第47話

 その日は、数学をしなかった。

 朝起きて、街の見える丘まで散歩して、アルと一緒に空と街を眺めた。

 ギムナジウムで子供達と、夕方まで遊んだ。

 街に戻ると、円周率を測定した通りを歩いて、中央の公園まで行った。

 あんなに青かった空は、赤と藍色に変わっている。

 昼が終わり、夜が始まろうとしている。

 一呼吸。

 そうして、夜になった。

 20 年前。

 私はここで、アルとアリスさんに出会った。

 なにも分からずに、ただ問題だけを解きたくて、図書館テレリアの一員になった。

 あの頃の私は、純粋だった。

 ただ、問題だけを見ていた。

 いつからだろう。

 問題を解くことよりも、その問題に隠れた関係性や神秘性の方に興味が変わったのは。

 私が解かなくても、他の誰か早く正確に解いてくれる。そう思うようになったのは。

 誰かの背中を見ながら、道を歩くようになったのは。

 ふっ、と笑った。


「まぁ、いっか」


 過去は過去だ。

 過去とけじめをつけるために、ここに来たのだから。


「なんだ、ジオじゃないか」


 顔をあげると、そこにはアリスさんが立っていた。


「どうした、こんなところで」

「昔を懐かしみに」

「面白い冗談だな」

「本気ですよ」

「疲れてんのか?」

「まさかアリスさん、忘れてるんですか?」

「忘れるかよ」


 そう言って、口の端をあげた。


「証明できない。だから否定できない。なんてな。年齢のわりに、ずいぶんとイカれたことを真顔で言う子供だった」

「そうですよね。良く口が回ったものです。当時の自分を誉めてあげたい」

「昔のお前は、なんでも質問して。分からないと突っかかってきたりもして。手がつけられなかったな」

「なんにも知らなかったですから。怖いものなんてなかった」

「それが、今じゃ、三大問題に挑戦するまでになった」

「時間がかかりましたけどね」

「解けたのか?」

「明日。お話しします」


 アリスさんは溜め息のように笑った。


「まぁ、どっちでもいいさ」

「すみません、アリスさん」

「なんだ?」

「どうして、 √ の研究をしてはいけないことにしたんですか?」

「まだ、納得してないのか」

「たぶん、一生無理でしょうね。ここで、ちゃんと説明してもらわない限りは」

「生意気言うじゃないか」


 それから、指で地面に式を書き始めた。


 √2 = 1  +                 1

         2  +        1――――――――――――――――――――――――――――――――

               2  +      1―――――――――――――――――――

                    2 + …―――――――――――

 ちょっと。待って。


「これは……」

「そう。 √2 をあの分数を重ねるやり方で表したものだ」


 なんで?

 だってアリスさんは。


「お前は、少し勘違いをしている。オレはあの時、書き残すな、と言っただけだ」


 アリスさんが、こちらを見ていった。


「研究するな、とは言っていない」


 確かに、そうだった。

 アリスさんは、書き残すな、としかいっていなかった。

 アリスさんは、禁止はしていなかった。


「まぁ、わざと勘違いしゃすいように伝えたことは、確かだ」

「――すっかり騙されました」


 アリスさんは笑った。

 それから。


「なんだ。まだ聞きたいことがあるような顔をしているな」

「はい。――アルのことも、聞いていいですか?」

「それこそ、お前が無知だからだ」

「すみません。お願いです。教えてください」


 アリスさんは溜め息ひとつ。


「時代と、場所が合わなかった。そういう話だ」


 それから。


「確かに、オレの数学は国を背負っている。でも、そんなのは方便だ。オレは結局、オレのために、数学を独占している。自覚ぐらいしているさ」


 そういって、苦笑。


「数学は時代の発展にかかせない道具だ。だが、それが広がって、みんなが数学を扱えるようになったら、どうなる?」

「もっと高度な数学が生まれると思います」

「そうだな。たぶんそうだろう」


 アリスさんは、私を見た。


「そんな数学が当たり前になった世界で、数学だけしか取り柄のない人間が、生きていけるか?」


 アリスさんの言いたいことはわかった。

 もし数学が特別な能力ではなく、当たり前の能力になったとしたら。私みたいな数学以外になにも持っていない人間は、生きていけない。


「オレは、オレの見える範囲では、そうしたくなかった。そういう話だ。アルはそれを分かっていた。そして同時に、自分のやりたいことも分かっていた。図書館テレリアと自分の理想を天秤にかけて、それで、図書館テレリアを出る選択をした。だからオレは、見送った。そういう話だ」


 アリスさんは、ふっと笑った。

 その表情は、諦めと、憧れと、後悔と。

 そんな、感情がない交ぜになっているようだった。

 その表情をみて、思わず言葉が出た。


「すみません。私は、なにも知らずに」

「安心しろ。お前がなにも知らないのは知っていた。別に大したことじゃない。それよりもだ。お前は納得したのか?」


 そちらの方が、大切だ。

 そういっているようだった。


「はい。納得しました」それから。

「ありがとうございます。スッキリしました」

「それは良かった」


 そういうとアリスさんは立ち上がった。


「夜は冷える。早く帰れよ」


 そう言って、背中で手を振った。

 残された私は、アリスさんが書いた式を見た。

 その式を、愛でるように、撫で消した。


「――さて」


 私も帰ろう。

 明日のために、今日は良く眠ろう。


 ――今日は良い日だった。

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