第10話
いつもの図書館。
いつもの業務。
いつもの勉強。
いつもが続いていた。日常が、少し変わった。
受付で本を開いていた私は、今日はいなかった。
代わりに、図書室の机で、キセに折り紙を教えてもらっている。
「今日はヤッコとハカマを折ります」
「ヤッコ、ハカマ?」
「ヤッコは人間です」
「人間を、折るのか? 折り紙はすごいな。
ハカマはなんだ?」
「足です」
「ちょっと待て。ヤッコとハカマって、人間と足ってことだろ。もしかして合体させたりするのか?」
「はいっ、そうです!」
「それは、なかなか。なかなかに楽しみだな」
そんな他愛もない会話をして、それから折り方を教わる。
ヤッコの折り方が終わり、ハカマの折り方を教えて貰っていると。
――からん、かららん。
カウベルが鳴った。
「おいおい。ウチの受付は、仕事サボって何やってんだ?」
そんな声が聞こえ、急いで椅子から立ってエントランスに向かった。
そこにいたのは、アリスさんだった。
身長の 2 倍はあろうかという量の本を、右手と左手、それぞれにのせている。
それでいて、しっかりバランスを保っているのだから、いやはや舌を巻いてしまう。
「おかえりなさい。今回はずいぶん早く帰って来れたんですね」
「ああ、例の件が面白いことになっているって聞いてな。仕事は片付けてきた」
そういいながら、受付を通りすぎて、図書館内の机の上に両手の本を置いた。
それから。
キセを見た。
同じくらいの身長。アリスさんがちょっとだけ高い。
まるで、小さい子同士でお友だちだ。可愛らしい。
アリスさんは、キセを見て、それからこちらを見た。
「これが、例の子か?」
「はい。キセです」
それから。
「この人が
私がそういうと、キセは慌てて深くお辞儀をした。
「キセです。よろしくお願いします」
「ああ、よろしく。キセか。ちょうど良いものがある」
アリスさんはそういうと、本の山の片方をノックした。
本の塔は全体を揺らし、そうして一番上の本だけが落ちてきた。
「折り紙ってのは、東国が発祥だろう。ちょうど折り紙の本を見つけてな。お前にやろう」
その本を、キセは笑顔で受け取った。
「ありがとうございます!」
「励めよ」
アリスさんはそう言って、キセの頭に手を置いた。
仲の良い兄弟のようだ。微笑ましい。
アリスさんが、口をへの字に曲げてこちらを見た。
「なに勝手にニコニコしてんだよ」
「心暖まる光景だったので」
「まったく」アリスさんはそういうと。
「じゃあこの本、整理しとけよ」
そう言って、外に出ようとしていた。
「どこか行くんですか?」
「広場にな。例のヤツが出てるかもしれん」
「わかりました。気を付けて」
そう言ってから、用事を思い出した。
「すみません。ちょっと良いですか?」
私の言葉に、アリスさんは「ん?」とこちらを振り向いた。
私は、つかつかとアリスさんの前に歩きだした。
それから。
アルに言われていたアドバイスを、パーで実行した。
そこから先は、不思議な体験だった。
パーは空を切った。
それから、世界が一瞬消えて。
気がついたら床に寝そべって、天井を見上げていた。
転んだ? そう、理解してから、遅れて痛みが背中に来た。
背中を押さえながら、左右にのたうちまわった。
「おいおい。ずいぶん物騒じゃないか。急にどうした?」
アリスさんの声が降ってきた。
「すみません。ちょっと行き詰まりを感じていて」
「飛躍しすぎだ。目的、始まり、過程を話せ」
アリスさんにそういわれて、ことのあらましを伝えた。
「つまりは、閉塞感を打破するために、アルにオレを殴れと言われたから、やってみた。と。そういうことだな」
「はい」
「素直すぎだろ。お前は学校で、暴力・ダメ絶対って教わらなかったのか?」
「和差・積商、なら教わりました」
「わかった。オレが教えてやる。この世の中では、どんな理由があっても、人に暴力は極力ふるっちゃいけない。そういうことになっている」
「知ってます」
「じゃあ、やるなよ」
「すみません。でも、それでなにか変わるならやってみようと思いまして」
「ホントお前は、前しか見ないな」
アリスさんは、呆れ半分と、面白さ半分といった感じで言った。
「まぁ、好きに生きろよ。どうせお前の人生だ」
アリスさんはそういうと「本の収納、よろしくな」
そう言って、行ってしまった。
私は床から起き上がり、それから本の山を見た。
一人では、結構大変な作業だ。
でも今日は一人じゃない。
「キセ、仕事だ」
キセは、背筋を伸ばして「はいっ」と答えた。
良い返事だ。
「ささっと終わらして、折り紙に戻るぞ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
数学の主要な分野は幾何学だ。
これは主に図形を扱う。
平面的な図形。例えば、三角形、四角形。
これらは設計図に利用されることが多い。
立体的な図形。例えばサイコロのような正六面体や、円柱。
これらは建築物に利用されることが多い。
この幾何学が
そして。
そんなアリスさんは、仕事帰りに、よく本を買ってくる。
数学において本は重要だ。誰かの考えた数学を、効率よく学べる。
そしてときに、発想の発火点にもなる。
数学の本が大量に集まる場所。
だからこの場所は
アリスさんが買ってくる本は、意外にも幾何学以外のものも多い。
数学は幾何学が主流だが、それ以外の分野も重要だ。
先日、アルが持ち出してきた文字なんてものも、幾何学以外の分野に含まれるだろう。
大量の本を片付け終わる前に、アリスさんが戻ってきた。
本日2度目の「おかえりなさい」それから「どうでした?」
「ああ」それから、ニヤリとして「収穫有りだ」
私は、本をおいて、それからアリスさんのところに走った。
「どんな問題です?」
アリスさんは口の端をあげた。
「なかなかだな。シンプルで、奥が深い問題だ」
そういって、問題を見せてきた。
【問題】
任意の円について、『円周 ÷ 直径』の値をもとめよ。
アリスさんの言う通り、シンプルだった。
そして、とんでもない難問だった。
円周率とよばれている値。
一般に 3と1/7 から 3と10/71 の間の値だということが知られている。
ただ、それは一般の話だ。
独自の方法で、355 / 113 という数字を算出していた。
2つの 1 と 3 と 5 で表される分数。
円という美しい図形に隠れた、美しい数字だ。
もちろんこの数字は、
出題に答えれば、重要な結果が流出する。
出題に答えなければ、その程度かと見くびられる。
その問題が、声無き声で、語りかけてくる。
『私は、お前たちの問いに答えた。今度は、お前たちが答えてみせろ』
まったく。厄介だ。
「で、どうするんです」
「お前に預ける」
ん? え?
「これに、答えろってことですか」
「それ以外に何がある?」
「でも」
テレリスの研究結果を外に漏らしても良いのだろうか?
そんな私の悩みを見てとったように、アリスさんは言った。
「おいおい、最初から 355 / 113 を使おうとしただろ。オレは任せる、と言ったんだ。お前が求めるんだよ。
変化を求めてるんだろ、きっと良い機会になる。やってみたら、意外に求められるかもしれないからな。オレの求め方だと理論上、 355/113 は円周率よりも
仮に 355/113 よりも小さな値を出せたら、それは真の円周率に近づいたといえるかもしれん」
それから。
「ワクワクしないか。自分がやることが、数学の世界を塗り替えることになるかもしれないんだ」
そう言って、問題がかかれた紙を私に手渡した。
「期待してる」
そう言って、アリスさんは出ていってしまった。
震える。
こんな感覚はいつぶりだろう。
相手がいる。
期待をされている。
――やってやる。
「キセ!」
「はいっ!」
「あとは頼んだ」
そう言って、受け付けに座り、ペンを走らせた。
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