再起への苦慮

「――そうか、アカツキが……」


クロテンの帰厩に合わせ、海野厩舎を訪問した石原は、その衝撃的な一報に、翔平たちと同じ様な反応を示した。



「ヤマトに始まった、松沢かれの調教師人生に残った"宿題"とも言える、あのレースを勝って……全てを終えて、去って行きたかったんだろうに」


石原は、松沢の胸中をそう察して、悔しそうに表情を歪めた。



「ええ、本当に残念です」


海野はコーヒーを淹れ、石原の前に置いた。


「――で、由幸くん。


テンユウの仕上がり……どういう感想だい?」


「見た目でも、検量してみても、確かに太くはなっていましたが、あれはある程度、成長分も加わっていますね。


まずは、レースに使えるレベルまで、馬体重を絞らなければいけませんが――復帰まで、大幅な時間を要する程ではないと思っています」


その海野の感想に、石原は大きく安堵した。



「そうか――では、具体的にはどれくらいかかると?」


「そうですね……出来れば年内、そう考えてはいます」


海野はそう伝えると、何かを思い出したかの様に笑みを見せる。



「そんな楽観的な目算が出来るのは、白畑Fの手腕と、クロテンの賢さのおかげですよ」


「――えっ?」


「コレを見てください」


海野は、先程大田に渡されたデータが表示された、タブレットを差し出す。



「スタッフが与える飼い葉の量や、トレーニングメニューもそうですが……クロテンの食べる量と、体重変化の動きが面白いんですよ。


まるで、クロテン自身が、自分のどこを鍛える必要があるのか、それに必要な食事の量をどれぐらいなのかを、理解している様に推移している――それも、翔平くんたちと再会した"あの日"を境に。


クロテンは『戦いたがっていた』と、翔平くんから聞かされましたが、その言葉通りのデータですよ」



次に、海野が表示したのは先程のクロテンの馬体写真と、日経賞の前に写した写真の比較である。



「骨折した部分を守るために、まるで、筋肉の鎧でもまとわせた様な鍛え方――増えた体重の影響を弱くするために、脚の部分は可能な限り鍛えず、胸前や太ももを増量して、馬体を支える"基礎部分"の強化に重きを置いた造り方、彼の爆弾を抱えた脚を守るには、ベストの選択ですよ。


あとは、私の調教で、無駄な分を削ぎ落とすだけ――という状態です」


海野は、熱弁を奮って、石原に説明した。


「……なるほど『準備は牧場で終えてある』というコトか。


――では、私の考えも由幸くんに伝えやすいね」


石原は、小さく笑みを見せた後、海野の目を黙って見据えた。


「テンユウを――有馬記念に使って欲しいんだ」


「?!」


「……可笑しいだろう?、能力落ちの不安が拭えない馬を、天下のグランプリに出せって言うのは」


「いっ、いえ――そんな」


「単に、派手に有馬で復帰させたい――というワケじゃない、もちろん、どこで復帰させるかは、トレーナーの君の裁量さ。


ただ――あの怪我をしてしまった、をいつか走りきらないと、テンユウも私たちも、あそこに"ナニか"を置き忘れた様な気がしないかい?


それを取って来ないと、本当の意味の復帰が出来ていないと思うんだ」


「……」


「それに、臼井さん――『手紙のあの人』に、大舞台に帰ってきたテンユウの姿を、見せたいんだよ。


テンユウも――きっと、それを望んでいると思うんだ」


石原は迷いの無い瞳で、海野の返事を待った。


「……解りました、オーナーの要望ですから、私は出来るだけ、それを叶えるだけです」


――と、海野は、ちょっとやさぐれた返事をした後――


「――私も、中山の2500mには、同じ事を思っていました。


流石に、"有馬記念で"とは思っていませんでしたがね」


海野は、自分の気の弱さに、改めて苦笑いを見せた。


その海野の笑みを見て、石原はふっと声を漏らしながら――


「私たちの様なイイ歳の者が、そんな事を思うのは――」


――と、海野に問いかけると――


「――無垢な若者たちが、側にいるせいかもしれませんね」


――そう、答えた海野は、笑いながらも、メガネの向こうには、勝負師たる決意に満ちた鋭い眼光を覗かせていた。






――そして、秋も深まった11月の日曜日。


京都競馬場では、エリザベス女王杯というGⅠレースが開催され、現役牝馬の頂点が決まる日だ。



場面はココ、福島競馬場のパドック――時刻は、その件の女王杯のスタートまで、約1時間に迫った午後3時前。



そこで、騎乗命令が掛かるのを待つ、騎手の群れの中に――翼の姿があった。



青く塗られたヘルメットをかぶり、パドックを周回している馬を凝視している翼は、何度もスーハー、スーハーと、大きく深呼吸していた。



どうやら、かなり緊張しているらしく――頬は紅潮し、喉では何度も唾を呑み、ズレたヘルメットの顎紐を直そうと触れた右手は、小刻みに震えていた。



高鳴る心臓を抑えようと、胸に手を当てた翼が目線を上に向けると、ソコに掲げられた垂れ幕には――



『第…回 福島記念 GⅢ』



――と、書かれている。



翼の緊張の元は、どうやらコレの様だ。


そう――翼はついに、初めて重賞レースに騎乗する。



垂れ幕を見ただけでも、翼の手の震えはさらに増し――


(――ダメッ!、見ちゃダメッ!)


――と、翼は自分にそう言い聞かせ、胸に当てた手の平で勝負服の胸元を強く握る。



その時、丁度、翼の前を周回している騎乗馬相棒と目が合い、翼はその一瞬だけは落ち着き、笑顔も覗かせた。



その翼を安堵させた騎乗馬は、華麗な尾花栗毛をなびかせ"どっしりとした"雰囲気を醸し、落ち着き払って周回しているが、時々、どこか懐かしさ気にパドックをキョロキョロと見渡している。



そんな、珍しい毛色でもうお解かりかもしれないが――その翼の初重賞騎乗のパートナーというのは、なんとクロテンである。



クロテンも――ついに、復帰戦を迎えたのだ。



帰厩して、まだ約1ヶ月――故障明けの馬の実戦復帰としては、セオリーから外れた急ピッチな復帰過程ではあるが。


そのクロテンの手綱を引くのは、もちろん翔平――彼も、ついに迎えたこの日を、噛み締める様に安堵した表情で、周回している。



翼の前を通り過ぎた1人と1頭の姿を、パドックのセンターサークルから、眺めているのは海野だ。


(――よし、とりあえず、ココまではクリアだね)


海野は、クロテンの歩様を凝視し、先の二人と同じく安堵の表情を見せた。


帰厩から、今日までの1ヶ月――人間たちも、#馬__クロテン__#自身も、試行錯誤の毎日であった。



一番、苦労したのは、調教師トレーナーであり、厩舎チーム指揮官リーダーである海野だろう。



海野は、当座の目標こそは有馬記念と定めたが、天下のグランプリに挑むとなれば、生半可な仕上げにはしたくないという自負プライドから、故障明けとはいえ、本番有馬の前にどこか、先に復帰戦を設けたいと考えた。


しかし――クロテンは、左回りコースのレースには使えないというハンデを抱えているので、この時期の関東の主戦場、東京でのレースには出せないのだ。


――そうなると、残ったのは、この時期の関西勢の主戦場である京都と、第三場ローカルの福島。


どちらも右回りなので、その心配はクリア出来たが、次に問題となったのは、レース条件と有馬への日程だ。


休養中だったとはいえ、クロテンはGⅡを勝った実績を持つ、バリバリのオープン馬である――当たり前ではあるが、オープンクラスに開放されている、上級クラスのレースにしか出走出来ない。


しかし、クロテンが結果を残している、芝コースで行われる2000m以上のレースは、この時期の京都や福島には少ない。


――そして、有馬に疲れを残さないためにも、使うのなら11月前半まで、というのが望ましいので、それらを加味すると、合致したのが――この福島記念であった。



3場開催の一方では、GⅠが行われている事からも解るように、今は、毎週GⅠが行われる時期。


悪い言い方だろうが、再び地味な裏街道を行かせるのは、皆の本心ではなかったが、一度試すとしたら、ココ以外には考えられなかったのである。



復帰戦を決めた海野は、今度は脚に爆弾を抱えたクロテンを、わずか1ヶ月でレースに出せる身体に仕上げる事に取り組んだ。



毎日の様に調教用プールを歩かせ、負担が少ないトレーニングを多く消化させる方法で馬体重を絞り、コースに出る時には足元に優しいウッドチップコースを選択し、翼を背にしたオーバーレジェンドを追いかける調教を中心に施した。


これは――持ち前の勝負根性を刺激する事で、運動量を増やすのが海野の思惑だったが、相手のレジェンドに翼を乗せる事を提案したのは翔平である。


「併せるんなら、絶対ソレが良いです。


この間――レジェンドが、翼に身体を洗ってもらってたのを、凄っい形相で睨んでましたから」


――と、翔平は呆れた顔でそう進言した。



翔平の提案を実践してみると、見違えたように反応が良くなり、かつての相手をねじ伏せる様な走りも見せる様になった。


翔平が、クロテンの"スケテン"な部分を、巧みに利用した結果である。



その時のクロテンが――


「ごらぁ~!、レジェンドォ~!、俺の騎手おんなを乗せて、タダで済むと思ってんじゃねぇぞぉ!!!!!」


――と、凄んで追いかけている事は、人間たちには秘密だ。



ちなみに――オーバーレジェンドも、この経験が功を相し、弱点である出足の鈍さが解消され、生粋の逃げ馬として開眼。


後に、クロテンに次ぐ厩舎の主力として活躍するのだが――それはまた、別の物語である。



さて、次に海野を悩ませたのは、この福島記念での騎手選びだった。



海野は――


『レースには、クロテンを支配出来るベテランを』


――という方針を貫くつもりでいたが、復帰戦にココを選んだ時点で、その方針は頓挫せざるを得なくなった。


何故、そうなってしまったかというと――"裏"でGⅠレースが行われているということは、経験豊富で"腕"が確かな、ベテランの一流ジョッキーがそちらのGⅠ開催場に集まり易い傾向があるコトだった。



それはある意味、当然の道理である。



その分、ローカルには必然的に、経験や実績に乏しい翼の様な若手や、表現がまたも失礼になってしまうが、かつての佐山の様な2流、3流の騎手が集まる。


海野は、そんな人材の中から、クロテンを任せるに適う人物を探す事を迫られた。



海野が、鞍上探しに取り掛かろうとした時期に、石原から――


「――麻生騎手では、ダメなのかい?」


――と、まさに"灯台下暗し"な提案を海野は受けのだった。



「石原さん、本気でおっしゃってるんですか?」


「もちろんだよ、彼女は、どんな騎手よりもテンユウの背を――そして、特徴を知る人間だと言っても過言ではない。


確かに、まだまだ場数や勝負勘は足りないだろうが、大っぴらには言えないが、今回のテンユウには勝利を期待しているわけではない、調教の延長と考えれば、彼女に任せるのも一考ではないかな?」



石原は続いて『それに――』と、付け加える体で、厩舎事務所の壁に貼られた、あるポスターを指差した。


そのポスターは、翼がクロダの勝負服を着て、あの写真撮影の時も見せたぎこちない笑顔で、右腕を掲げる写真が使われており、口元に配されたマンガの様な吹き出しには――


『ローカルに行こう!』


――と、記されていた。



コレは、GⅠの裏で目立たない、第三場開催のプロモーション企画の一環で、その広告に翼が起用されたモノだ。



注目度の低さの打開に、ローカルへの参戦が多くなる新人ながら、知名度と人気――"だけ"は、一流騎手たちをある意味凌駕する、翼を使うというのは……企画の立案者は相当な策士であろう。



その広報からの提案に、海野はまたも断りきれずに渋々了承――翼も『先生が引き受けたのなら』と、ポスターとネット動画の撮影に協力した。



そのポスターと動画は大反響を呼び、特に動画などは公開初日に、競馬関連としては破格の再生回数を記録したという。


ちなみに、翼がクロダの勝負服を着ていたのは、単にクロテンとの繋がりが有名だったからであるのだが――


「――図らずも、テンユウが福島ローカルに参戦するのなら、彼女を乗せれば、お客さんも、広報の人たちも、喜ぶんじゃないかな?」


――そう、石原は含み笑いを覗かせて、そう言った。



「質実な石原さんの言葉とは、思えませんね……」


海野は、そう返して苦笑いしていたが、彼も翼の起用には特に異論は無く、彼女の初めての重賞騎乗は、トントン拍子に決まったのだった。


こうして、海野の苦慮と皆の工夫の末、クロテンは今日という日を迎えたのだった。

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