読了

ポカポカとした日差しに包まれ、木々には満開の桜花が咲き乱れている。


暖かい……心根からそう思える気候と風情だ。



だが、ココは北海道――時節は、既に5月である。



優斗の退院が決まってから、その目安となった1ヶ月は、早くも経とうとしている。


その優斗はといえば――ジャリ、ジャリっと、砂利を踏みしめ、泉別病院の敷地を歩いていた。



そう――優斗は、ついに屋外での歩行を始めている。


積雪が0cmと観測され始めた、2週間ほど前から――優斗は、ほぼ毎日、このリハビリに取組んでいた。



「砂利道はバランスを崩し易いですから、ゆっくりですよ」



付き添っているのは、理学療法担当の浅井香。


方針説明の時にも書いたが、奈津美と同期の療法士――つまり、優斗や奈津美と同じ年齢だ。



二人と決定的に違うのは――


「おっ!、――っと」


優斗の、不自由な右足が砂利の上に乗ってしまい、バランスを崩した。


「あっ!、大丈夫ですか?!」


浅井は、咄嗟に優斗の身体を支えるため、わざとではないにしろ、優斗の腰に手を回す形になる。


「バランスを保つために、腰の動きを意識して歩いてみてください」


浅井はそう言いながら、ミョ~に艶かしく写る手付きで、優斗の腰を撫でた。



「浅井さん――手付き、ヤラしいよ」


――と、優斗は少し、拒否反応を示した。


「あら?、そう?」


「新婚さんが、仕事とはいえ――同年代の男にさ」


――そう、決定的な違いとは……既婚者だという事である。



「大丈夫、ダイジョブ!、ダンナのお尻なら、もっと《ハードに》、より《セクシーに》撫でますからぁ~!」


浅井は、そう言ってケラケラと笑った。



浅井のリハビリでは、必ず一つは、"下ネタ"を仕込まれる――特に、相手が優斗の時は。


話し易い雰囲気を意識しての行動だとは思うが、彼女自身が、そういう呆気羅漢とした性格が基礎なのは間違いない。



(子供の頃と、奈津美の印象が大幅に変ったのは――この女性ひとの影響かもな)


――と、優斗は結論付けている。



子供の頃の奈津美は大人しい性格で、非常にいわゆる"女の子らしい"印象だった。



就学後も、いわゆる優等生タイプ――そんな奈津美が、現在の様に話題豊富で、下ネタにも対応出来るウィットに富んだ返しが出来る様になったのは、只の人生経験だけに因るモノではないのだろう。



「――よ~し、そろそろ戻りましょうか」


「はい」


「"人妻"との、最後の歩行訓練デート――いかがでした?」



浅井はまた、下ネタをミサイルの様に打ち込んで来る。


そして――"最後"とも言ったが、これは優斗が明日、退院するからだ。


自宅で倒れてから約4ヶ月――、である。



「あ~、悪いね。


そういうシュミは無いんだわ」


「あら、残念――やっぱり、ナッちゃんじゃないとダメかぁ~♪」


「はい~?」


優斗は顔をしかめて浅井の顔を見る。



「まだ疑ってんの?、俺とナツの事」


「ええ、お二人、お似合いですものぉ~!」


浅井は恥ずかしがる演技をして、身悶えしてみせる。


「リハビリ終わって、病室に送る時のカンジなんてぇ~!、デート帰りのカップル、そのものですよ?」


「んな訳あるかいっ!」


優斗は呆れ顔で、先に病棟の方に歩き出した。


「ホントに~?、なんて、信じられない雰囲気ですよ?」



そう――あの『奈津美の元カレ』というデマを流した、張本人も彼女である。


奈津美が、優斗とは幼馴染である事を、最初に話したのが――彼女だった事が最大のミスであろう。



「確か――戻ったら、そのままナッちゃんのトコロですよね?、最後の」


「ああ、そうだよ」


「……ありますね!、16年越しの告白!


『私――ユウくんの事、好きだったの!』


――って!」



浅井は奈津美のモノマネを交えて、また恥ずかしそうな演技をした…


「浅井さん――もう、勘弁してよぉ……俺もナツも、いい歳なんだからさぁ」


優斗は投げやりにそう言って、この話を打ち切った。



浅井と別れた後、優斗は言語療法室にやって来た。



「あっ――ユウくん……」


職員用のパソコンがある小部屋に居た奈津美は、直ぐに優斗の来訪に気付き、いつもの様に出迎えた。



(……ん?)


だが、優斗は少しだけ、違う雰囲気を奈津美に感じた。


「じゃあ……今日は、2番にしようか」


空室だという事を現す、開けられた個室のドアを指し、奈津美は優斗を中に促がす。


これもまた、いつも通りに優斗を座らせ、奈津美は個室のドアを閉め、机を挟んだ真向かえに座った。



「――さて、最後……だね」


――と、奈津美は物憂げに優斗の顔を見詰め、そう話を切り出した…



(おいおい……何で、"物憂げ"なんだよ)


優斗は、奈津美の表情に疑問を抱く。


(まっ、まさか……?!、いや!、ありえない!)


優斗の脳裏に、先程の浅井のモノマネが浮かぶ。


(ナッ……ナツが、いくら彼氏募集中だからって――俺は片麻痺だし、患者だぜ?!、それは俺の自意識過剰だ!)


――と、続けて心中の自分に言い聞かせる。


(だいたい百歩――いや、"一億歩"譲って、こっ……!、告って来たとしたら、馬鹿にするのも大概にしろっ!、――てモンだっ!)



「ユウくん――」


(やっ!、やめろ!、そんな眼で観るな!、落ち着け!、落ち着けー!、ナツぅ~っ!)


「――ご苦労様、おめでとう」


――と、奈津美は優斗に握手を求めた。



(へっ?!)


奈津美は、笑顔で左手を差し出している。


「あっ、ああ……ありが、とう)


少し、拍子抜けした表情ではあるが、優斗もそれに応じた。



「……?、どしたの?」


優斗のそんな反応に気付いた奈津美は、不思議そうに優斗の顔を覗き込む。


「いやっ、何でもないよ――ナッ、ナツが、どうも寂しげな顔してるから、どうかしたのかと……な?」


優斗は、奈津美の様子を見た心境を、80%ぐらいまで吐露した。


「そりゃあ……寂しいよ。


今日で――ユウくんとのリハビリが、最後だと思うとね」


奈津美は、またも物憂げな表情を見せ――


「――だって、ユウくんの時、楽でしょ?、楽しく会話するだけだからさ」


「――へっ?」


奈津美の爆弾発言に、優斗は先程以上に拍子抜けしている。


「あ~あ、忙しくなっちゃうなぁ……」


――と、不機嫌そうに、カレンダーと壁掛け時計を見詰める奈津美である。



「お前――俺の時は、そういう気持ちだったの?」


「えへへ♪、冗談に決まってるでしょ?


――純粋に、良かったと思ってるんだよ……ユウくんの辛さも、解かるからね」


「……そうか」


優斗は、安堵する。



「それにしても――よく持ったよね、話題が尽きずに」


「そうだよな――3ヶ月も、よく話すネタがあったもんだ」


「やっぱり、ユウくんが競馬好きなのは大きかったなぁ……二人で検討して、予想対決して」


「おかげで、退屈はしなかったよ」


「――あんなトコロ、偉い人に知られたらと思うと、ゾッとするけどね」


奈津美は急に小声にして、口元に指を立てる。


「でも、こうして効果出たんだから――」


「――そう言って貰えると、嬉しいな」



「――で、どうなんだ?、療法士プロの目から見て、俺の回復程度仕上がりはさ?」


優斗の質問に奈津美は――


「グッ~ドだよ!、ユウくん!」


――と、親指を立て『Good!』のポーズで応じる。


「ほとんど会話に困らないレベルだものっ!、言語療法士として、これほど満足出来る状態で、送り出せる事は中々無いよ!」


「そっか――"太鼓判"って訳な?」


「うんっ!」


二人は笑顔で、この結果を喜んだ。



「――さあて、最後の今日も……やっぱり競馬の話しようか?、3日後は春天だし」



そう、優斗が退院する明日は金曜日で、3日後の日曜日には春の天皇賞が京都競馬場で行われる。


「さっき、ユウくんを待ってた時、観てたよ、枠順」


「そうか――目立ったトコロは?」


「うん――重い印が押されてる辺りでは、ライジングサンが3枠6番、大阪杯を勝ったナイトセイバーは7枠14番で、モルトボーノは大外8枠18番――」


奈津美はスマホを取り出し、発表された枠順をざっと教えながら、優斗に渡す。


「モルトボーノだと思ってたんだけど……こうなると、ライジングサンなのかなぁ?、捌き易いポジションだし」


「いや、モルトは苦にしないだろう――3000m級に、枠はあんま関係無く思うし、菊でも外を回して飛んで来てたしな」


「うん、軽くは見れないよねぇ~……ユウくんは?、イチオシは何?」


「そうだなぁ、俺なら――」


優斗が枠順を見て出した結論は――


「――ジャイアントルーラー、かな」



「え~~~?!」


優斗の考えを聞いて、奈津美は直ぐ非難の声を挙げる。


「ルーラーは距離、長いでしょ?、それに、ベストな条件の大阪杯でも、3着がやっとだったし」


「――いや、逆に中距離じゃ短いんだよ。


ルーラーが3着に絡んだGⅠ、思い出してみ?」


「え~っと……ダービー、有馬で2回――これで3回で、去年の宝塚で4回目――あっ?!」


指折り数えて思い起こした奈津美はある事に気付く。



「そっ、全部2200m以上……逆に、2000mの皐月や、2度の秋天では着外。


菊と、2度の春天でも着外だったから――安田と両睨みなんてハナシが出たんだろうけど、あれは単に、流れが向かなかっただけだと思う」


優斗は借りたスマホを奈津美に返し、さらに持論を展開する。


「今年は、人気必至のライジングとセイバーが好位に居て、逃げるのはレーザー――前は早いよ、きっと」


奈津美は腕を組んで、優斗の意見を聞いた。


「――くっ、悔しいけど、説得力ある……外せなくなっちゃったよ~!」


「日経賞組で警戒するなら、ライジングよりブルーライオットだよ。


競り負けて4着だったけど、ライジングが残った事や……」


優斗は、次に挙げるつもりの馬名を言う事を、少しだけ躊躇った。


「……テンユウの事を加味すれば――良い伸び脚だったから、巻き返しがコワイぜ?」



(――ユウくん)


奈津美はまた、悔いた。


今度は――を思い出させる話題を、振ってしまった事を。



「そうだね、警戒するよ――当ったら、何かお礼するね」


「何言ってんだ?、今日で最後だぜ?」


「あっ――そっか、そうだよね……」


その後も、今週のレースについて話し、最後の時間はあっという間に過ぎた。



「あっ、もう――時間だね」


奈津美は時計を見上げ、優斗に時間を知らせる。


「そうか、これで全部――終了だな」


優斗は、笑顔と安堵が混じった表情である。


「あ~!、やっぱ休み、替わって貰えば良かったかなぁ~」


奈津美は、優斗との別れを悔いてそう言った。



奈津美は――明日、非番なのである。



「ナツ、ヘタにヒマだからって、見送りに来るなよ?、"あのウワサ"が……」


「うん……わかってる。


だから――替わって貰うのを、やめたんだけどね」



最後まで――"あのウワサ"に、振り回された二人である。



「ナツ、ご苦労様、世話になった」


「うん――ユウくんも、元気でね……」


二人は握手を交わす――今度は、優斗が不自由な右手の方で。






奈津美との、最後の会話リハビリを終えた優斗は、一旦病室に戻り――荷物を持つ動作を補うために用意した、ショルダーバックに入浴道具や着替えを入れ、大浴場に向った。



優斗は、退院するまでの課題でもあった、入浴の自立も既に問題なくクリアしていた。


創設当初から、温泉療法にも取組んでいる泉別病院には、大浴場が併設されている。


入院患者は、申告すれば何時でも入浴はいるのが許されていて、優斗は一人で入浴が出来るようになってからは、毎日利用している。


それはもちろん、汗を流す目的でもあるが、あまり優斗の脳障害ケースには関係無いのかも知れないが、温泉の効能にも期待した節がある行動だ。



ガラガラガラ――



脱衣所の扉を開けると、時間がまだ早いせいか、一人も先客はおらず、優斗一人だった。


ここに来る前から、着替えは出来るようになっていたので、一人で脱衣するのはお手のもの。


この不自由な身体の扱い方も、妙にコツを掴んでいて、実に慣れた手つきで全裸になる。



浴場に入ると、ムハァ……とした温泉特有の硫黄のニオイが充満していて、何とも言えないその香りに、優斗は顔をしかめる。


浴場に、杖を持って入る事はさすがに出来ないので、半ば千鳥足に見える、このあやふな自分の足どりをゆっくり――そして、慎重になだめ、時間を掛けて洗い場にたどり着いた。



その後、一通り身体を洗い、さっぱりしたこの次は、いよいよ入浴。


無理に立ち上がり、歩いて湯船に向うのは危険なので、優斗は湯船に取り付けられている手すりまで這って行き、手すりに掴まってゆっくり立ち上がる。



ザバッァァァッ――



ここでもまた、一歩一歩、ゆっくり――優斗は、湯船内の段差を降りる。



「――ふぅ」


浸かり終えた優斗は、自在ではないその右手を使い、左肩に湯をかける。



(――なんだかんだで、ここに来るのは、正解だったんだなぁ)


優斗は、天井を見上げ、ここに来てからの約3ヶ月の日々を思い起こす。



来た時は立ち上がる事も出来ず、車椅子に乗って来ていた――それが、今やこうして一人で風呂に入れるまでに回復――あの姿を思い起こすと、あれは夢だったのかと思う程だ。



――だが、言い換えれば、晴部に居た分も含め、4ヶ月を労しても――《この程度》しか戻す事は出来ずにいる。


それが、自分に生じた"枷"なのだろうと、優斗は思う。



(――とにかく、この"闘病って言う題の小説ものがたり"は、明日で"第一章"の読了だな)


優斗は、パシャパシャと、今度は顔に湯をかける。


(……まあ、これからは、どこに"END"の文字が、隠されているのか判らない――そんな、意地の悪い第二章が待ってるんだろうけど)


大浴場の窓から見える月を見上げ、優斗はそんな事を湯船で思っていた。

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