第36話

 あれからしばらくは、平穏な日々が続いていた。

 アルは西へ東へ飛び回り、私は円形都市コンパスを中心に、仕事をこなしていった。合間合間に、キセに幾何学を教え、私は折り紙を教えてもらっていた。

 いつもと変わらない日々。

 ただ、アリスさんがいないだけ。

 そんな日々だった。


「なぁ、アル」


 久々の仕事のない日。

 私とアルは、図書館テレリアにいた。


「美しさ、を数値化ってできると思うか?」

「幾何学的な美しさを、ってこと?」

「うん。そんな感じの」

「じゃあ、こういうのはどうだろう」


 そう言って、アルは紙を取り出した。

 それから正方形を切り出した。


「折り紙、か」

「そう。ボクもね、たまにキセから教わっているだよ」

「そりゃすごい。で、その成果ってこと?」

「そう。数学的にキレイな長方形を考えて、折ってみたんだ」


 そう言って、正方形の真ん中に折り目をつけていく。

 それから、左端と上の折り目を通るように折って、折り目をつけた。

 右下をもって、さっきつけた折り目に沿うように、折って折り目をつける。

 最後に、今つけた折り目が右端とぶつかったところから、真横に折った。


「はい、完成」


 そうしてできた長方形は。


「なんか、縦長の長方形だな」


 それ以外の特徴は無いように見えた。


「これがスゴいんだ」


 アルはそう言って、その長方形から正方形を切り取った。

 そうして残りの長方形を手元に置く。


「この長方形を見て、なにか気がつかない?」


 アルはニコニコしながら聞いて来る。


「別に――」そう言ってから、気がついた。

「もしかして、これ。大きさが違うだけで、元の長方形と同じ形か?」

正解ピンポーン。だからこの長方形からは、ずっと正方形が切り取り出せるんだ」

「そいつは、すごいな。確かにキレイだ」

「でしょ。この長方形のすごいところは、縦と横の辺の比にも出ているんだ。縦を1,横をxとすると、xにはx×x=x+1の関係があるんだ」

「それのどこがスゴいんだ?」

「掛け算を足し算に換えられるってところ。例えはx×x=x+1だけれどもx×x×x=2x+1になる。xを4回掛けると3x + 2、5回だったら 5x + 3 になる。なにか気がつかない?」

「xの前の数字が、前の2つの数の足し算になっている!」

「そう。後ろの数字は?」

「これは、前のxの数字と同じ!」

「そうなんだ。面白い性質だよね」

「これは、なかなか良いな」

「でしょう」

「これって、xは求められるのか?」

「求められるよ。結構大変だったけどね」

「いったいいくつだ?」

「( 1 + √5) / 2」

「これにも√が出てくるのか」

「そうだね」

「こういう数字を見ていると、つくづく狭い世界で数学をしてたんだなって感じるよ」

「そうだね」

「√は世紀の発見だよな。アリスさんが聞いたら、きっと驚くだろうな」


 そこで、アルの表情が曇った。


「うん。そうだろうね」

「どうした?」

「なんでもないよ」


 そう言って、アルは笑った。

 そんな話をしている時だった。

 不意に。


「なんだお前ら、楽しそうに」


 声が聞こえた。


「なんの話だ?」


 忘れもしない。懐かしい声だ。

 私たちは声の方を見た。

 そこには、アリスさんが立っていた。


「ようっ」


 アリスさんの様子に、声にならない呻き声が出た。

 延びた髪や髭には白が混ざり、目窪は落ち込み影がかかっている。

 2ヶ月。すべてを注ぎ込んで、あの式と向かい合ったのが分かった。


「なんだよ、そんなビックリした顔をして」

「いえ。お疲れさまでした。体調は大丈夫ですか?」

「最悪だよ。帰って、寝る」


 そうして、横を通りすぎようとした。

 ――あの式は?

 その言葉を、私は言えなかった。


 その言葉を。

「――式は、」アルは言った。

「証明できましたか?」


「――。」アリスさんは立ち止まった。

「ああ、それか」まるで自分に言い聞かせるように、言った。


「全く、難儀な相手だった。分数みたいな書き方でもって、円周率を書き表すなんて。これを考えてたヤツは人間じゃない。神か、悪魔かって話だ。本当に難儀だったよ」


 溜め息のような、呼吸。


「分かったことは2つだ。

 1つめ。あれは、分数じゃなかった。

 2つめ。あれは、今は証明できない」


 それから、どこも見ずに。


「分数でない数を、図書館テレリアは認めることはしない。

 あの式に図書館テレリアは、今後一切関わらない。――それが、結論だ」


 アルは、一度下を向いた。それから顔をあげて。


「あの問題は、ボクがつくりました」そう告げた。

「ああ。何となくそうだと思ったよ」アリスのさんの後ろ姿。

「良い問題だったぜ」

「ボクは、ここを出ようと思います」

「それが良いだろうな」


 アリスさんは、決して振り返らなかった。

 悪いことが起こる。

 そう、直感がした。

 そうして、それは。

 実際に、起こった。

 アリスさんは、平坦な声で言った。


「じゃあ、おさらばだ」


 ――真っ白だ。

 世界が白で、なにも見えなくなった。


「待ってください!」


 その声が現実に引き戻す。

 それは、自分の声だと気がついた。


「アリスさんがいない間、アルがすごい発見をしたんです」


 アルと書き溜めた、√の成果を書き綴った紙を渡した。


「√は分数では表せません。でも、長さを簡単な計算で求められるようになります!

 それに面積や、体積もです! 今まで苦労して求めていた面積の問題が、誰でも簡単に求められるようになります。√は、そんなにも強力な武器なんです!」


 アリスさんは渡された紙に目を通し、それから、冷たい目で私を見た。


「書き残すな」


 それから私を見たまま、紙束を裂いて捨てた。

 数学が。

 裂かれて、捨てられた。


「話は、終わりか?」


 誰も、なにも、言えなかった。

 

「じゃあ、これで終わりだ」


 そうして、アリスさんは図書館テレリアを出ていった。

 呆然と。

 その場に立っていることしかできなかった。

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