復帰戦

本場場入場と返し馬を終え、翼が駆るクロテンは、スタート地点の手前にある待機所で輪乗りを行っていた。



その最中、少し苛立つ素振りを見せたクロテンをなだめ様と、鞍上の翼は、クロテンの首筋を撫でながら、彼の耳元に顔を近づけて――


「ふふ♪、テンくんも、一緒に緊張してくれてるのかな?」


――と、口元を綻ばせ、小さな声でささやいた。


「それとも――久し振りのレースだから、嬉しくて興奮してるの?」



この、騎乗馬に対する語り掛けは、翼にとって、レースに赴くまでのある種の"ルーティーン"である。


この馬との会話の様なやり取りで、自らの緊張を和らげ、穏やかな気持ちで、スタートまでを過ごす事が出来るらしい。



「テンくんが、始めてレースを走ったのも、このコースだったよね……初めてのレースでのイヤなコトでも思い出しちゃったかな?」


翼が、この自制法に至ったのは、あの大スランプの途中だった北海道遠征――詳しくは、クロテンと再会したあの週、クロダスイメイに騎乗した時である。


その時の輪乗りの中、スイメイに成実分場で観た彼の生産牧場ふるさとの景色の事を、何の気無しに語りかけると、何かが吹っ切れた様な感覚を覚え、僅差の2着に食い込むという手応えのある騎乗が出来た。


それ以来、翼は騎乗馬が決まると、何か騎乗馬との"話題ネタ"を見つけるのが、恒例となっている。



「ふふ♪、ゴメン、ゴメン。


コレじゃあ、思い出させたのはワタシかぁ♪」


――どうやら、この馬との談笑風景……特にこうして、翼が時々見せる笑顔は、ファンから見ればかなり"萌える"らしく、ファンの間では『馬上の天使』という異名から『エンジェルスマイル』などと呼ばれている。





「――キタ~!、エンジェルスマイル!


コレを、こんなに早く重賞で観れるとはねぇ~っ!」



――場面は替わって、ここは優斗の部屋じたくだ。



だが、テレビの前で、そう身悶えしているのはっ!、優斗――



"萌えている"のは、なんと奈津美である。



奈津美は、優斗からクロテンの応援馬券(※単勝と複勝をセットで買え、券面に『がんばれ!』と表示される馬券)を買って来る事を頼まれ、その応援馬券を届けたついでに、部屋に上がり込んで競馬中継をテレビ観戦していた。


「ナツ――ソレ"引く"わ……」


優斗は、呆れた顔で奈津美の後ろ姿を見ていた…


「うん!、だから、この様子は二人だけの秘密ね♪」


奈津美はそう言って、ウインクをしながらペロッと舌を出した。



あの、成実分場での出会い以来――奈津美は、すっかり翼の大ファンとなってしまった。


出馬表に『麻生』の名前があると、ついついポチッとPATの購入ボタンを押してしまうほどである。



「そうは言っても、ユウくんだって、翼ちゃんのコト、好きなんじゃないのぉ~?


翼ちゃんに手を握られた時、ミョ~に照れてたし」


「あっ、あれは――誰でも照れるだろう。


あんな可愛い娘に、真剣な顔で見つめられながらじゃなぁ」


「あっ――可愛いと思ってるコトは、認めるんだ?」


「うっ、うるさい!、もうすぐ発走だぞ!、レース観ろ!、レース!」


優斗は、左手を大きく振って、話を打ち切った。


そして、優斗はテレビ画面を凝視して――


(さて――いよいよだな、テンユウ。


多くは望まない……ただ無事に、ゴールまで走りきってくれるだけで)


――そう、心の中でつぶやいた。




『――福島競馬、第11レェ~ス、第…回、福島記念、GⅢ!


出走各馬、順調にゲートに収まって行きます――1番人気は7番、クロダテンユウ……鞍上の麻生騎手は、重賞グレードレース初騎乗であります。


――最後に、14番のオリオンミューズ収まって――スタートしましたっ!」



――ガッシャン!、ドドドドドドッ……




「まずは各馬、スタート揃いました――さて、内から予想通り、ライゼルアローが出て参りました。


続いて、外からはオリオンミューズ――オージバズーカは中団に着けて、その内からトモエゴゼン、その後ろにホリノブラボー……さて、1番人気のクロダテンユウと麻生翼は――お~っと?!、最後方にまで下げました!、これはダッシュが点かないのかぁ~!?」



クロテンは、想像していなかった翼からの指示に、戸惑いを見せていた。



(――焦っちゃ、ダ~メッ!)



翼は、そんな意思を示して、手綱を軽く引いている。



(まだ、体力は戻りきっていないんだから、とりあえずゆっくり――じっくり走ろう。


先生も、無理せずに今、どれだけ走れるのかを見たいんだからね?)



海野の指示はこうだ。



「競馬場の空気を、思い出させるぐらいで、丁度良いと思っているから、結果は問わない――翼さんが、思うように走らせてくれれば。


――ただ、一つだけ要望を挙げるなら、今の彼の限界が知りたい……どれぐらい、ラストスパートの脚が使えるのかを」



(道中はゆっくり――徐々にペースを上げて、最後のラストスパートを見せよう!)



翼が選んだ戦法は、今までの様な前から2~5番手を追走して粘り込む先行策ではなく、後方に待機して末脚の鋭さに賭ける追い込み策だった。


急仕上げのトレーニング不足から、まだ体力スタミナ面で好調期には及ばないクロテンの現状と、その中で、海野のオーダーに応える点に力点を置いた策である。



翼は――戦法を考える上で、クロテンに騎乗しての勝利経験がある、栗野や関にも教えを請うた。



栗野からは――


「あの馬には強い指示は必要無い。


抽象的な表現にはなってしまうが、手綱に"意思を込める"だけで、鞍上の思惑を理解し、順応出来る賢さがある。


ああいう馬に、体力を温存させたいのなら――無理に手綱を引くより、鞍上コチラが走り易くさせてやる事で、負担を軽くしてあげれば良い」



関からは――


「栗野さんにそう言われたかぁ……なら、一つだけ忠告!


レースだと、アイツは調教と微妙にスパート時のフォームが違うから、タイミングの合わせ方に注意した方が良いよ?


そうしたら、""、翼ちゃんでも楽になるだろうし」



(関さんの言った通りだぁ……テンくんは、レースだと馬体からだを、いつもより大きく使うんだねっ!、おかげで、私は体重移動に集中出来る。


それに、ホントに私の気持ちも解ってくれてるっ!、指示通りに脚を溜めてくれて!)


翼は、まさに『人馬一体』の境地を感じ、頬を綻ばせた。

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