの手綱を強く握った。


「……翔平くん、それより"先のコト"は、僕らが言ってはダメだ。


たとえ、心の中でそう思っていてもね」


海野は、翔平が言わんとしているコトを察し、そう諭した。



「確かに――日本のホースマンとしては残念な事ではあるが、僕らは、僕たちの仕事をしよう」


海野は――パンッ!、と、手を叩いて、そのどんよりとした空気を断ち切った。

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