第15話

 ――知りたいんです。本当の円周率を。


 その言葉を聞いたとき。

 なぜか、置いていかれた気分になった。

 子供だと思っていた。

 でも目の前のキセは、意思と覚悟の光を目に宿した。

 ひとりの人間だった。

 私は、追い付けなかった。

 逃げるように、言葉が出た。


「どうなっても良いんだな?」

「はい」


 キセの眼に迷いはない。

 私は夜空を見上げた。

 夜の空気を吸い込んで。

 迷いも、想いも。

 全部、溜め息にのせた。

 それから、キセを見た。

 手を差し出した。


「よろしく頼むよ。キセ」


 キセは。「はい」手を握った。

 それを見届けたように。


「ご契約、ありがとうございます」


 突然、暗闇から声が聞こえ、人が現れた。

 キセと揃いの、白と黒の正装。

 細身で長身。

 長い黒髪に青白い肌。

 眼鏡にそばかす。

 冷たく青い目。


「私、ギムナジウムの院長を勤めております」


 その男は綺麗な一礼をすると。


「少し、 2 人でお話させていただいても?」


 その意味を汲み取り、キセに言った。


「アルと 2 人で広間に向かってくれ。道すがら、アルが何をすればいいか教えてくれるはずだ」


 キセは頷くとアルの方に向かった。

 キセはアルに謝るような素振りを見せた。

 アルはきっと、ボクはなにもしてない、全部キセの力だよ。

 なんて言っているのだろう。そうして 2 人は広場に向かって歩き出した。

 残ったのは私と白黒眼鏡の 2 人だけ。

 そうすると、向こうから話しかけてきた。


「貴女に、ぜひお会いしたかった」

「なんでだよ」

「キセが毎日、嬉しそうに報告するんですよ。

 今日はこんなことを教えてもらった。

 今日はこんな問題を出してもらった。

 今はこの問題に取り組んでいる。

 ここまではできたけど、まだ解けていない。

 どんな報告でも、一番最初に貴女の名前が出てくる。

 ジオさんに。ジオさんが。ジオさんと。

 管理者としては、子供の喜ぶ姿は素直に嬉しい。でも反面、疑うんですよ。本当にいい人なのだろうか、って。だから直接お会いしたかった。そして安心しました」

「なんでだよ」

「子供の安全に、心を砕いていたからです」

「もしかして、アルと言い合いをしていたときから、そこにいたのか?」

「アルさんは気づいていたようでしたが、ジオさんはそうではなかったのですね」


 急に恥ずかしくなってきた。


「でも、よかったですよ。私も今回の件については反対でしたから。ジオさんと全く同じ理由で、です」

「じゃあ、なんで許したんだ?」

「きっと貴女と同じですよ。あの目に負けた。そういうことです」


 似た者もの同士か。


「聞きたいことがある」

「なんですか?」

「キセはこれから、夜に仕事をするようになるのか」

「本人が望めばそうすることもできます。そこは自由意思です。18になるまでは、ギムナジウムからは強制はしません。そういう規則です」

「安心した」それから「あんたは良いヤツそうだ」

「子供たちに対しては、ですが」

「これは完全に興味本意だし、失礼は百も承知だ。それでも、理由を知りたいんだ。あんたみたいな良いヤツが、なんでギムナジウムなんて施設を運営しているんだ?」

「子供たちに、選択肢を与えているだけですよ。

 自分の価値を、金銭にかえる。

 金銭があれば、暖かい食事と寝床が得られる。

 そのまま死ぬか。自分で自分に価値を見いだして生きるか。選択できる。そういう仕組みを作っただけです。もちろん、綺麗な言い方をすれば、という話ですけど」

「やりたいことはわかったよ。今までは勘違いしていたみたいだ。悪かった」

「いいえ。それが普通ですから、お気になさらずに」


 そうして、一息の後に。


「私からも、お伺いしても?」

「ああ。なんだ?」

「貴女にとって。数学はなんですか?」


 その問いに思わず笑みが溢れてしまう。

 その質問は昔、私がキセにしたものだ。

 昔と今を思い出しながら、私は答えた。


「最高のパズル」


 その答えに、白黒眼鏡は頷いた。


「キセが、貴女に会えて本当に良かった」


 それでその話は終わりのようだった。


「さて、今回のお代を頂きます」


 確かに。

 そういう商売だ。

 私はポケットから財布を取り出した。

 持ち合わせがあったか、大分不安だが。


「いくらだ?」

「あまり値段に関しては下げないのですが。今回は経緯も加味しまして、特別お安くいたします。一晩で10,000。それで如何でしょうか?」


 好意は十分に感じた。

 それでも、私の財布の中には。

 そこまで多くのお金は入っていなかった。


「――持ち合わせが、ない」

「いくらお持ちですか?」

「1,729」

「では1,000で」

「いいのか?」

「キセが何度かパルフェを頂いていますので。これでちょうどです」

「悪いな」

「今後とも、ご贔屓に」


 それから。


「明け方にまた、来ます」


 そう言って、立ち去ろうとした白黒眼鏡に、私は声をかけた。


「ひとついいか?」

「なんでしょうか?」


 キセの話が一段落して。

 私の頭の中は、円周率の測定しかなかった。

 だから。


「あんたが良ければなんだが」


 協力者は、1 人でも多い方がいい。


「この釘が抜けないように、踏んでいてくれないか」

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