第16話
4 人での測定は、段違いにスムーズだった。
外周に白黒眼鏡。中心にキセ。反対側の外周にアル。最後に移動役に私。
そうして、中心角 0.0625° が完成した。
半径 10kmの正5760角形の一辺は 1,090.9 cmだった。
半径 5kmの正2880角形の一辺は 1,091.5 cmだったので、0.6 cmだけ変化した。
この 0.6 cmがどのくらい影響するかはわからない。
でも確実に、円周率には近づけたはすだ。
早速、計算に取りかかった。
1090.9 × 5760 で円周が求まる。
それを直径の 2,000,000 で割れば、円周率が求まる。
そうして出てきた分数が。
6,283,584 / 2,000,000 = 98,181 / 31,250 だった。
問題はこれからだ。
小数でいったいどんな数字なるか。
計算をした。
6,283,584 ÷ 2,000,000=3.1417920・・・
結果は。
絶望だった。
実際に測定した正5760角形の円周率が 約3.1417920。
アルを使って計算した正1536角形の円周率が 約3.1416813。
アリスさんの 355 / 113 が 約3.1415929。
こんなに苦労して計測した値が。
実際に測定した、正5760角形の値よりも。
論理と計算を積み重ねた正1536角形の値の方が近かった。
これが数学の力であり、有用性だ。
そして、両方とも。
アリスさんの 355 / 113 に届かなかった。
「みんな、ありがとう」
私は声を絞り出した。
「今日は、もう帰ろう」
私は帰って、何も考えずに、寝た。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
次の昼。
太陽の光は、明るく、そして眩しかった。
久しぶりの太陽に、体にも、心にも、後押しをくれた。
気が重くない、といえば嘘になる。
正直やりたくはないが、それでもけじめをつけなければならない。
ため息ひとつ。
それから、
地下書庫の鍵を持っているのは、アリスさんだけだ。
普段からあまり
今日はどこにも行っていないはずだから、きっと、ここにいるはずだ。
私は、アリスさんに、円周率の研究の結果を報告しなければならない。
全然気がついていなかったが、研究をはじめてから、3 週間も経っていた。
あの
アリスさんに報告する。それから、相手へ返答を書く。
それが、今日の私のミッションだった。
最初の一手から気が重い。
でも、やるしかない。
私は扉をノックした。
扉の内側から「入れ」アリスさんの声がした。
「失礼します」そう言って、地下書庫に入った。
地下書庫は、思ったよりも広かった。
そして、本の海だった。
乱雑につまれた本もあるが、ほとんどは崩れたしまったように、床に雪崩をうっていた。
「どうした?」
「円周率の件を報告しにきました」
「ずいぶん遅かったな」
そう言って、アリスさんは本から顔をあげた。
「聞かせてくれよ」
その瞳には期待の色が見えた。
私は、私が導きだした二つの分数を、導出と一緒に伝えた。
「はずは古典的な方法で、正六角形からはじめて、角を2 倍に増やす方法で求めました。最終的に正1536角形まで求めて。出てきた分数が、108,548,902,337 / 34,551,213,815 でした」
アリスさんが「ふ~ん」気のない相づちをうった。
あまり、気を引く内容ではなかったようだ。
「それから?」
「この方法では計算が複雑になりすぎて、これ以上は無理でした。ですので次は別の方法を試しました。街の形を利用して、実際に測って算出をしました」
その言葉に、アリスさんの口の端が上がった。
「なんだよ。ずいぶんバカみたいな方法を試したもんだな」
言葉とは裏腹に、顔はわらっている。
私は、唾を飲み込んで、先を続けた。
「始めに、街の中心から外周までを中心角 0.125° で測り半径 5 kmの正2880角形の一辺を求めました。そこからさらに、円周角の定理を使い中心角 0.0625° を作り、半径 10 kmの正5760角形の一辺を求めました。そうして出てきた分数が、98,181 / 31,250 でした」
「ほぅ」
アリスさんの目の奥で、分数が小数に変換され、 355 / 113 との比較をしているのがわかった。
「2つの方法で円周率に挑みました。結果として、両方とも 355 / 113 に届きませんでした」
私は、一度言葉を切って、それから言った。
「これが私の結果です」
それを聞いた、アリスさんは目だけでわらっていた。
「やっぱり、お前は面白いヤツだ」アリスさんは、そう言った。
「古典的な方法から出発して、正1536角形か。ずっと昔に、オレも計算したが、それよりも良い数値だな。その計算能力は驚異的だ」
その計算は、すべて計算器アルがやってくれたことだ。
でも、出てきた結果のことを考えると、わざわざ言うことではないと思った。
「その次は実測か。この街を円にしたのは戯れだ。ずっと先の未来で、測定機器の進歩があれば、もしかすると円周率に近づけるかもしれない。そう、思わなかったこともない。だが、現実にやるヤツが出てくるとはな」
アリスさんは、わらっている。
「お前は、面白いヤツだよ。オレには考えもつかなかった」
アリスさんは、わらっている。
「だが、最悪だ」
アリスさんは、わらっている。
「どこにも数学的な目新しさがない。誰かがやったものを、もう一度やっただけだ。全部、お前じゃなくてもできたことだ。こんなもの、数学者として失格だ」
アリスさんは、わらっている。
結果が出なかったときに、このことは覚悟はしていた。
どんな言葉でも受け入れられる。
だから、私もわらった。
「はい。おっしゃる通りです」
「まぁ、いい。で、どうするんだ?」
私は、唾を飲んだ。
それから、乾いた喉を、掠れた空気が通っていった。
「解答には、98,181 / 31,250 をのせたいと思っています」
「ほぅ。理由を聞かせてくれよ。なぜわざわざ、正確性で劣る、正5760角形の値を使う?」
「私が作って。私が納得する円周率だから、です」
胸を張った。
これがどんなに愚かであるか、わかった上で、胸を張った。
アリスさんは、わらって言った。
「お前、それでも数学者か?」
それから、くつくつとわらった。
「いいよ。オレは、お前に託したんだ。その結果が 98,181 / 31,250 なら、それを答えに書いてこい。話しは終わりだ」
そう言って、また本に目を落とした。
――、・・・・・・。
「失礼しました」
そう言って地下書庫を出た。
扉を閉めて、それから天井を見上げた。
許可が出た。
私が求めた円周率だ。
だから、胸を張って答えればいい。
なのに――。
「私は、泣き虫だな」
誰もいない場所で、そう呟いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
出題の紙は、しわくちゃになっていた。
長い間、風雨にさらされた結果だろう。
それでも丁寧にピン止めされ、しっかり残っているということは、それだけ大切にされてきたのだろう。
たぶん、待っていたんだ。
私は最初に、問題の紙に、
一度ペンを止めた。
それから、広場の中心、円の中心を置いたその場所を見た。
視線をあげる。大通りのその向こうを見る。そして反対側へ。
あっという間だった。
終わってみて分かる。楽しかった。
そうして出た結果は、私の胸の内にしまった。
問題の横に、解答用のスペースがある。
そこには多くの解答が張られ、ピンで留められていた。
新しい紙を一番上に張った。
そこへ、ペンを動かす。
【解答】
直径 2,000,000
円周 6,283,584
よって 円周 ÷ 直径 は
98,181 / 31,250 となる
これで。
私の円周率への挑戦は終わった。
――気を抜くと、気分が重くなってしまう。
両頬を、ぴしゃりと叩く。
「――よし」
パルフェでも食べに行こう。
今日はダブルパルフェを解禁しよう。
善は急げ。
広場から喫茶店へと、走り出した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「なんでいるんだよ」
喫茶店での最初の一言。
それは、2人の見知った顔へ向けられた言葉。
アルとキセ。2人は揃って紅茶を飲んでいた。
「キセがね」アルが楽しそうに言う「ジオが来るっていうから」
キセに目を向けると、ニコりとしてこちらを見てきた。
その笑顔は年相応に可愛く、年不相応に大人びていた。
キセの口が開く。
「久しぶりに、ジオさんと一緒にパルフェを食べたいと思ったんです」
「働いてる人間には奢らないからな。ちゃんと自分で払えよ」
「はい。そのつもりで来ました」
なんだろう。子供っぽくない。可愛くない。
心の中で口を尖らせながら、店員にパルフェを頼んだ。
パルフェが届くと、スプーンに山盛りにすくって口に運んだ。
口の中に甘さが広がる。
そして、その甘さが全身に染み込んでいく。
幸せだ。生きてて良かった。
生を噛み締めながら、次の幸せをすくって口にいれる。
「結局、解答にはなんてかいたの?」
不意にアルが聞いてきた。
「 98,181 / 31,250 を書いた。アリスさんの 355 / 113 ほど精緻な値ではないけれども。私の納得する円周率だから」
アルは「ふぅん。そうか」と少し笑っていった。それから。
「やっぱり 355 / 113 は表に出さなかったんだね」
「一応、最高機密情報だからな。アリスさん以外は、どうやって導き出したのか、なぜあんなにも精緻な値なのか。誰も分からない、円周率の最高傑作。外に出せないのも仕方ないんじゃないかな」
「もしかすると、アリスさん自身は求めてなかったりして」
「どういうことだ?」
「神様に教えてもらってこと、ボクみたいにね」
そんな冗談に、笑って返す。
「まぁ、アルも本物の天才だからな。周りから理解されないタイプの」
数学は基本的には式や定理は、証明とセットだ。
なのにこのアルは、証明をすっ飛ばして結果だけ持ってくる。
普通なら相手にされないのだが、アルの持ってくる定理は斬新で、なにより美しい。そんなものを出されては、無視はできない。
結局、アリスさんが証明を行い、ちゃんとした公式や定理の形にしていた。
でも少し前からそれは少なくなっていった。
アリスさんは忙しい。それを見ているアルは、アリスさんに見せることを控えるようになったからだ。
――そういえば。
「そっちは最近どうなんだ? 前は文字なんて面白いものを発見していたけれども、なんか進展でもあったか?」
アルはあっさり「あったよ」といった。
「なんだよ。どんなものだ、教えてくれ」
「ゼロ」
「ん? なんだそれは」
「なにもない、ってこと」
アルはそう言って、紙に記号「0」を書いた。
「これって、位取りの記号だろ」
「そう。そこから拝借した。これがゼロの記号」
それから、ゼロを説明し始めた。
「 2 から 1 を引くと、答えは?」
「 1 だ」
「そう、式にすると 2 - 1 = 1 。これはOKだよね」
「当たり前だな」
「じゃあ、2 から 2 を引くと?」
「なにも残らない」
「そう。なにも残らない。だから書かない。でもその、なにもないって状態をさっきの記号で表すことにしたんだ」
そういって、アルは式を書いた。
「 2 - 2 = 0」
変な感覚だ。
何もないものをわざわざ式で書くなんて。
「で、これに何の意味があるんだ」
「文字と式との相性は抜群だったよ。でもきっと、もっと面白いことができるようになると思うな」
天才の面倒なところ。
本気か冗談か、よく分からない。
まぁ、あまり気にしても仕方がない。
「その面白いことが分かったら教えてくれよな」
「うん。きっとね」
それからパルフェを平らげて、他愛もない話をして、そのまま家に帰った。
家に帰って、それからため息。
これで本当に終わりだ。
そう思ってから、手慰みに目についた紙でツルを折った。最後に息を吹き込んで完成させると、今までで一番、キレイなツルができた。
キレイなものは、良い。
見ているだけで、笑顔になれる。
また明日から頑張ろう。
そう思いながら、ベッドに体を横たえて。
そうして目をつむった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
目が覚めた。
そのまま、布団のなかでゴロゴロしながらしばらく過ごした。
お布団は最高だ。
結婚してもいいと思う。
そうして、存分に幸せを噛み締めてから。
「――よしっ」
立ち上がった。
色々あったけれども、今日からまた頑張ろう。
そう思い、頬をピシピシ。
気持ちを新たにして家を出た。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
図書館に向かう前に、広場に寄ることにした。
昨日の今日で、何か反応があるかは分からなかったが、それでも気にはなる。
広場につくと、ちょっとした人だかりができているのが目についた。
珍しい光景だった。
掲示板のまわりに集まった人たちは、なかなか動こうとしない。
それに。
なにか変だ。
紙に必死にペンを走らせたり、何人かで話し合いをしたり。
普通では見られない様子だ。
――まさか。
期待、不安、希望、恐怖。
さまざまな感情が入り交じり、真っ白になった。
――
それとも、98,181 / 31,250 の値を計算をしているのだろうか。
できるだけ冷静に、その人だかりの中に入っていった。
注目を集めていたのは。例の出題だった。
出題と
新しい紙が張られていた。
文章がひとつ。
「円周率は以下の式で表される」
分数の中に分数が入った、見たことも無い式がひとつ。
4
その式は、あまりにもキレイだった。
こんなにも美しく表現できることに 震えた。
そして。
同時に。
初めて。
数学を。
光さえ吸い込む、底無しの沼のように感じた。
私は、テレリアに走った。
乱暴に扉を開ける。
受け付けに座っていたアルが、ビックリしたようにこちらを見た。
「アル! 広場の紙を見たか」
アルは冷静だった。
「見たよ。美しい式だったね」
確かにそうだ。だけど、今はそれよりも。
「あの式は、正しいと思うか?」
「ボクは正しいと思っている。あんなに美しいものが、間違いなわけがないよ。でもね、本当に正しいかどうかを知りたいなら、もう少し時間が経てば分かると思う」
「どういうことだ?」
「良いニュースと悪いニュース。どちらも内容は一緒。アリスさんが、その式を見て、地下室に籠った。その式を証明、いや。その式を理解するまでずっと出てこないと思う。だから良いニュース。その式はたぶん証明される」
良いニュースだ。
なにも悪いところなんか、ない。
でも、アルはそうは見ていない。
「そしてこれが悪いニュース。
テレリアは今まで以上に厳しいところに立たされると思う。アリスさんの存在と、テレリアの権威。この 2 つが同時に消えかかっているからね。
「もしそうなったら、
アルは肩をすくめた。
言わなくても、分かるだろう。そう言っている。
それからアルは真剣な目をして言った。
「どうなるか、じゃないよ。どうしたいか、だよ。ジオは
――ジオのこの先を決めるのは、ジオ自身だよ」
私は。
喉がつまった。
なにかを言わなきゃいけない。
そして、そのなにかは。
間違いなく。
この先を決める、決断になる。
「――私は、・・・・・・、――、・・・・・・」
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