第14話
睡眠は偉大だ。
どんな辛いことでも、一晩寝れば土のなかに埋められる。
なくなった訳じゃないけど。
見なくて済むようになる。
悪いことなんて全部そうだ。
今すぐに解決しないことは、見ないことに限る。
外はもう、日が傾きはじめている。
空の青はその濃さを増し、向こうでは夕焼けの赤に変わっている。
さて、今日を始めよう。
家を出で、糸の調達を行い、
受け付けにはアルが座っている。
アルはこちらを見ると、ひらひらと手を振って言った。
「調子はどう?」
「ああ、一晩寝てスッキリした」
「それは良かった」
「今日は、キセは来たのか?」
「来たよ。ジオに会いたがっていたけど、ジオの様子を話したら納得したみたい。あとはあれだね。正十二角形の一辺の求め方を教えてあげた。目を輝かせながら聞いていたよ。でも、理解するのはもう少しかかりそうかな」
「そうか。元気そうなら良かった」
「うん。そうだね」
よかった。
キセのこともそうだが、アルとも普通に話せた。
だから、このことも、きっと普通に言える。
「今晩、最後の計測をする」
今日すべてを終わらせれば、キセはまだ子供でいられる。
たぶんこれが、一番の方法だ。
「手伝ってくれるか?」
「もちろん」
「ありがとう。今日の測定は二人でやる。精度は落ちるかもしれんが、たぶん出ても 2 , 3cmくらいだろう。このくらいは目をつぶれる範囲だ」
「それでいいの? 誰でもいいから 3 人目をつれてくればいいんじゃない?」
「良くないよ。これはわがままかもしれないけどさ。誰でも良いわけじゃないんだ。円周率を求めることが大切なことだってちゃんとわかっていて、それでいて私が信頼している人間にしか頼みたくない。私一人で全部をできるわけじゃないからさ、出てきた数字を信じるためにも、信頼しているヤツにしか頼まない」
「ジオは本当に、こだわりが強いね。まぁ、ジオの数学だ。ジオが決めれば良いと思うよ」
「ありがとうよ。頼りにしてるぜ」
私は安心した。
たったひとつ、心配していたことがあった。
キセの試験はすでに終わっていること。
これだけが心配だった。
でも、アルは何も言わなかった。
それはきっと、大丈夫、ということなのだろう。
息をひとつ。
それから、糸を結びあわせる。
今日、結果が出る。
円周率へ挑戦も、今日終わる。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
深夜。
人のいない道に、私とアルで立っている。
慣れた手順で、中心角 0.125° を測りとっていく。
そして、ここからが勝負だ。
やることは 3 つ。
1つ。外周から中心にいく。
2つ。中心から反対の外周にいく。
3つ。反対の外周からこの場所に戻ってくる。
この3つの行程を、ミスなくやりとげれば終了だ。
街の外周にいる私の前には、地面に刺さった2つの釘がある。
2つの釘の間はおよそ10m。
これが、正2880角形の一辺だ。
最初のステップ。
この釘の片方を紐を外して、街の中心にいるアルのところまでいく。
でも、ただ行けばいいわけじゃない。
糸が結びつけてある釘が、抜けてはいけない。
釘に結びつけてある糸が切れてはいけない。
移動中に、糸が絡まってはいけない。
いけない、だらけのミッション。
でも、きっとできる。
そう言いきかせて、歩き始めた。
無事、アルのところまで辿り着く。
これで 1 つめが完了。
次だ。
次のステップの肝は、ちょうど反対側で、一直線になるように釘を打たなければならないところだ。アルがいる中心部分で、糸が釘から離れてはいけない。糸が釘から離れるということは、計りとった角度が正しくないことになる。そうならないように、連絡手段が必要だった。
アルから連絡用の糸電話を受け取る。この糸電話があれば、中心と外周で連絡がとれる。数学も素晴らしいが、科学もなかなかな凄いヤツだ。
街の中心から、反対側の外周に向かう。
糸が絡まらないように、神経を酷使しながら、進む。
反対側にも無事到着。
そこで、糸電話を使った。
「こちらジオ。聞こえるか?」
「――・・・・・・――・・・・・・」
糸電話からは何も聞こえなかった。さすがに、5kmでの糸電話は無理だったようだ。
しかたない。プランBだ。
糸電話の糸を地面に置く。そうして大体直線になるまで、手繰り寄せる。
それから釘を地面に刺して、地面に置いた糸を一度引っ張る。
そうしてすこし待つとすると、小刻みに2度、糸が引っ張られた。
「もう少し右。ね」そういう合図だった。
釘を右にずらす。糸を 1 度引っ張る。
今度は1度だけ引っ張り返された。
「今度は左、っと」
そう呟きながら調整する。
それを繰り返すと、最後には 3 回糸が引っ張り返された。
その合図に、にやりとする。
一直線になった証拠だ。
あとは釘が抜けないように、しっかりと地面に打ち込む。
これで 2 つ目も完了。
次で最後だ。
最後は、最初にいた外周に戻るだけ。
アルがこちらに来るのを待って、それから外周に向けて出発した。
糸が絡まってはいけない。
糸が切れてはいけない。
釘が抜けてはいけない。
そう呟きながら、広場を通って、外周に向かう。
あと少し。
もう少し。
駆け出したい気持ちを抑えて、一歩いっぽ確実に進む。
そうして、ゴールを目前にしたときに。
ゴールにあるはずの釘と糸が地面に落ちていた。
釘が。「抜けたんだ」
不思議と、なんの気持ちもわかなかった。
ただ、釘を拾い上げ、それから引っ張った。
これでアルなら、失敗したことに気付くだろう。
「あー。失敗か」
そう思いながら、夜空を見上げて、アルが来るのを待った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
深夜を回って、寒さが厳しくなってきた頃、アルと合流した。
「ダメだったね」
「ああ」それから。
「たぶん、反対側で調節したときに抜けたんだと思う。次は気を付けるし、地面に一生埋め込む気持ちで、深く刺せば大丈夫だ」
それから、アルを見ていった。
「もう一回やる」
アルは何も言わなかった。
「手伝ってくれ」アルの返事を期待して、言った。
「残念だけど、 2 人では無理だよ」
「やればできる」
「いつかはね」
「今日やりきる」
「 3 人いればね。2 人では無理だ」
「――やればできるさ」
アルは首を振った。
それから、一番言われたくないことを、言った。
「ジオは何をしたいの?」
「円周率の計算だ」
「たぶん違うよ」
「違わない」
お願いだ。その話はやめてくれ。
「キセのためだろ。いや、本当はキセのためでさえない。ジオのエゴのためだ。
こうあるべきだ、っていう、誰が決めたかもわからないものに縛られて、他人の人生を自分の思い通りにしようとしている。それが、数学を歪めようとしている。ボクにはそれが、我慢ならないよ」
「じゃあ、どうしろっていうんだよ!」
「決断すれば良い。キセの力を借りて、 3 人で計測をすればいい。それだけだ」
「できるかよっ。キセの年で、夜の世界を知るのだって。そこで働くのだって。いくらなんでも早すぎるっ」
「でも、その決断を、キセはしたんだ。キセ自身のために。その決意を、ジオは踏みにじる気かい?」
「なんとでも言えよっ」
そう吐き捨てた。アルも、深くため息をついた。
平行線だ。
仕方ない。
1 人でやる。
今までもそうしてきたのだから。
「悪かった。もう一人でやるよ」
「頑固者だ」
「そうじゃなかったら、数学はできないよ」
その言葉に、アルは笑った。
「確かにその通りだ」
そうして、私よりも遠いところに、話しかけた。
「ごめんね。ボクにはここまでだった。あとは頼んだよ」
アルの言葉が、私には分からなかった。
それを理解するよりも先に、後ろの暗闇から返事が帰ってきた。
「ありがとうございます」
振り向く。
そこには。
白と黒で正装をした、背の小さい人が立っていた。
「嬉しいです」
それがキセだと分かるまで 3 秒。
「ジオさんに、そこまで想ってもらえたことが」
すべてが繋がり。
「それでもボクは」
あとはもう、声にならなかった。
「ジオさんの想いを裏切ることになっても」
そこいたのは、もう男の子ではなかった。
「知りたいんです。本当の円周率を」
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