とある退屈な日
(ヒマだ……)
これは、クロテンの心の声ではない――今度は、優斗の心の声である。
馬も、人も、きっとこういう感情は同じなのだろう。
優斗は元々、社交的な人間ではないと書いたが、それがヒマの要因に拍車を掛けていた。
彼の健常者時代の日常は、朝――いや、深夜に起きて仕事に出かけ、まだ日が出ている時間に仕事を終えていたとしても、早々に帰宅して身体を休める事に重きを置く。
家と職場の往復のみ――という生活サイクル、彼は、そんなクソ真面目な男である。
そんな彼が仕事を失うと、こうなってしまうのだ。
何か、替わりの生きがいを探ろうと思っても、この不自由な身体では満足な外出は難しい――それが、単身での外出となれば尚更だ。
帰宅後にした、目立った外出といえば――再発を避けるために通院している、晴部市立病院へ出かけた事や、例の給与不払い問題の決着を着けに、労引社へ赴いた程度である。
不払い問題は、ご本人のの登場であっさりと解決した。
退院前から、智恵子が労働基準局に告発する事を臭わせると、
社会保険料の不足分を、有給の不払い分で相殺するという、
怒りが収まらない、入院中の仕打ちではあったが――
『もう、これ以上、コイツらと関わりを持ちたくない』
――という、半ば呆れた気持ちも有り、優斗はこの案を了承し、辞表を突きつけて帰って来た。
だが、では別の仕事に――とは行かないのが、優斗の現状である。
退院時に、就労出来るかどうかを医師に確認したところ――
『――以前の様な、肉体労働は無理ですし、ダメです。
ですが、軽作業ならば――』
――という説明を受けた。
これは――事実上、就労不可と言われているのに等しい。
社会人となってから、身体一つを糧にして生きてきた男に、それが無理なら、一体何が出来るというのか?
ましてや、《たかだか》定時性高校を卒業した程度の学歴で、何か、特殊な知識や経験は持っておらず、そういう技能がある訳でもなくて、今なら、そこに"片麻痺"という重いハンデが付いて来る――
確かに、発症当初の時とは違い――今の優斗は歩けるし、パソコン等もある程度は扱えるし、会話だって意思疎通が困難な状態でもないが――仕事に就く、働くというコトは……何事も、
残念ながら、今の優斗の状態や技能が、それに適うとは言い難い……それは、たとえ身体障害者手帳の恩恵で、給与の一部を国の負担して補助したとしても――だ。
そんな者を、すんなり雇おうする様な雇用主が居たならば、それは、余程奇特な人物だと言えよう。
つまり、優斗はもう……働く事は出来ないのである。
"する事が無い"のではなく、"したい事が出来ない"――"働けない"優斗と、"走れない"クロテン……一人と一頭の状況は実に似ている。
4ヶ月に及んだ入院生活から脱し、念願叶って帰宅した優斗ではあったが――帰ってみれば、この通りである。
「はぁ……」
――と、溜め息を吐き、優斗はルルの背中を撫でながら、テレビから流れる時代劇の再放送を眺めていた。
コンコン――
その時、部屋のドアを叩く音がした。
(――?、誰だ?)
優斗は訝し気に――
「は~い!」
――と応える。
「……んっ!、……たしぃ~!」
このボロいアパートは意外と防音が効いていて、よく聞き取れない。
「――よいしょっと」
優斗はベッドに手を乗せ、そこで身体を支えながらゆっくり立ち上がる。
(――ったく、誰だよ?)
優斗は心の中でそう愚痴りながら玄関に向う――相変わらずの、まるで千鳥足の様なスタイルで。
壁や冷蔵庫――食器棚など、掴まるモノに事欠かない、この狭い部屋の中では杖は要らなかった――いや、むしろ邪魔である。
(鍵は開いてるんだし、叔母さんたちなら、勝手に入ってくるだろうしなぁ……セールス、かぁ?)
玄関に近付くと、少しだけこの来客者の応答が聞き取り易くなってきた。
「……しぃなぁ~?、表札には確かに――」
――どうやら、女の声である。
「
セールスだと早合点した優斗は、迷惑なので撃退しようと、わざと喋り辛いフリをした。
「――えっ?!、ちょっ――!」
セールスらしき女は、去るどころか慌て出し、ドアノブを回して勝手にドアを開けたっ!
「――へっ?!、とっ、とっと!」
ドアノブに手を伸ばしていた優斗は、急にドアが開いた事で、出した手が空振りになってバランスを崩したっ!
「ユウくんっ!!!!!、どうしたの!?!?!?、――って、うわぁっ!」
ガバッ!
セールスらしき女――いや、このセリフを見れば、もう匂わせは、結構であろう……奈津美は、玄関から倒れてきた優斗を咄嗟に支えた。
「あっ!、危ねぇ~――って、ナツ?!」
「だっ!、大丈夫?!、ユウくん!」
玄関を境に、抱き合う格好になった二人を、部屋の中から観たルルは、不思議そうに――ワン?、と鳴いた。
「……」
優斗の両親の仏壇の前に座り、線香を立てた奈津美は、深く――そして、ゆっくりと合掌した。
(おじさん、お久しぶりです――おばさん、今まで来なくてすいませんでした)
「ナツ、これにお湯――淹れて、好きなモノを飲んでくれ」
合掌を終えた奈津美に、優斗はマグカップを差し出し、テーブルに置いてある電気ポットやお茶、インスタントコーヒーやらが乗せられているトレイを指差した。
「ホントは、俺が淹れて、もてなすモンだが――」
このポットやティーセット群は、不自由な優斗の身体を補うためのモノだ。
常にフラフラで、千鳥足な優斗は――液体が入った、マグカップなどを持つと溢してしまう。
そのため、ガッチリ蓋が閉まるポットを用意し、それを使って水を汲んで、沸かしている。
これならば、テーブル内で事が足りるからである。
「――ううん、気にしないで。
じゃあ、お言葉に甘えて……」
奈津美はインスタントコーヒーを取り、マグカップに入れてお湯を注いだ。
対して優斗も、自分のカップにもお湯を淹れる――だが、中身は空だ。
優斗が呑んでいるのは、白湯である。
お茶やコーヒーは、たとえ一時でも血圧が上がるコトを恐れ、飲まない様にしている。
特に、コーヒーは――発症した時を思い出してしまい、どうにも受け付けなくなってしまった。
側で香りを嗅いでも――という訳ではないが。
コーヒーを一口飲み、一息吐いた奈津美は――
「もう~、ビックリしたよぉ。
話しっぷりが変だから、中で再発してるかと」
「だから言っただろ~?、セールス対策だって」
「あれはやり過ぎっ!、背筋が凍ったよぉ、ホント」
――彼女は膨れっ面で、もう一口飲む。
「それにしても、よく解かったな、このアパートだって」
「うん、住所は覚えてたから、探せば解かるかなぁと思って」
「……お前、それは個人情報の悪用じゃねえの?」
「えへへっ♪、だね♪
大丈夫だよぉ~っ!、他には、ちゃ~んと隠してるから」
「当たり前だろ――ってか、こうして自分で利用しちゃうのもダメだろうよ」
「え~っ?、ユウくんと私の仲なら良いでしょ?」
「どういう仲だよ」
退院してから、約2ヶ月――久しぶりのやり取りである。
「――で?、用件は?、今日、休みなのは何となく解かるが」
優斗は白湯で喉を潤し、奈津美の急な訪問の理由を知りたがった。
「うん、ほら、最後の日――約束したでしょ?、春天の予想が当ったら、何かお礼するって」
――確かに、最後のリハビリの時、奈津美は春の天皇賞で優斗の推奨馬のおかげで馬券を獲れたら、お礼をすると口にしていた。
その春天の結果といえば――優斗が一番に推していた、10番人気のジャイアントルーラーが、最後の直線から怒涛の追い込みを見せて勝利し、連れて伸びてきた8番人気のブルーライオットが2着、大外枠を引いた事で3番人気にまで評価を落としていた、モルトボーノが3着を死守して、3連単は20万円を超える高配当となっていた。
3着までに入線したのは、全て、優斗がオススメした馬たちである!
「えっ……あれ、獲ってたの?!、ワイド?、単勝?」
「ふっふっふっ~っ!。三っ!、連っ、た~んっ!」
奈津美は、満面の笑みでVサインを見せた。
「?!、マジでっ?!」
「うん♪、デイルームで患者さんと観てて、震えたよ~っ!!、ゴールの瞬間はっ!」
「どう、買ったんだ?」
「モルトとルーラーの2頭軸マルチ!、相手がライジング、ルーカスにフラッシュ――それにライオット!」
「よく、ルーラーを軸にしたなぁ~!
10番人気と聞いて、『さすがに狙い過ぎただったかな?』って、教えた本人が思ってたのに」
「ユウくんに言われて、ど~にも気になってさ、だから、ライオットも足したんだよね~」
超が付く、万馬券を当てた武勇伝を語る、奈津美の顔は緩みっぱなしである。
「だから、ユウくんにお礼がしたくて、部屋を探し当てたわけよ」
「ふ~ん、そっか――でも、いらないよ。
あくまでも、リハビリの中での
「これは――小野療法士じゃなくて、幼馴染のナツの気持ち、だよ?」
奈津美は、真剣な表情で優斗を見詰める。
その強い眼差しに折れた優斗は――
「解かった、貰うよ。
でも、春天からもうすぐ2ヶ月だぜ?、随分――後回しにされたなぁ」
優斗は、左手で頬杖を突き、奈津美の瞳を覗き込む。
「うっ……わっ、私も忙しかったし、さっきのハナシの通り、個人情報だからなぁ――って、ちょっとは悩んでたんだよっ!」
奈津美は、頬を膨らませて反論し――
「そっ――それにぃ……」
――急に赤面し、恥ずかしそうに目を逸らした。
「かっ、カラダ、とかをぉ……要求されたら、って」
奈津美は、小指の爪を噛んでそう言った。
「……」
――だが、優斗は驚くどころか、冷ややかな目線を奈津美に送っている…
「――あれっ?」
奈津美は、チラッと優斗のそんな表情を見て、拍子抜けな顔をした。
「それ――浅井さんの入れ知恵だろ?」
「えっ?!」
「名演技だったけど、あの3ヶ月でもう慣れた……この手の下ネタには」
優斗は冷徹に、奈津美の演技を糾弾した。
「うっ……バレてた?」
「俺が喜ぶかと思ったのかぁ?、第一、今の俺が"そんなコト"に及んだら、興奮して最中に、再発でもしたらどうすんだよ…」
「あははぁ……冷静な分析、恐れ入りました!」
奈津美は、観念して頭を下げる。
「――でも、色気が無いと言われる私でも、ユウくんは――興奮、してくれるってコトなんだ?」
続けて奈津美は、悪戯な笑みを見せ、優斗の顔を上目遣いに覗き込む。
「な――っ!、ナツ~!」
「あはは!」
二人の、少し下品な化かし合いは、どうやら奈津美の逆転勝ちの様である。
「――さて、とりあえず、どっか行かない?」
「えっ?」
「どっか遊びに行ってぇ~、一緒に食事でもして――全部、オゴるからさぁ、それが
「はぁっ!?」
「あんまり外出、出来てないだろうなと思って――憂さ晴らし、しよ?」
「おっ!、お前――何、言ってんのか、解かってんのか?」
優斗は、呆気に獲られていた…
これではまるで――正真証明の"デート"のお誘いである。
だが、奈津美は――
「もちろん、私が運転するし、障害のコトもプロの私が付いていれば安心――でしょ?」
――優斗の心配材料は、行動力の方であると思っている。
「いや、そうじゃなくて――」
優斗は呆れ、反論しようと思ったが――
(……ナツにとって、俺は、今でも"ユウくん"なのかもな)
――と、自戒し、その先を言うのは止めた。
「――解かったよ、ゴチになります!、奈津美さま!」
「よろしい!、――で、実は行きたいトコ、あるんだぁ~!」
「どこだよ?」
「――ユウくんとしか、行っても楽しめないトコだよ~っ!」
「?」
「――ホテルXYZ」
「もう、下ネタはいらん!」
パッシ~ン!
優斗は、右手で奈津美の手の甲を叩いた。
「いった~――くない!?」
「当然だ!、不自由な方で叩いたもの」
ちなみに、『ホテルXYZ』というのは――晴部市にあるラブホテルの名前だ。
そのラブホが有るのは――なんと!、中学の通学路(※さらにちなみに、それは二人が通ってた中学)という、教育上、ヒジョ~に好ましくない施設として有名である。
「えへへ♪、来る時にXYZの前を通ったら、懐かしくて」
「懐かしがるな!、あれは、地元の大問題なんだからっ!」
「――冗談はさておき、ホントはココへ、一緒に行きたいんだ」
奈津美はバッグから、雑誌を取り出した。
「……週刊キャンター?」
週刊キャンターとは、毎週月曜日に刊行されている競馬雑誌である。
「ココ観て!、ココ!」
奈津美はペラペラとめくって、優斗に渡す。
そこには――
『アカツキが生で観られる!
ドバイWCを制覇し、次なる目標、凱旋門賞に向けて休養中のアカツキ。
白畑F成実分場にて、公開展示始まる』
――という、記事が書かれている!
「へ……?、ココって、元はクロダ牧場の――」
「――でしょ?、ぜひ、観に行きたくてさ。
それで、場所とか、ユウくんに詳しく、教えて欲しくてね」
「なるほど、本心はそれね」
「えへへ♪、どう?、行きたくない――かな?
今日なら月曜日だから、比較的空いてそうだし……ね?」
奈津美は、すがる様に優斗の瞳を見詰める。
確かに、単身では満足に外出出来ない身体ではあるし、付き添ってくれるのはプロである奈津美というのは、願っても無い好条件である。
「解かった――行こうか」
「やったあ!」
奈津美は満面の笑みで手を一つ、叩いて見せた。
二人は、成実分場に向う事となった――そこに、クロテンも居るとは知らずに。
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