第34話

 街の見える丘。

 私は、一人、その場所に赴いた。

 まだ誰もいない。

 柔らかな風が、草木を揺らしている。

 キセに教えてもらった場所。

 昔を思い出す。

 そうして、街を見た。

 円形の街。円周率の、苦くて、大切な思いでの街。

 それを眺めた。

 不意に、声が聞こえた。

 そちらをみると、ギムナジウムから、子供たちが団体で走ってきて来ていた。


「あんまり先にいかないったらダメだよ!」


 聞き覚えのある声だった。

 声の方をみると、小さい子が3人。無邪気に走ってこちらに向かってきていた。その後ろを、キセが声を出しながら追いかけていた。

 子供たちと一緒に、こちらに来る。

 どうやら、ここは、ギムナジウムの子供たちの、遊び場でもあったらしい。

 少しまずいな、と考えた。それから、まぁ別に良いかと思い直す。

 小さい子の一人が、私が目に入ると、急に背筋を伸ばしてカチカチのお辞儀をした。

 相変わらず、行儀が良い。

 私は笑顔で、こんにちは、と返した。

 向こうからキセが来て、元気に挨拶をしていった。それから、少し離れた所に、小さな子供たちをつれていって、そこで相手役を始めた。キセの他にももう2人。

 金髪の、利発そうな男の子と、ギムナジウムの管理人の白黒眼鏡だ。

 利発そうな男の子は、私に頭を下げてから、キセの所に歩いて行き、一緒に子供たちの相手を始めた。

 白黒眼鏡が私のところに来た。


「良い景色ですよね」

「ああ、こんな良い場所があるなんてな。キセに教えてもらうまで知らなかった」

「街の人は、わざわざこんな郊外にまで来ませんからね」


 そう言ってから。


「今日は、散歩ですか?」

「いや、待ち人だ」

「子供たちは、お邪魔ですか?」

「いいや、全然。むしろ子供たちが遠慮しないか。そっち方が気になるかな」

「そうですね。では、邪魔にならないように、移動しますか?」

「ん。いや。ここにいないと。待ち人が来たと、き」


 なんか、変だ。


「ここにいないと」


 背筋を、冷たい手が撫でていくような。そんな感覚だった。


「おい。まさか。そんな、冗談だよな」


 私は、目の前の白黒眼鏡に言った。

 その人は、静かに笑って会釈をした。


「私が謎々エニグマです」


 なんでだ?

           白黒眼鏡が謎々エニグマ

        いったい

  どういうことだ?


 頭の中が、ひどく混乱している。


「少し散歩でもしませんか?」


 謎々エニグマはそう言って、私に背を向け、歩きだした。

 私は、その背中をみるように、ついていった。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 街の見える丘を、白黒眼鏡は歩いていった。

 それに、黙ってついていった。

 向こうからは何も言って来ない。

 だから私は、言いたかったことを、言った。


図書館テレリアに来ないか?」


 白黒眼鏡は立ち止まった。

 私は、さらに言葉をかける。


「あんたは天才だ。あの分数を重ねた式。あれは美しかった。私はあの式をもっと知りたい。なんであんな美しい式を見つけられたのか。それに」


 白黒眼鏡の顔が、ほんの少し、こちらに向いた。


「すごい発見した。√って言うんだ。あんたみたいな天才が、それを知ったら、どんな数学が作られるのか、見てみたいんだ」


 言いたいことは、言った。

 あとは相手しだいだ。

 白黒眼鏡は、それから顔を戻した。

 そうしてまた、歩き始めた。


「この街は本当に綺麗ですね」


 白黒眼鏡は前を向いたまま、話しを始めた。

 その話が、私の質問に対しての返答だということが、何となく分かった。


「街の人間は、この美しさに気がつかない。私も、この風景を知ったのは、ほんの10年前でした。人は、近ければ近いほど、その美しさには気がつかない。そしてそれは、美しさについてだけじゃない。近くにいればいるほど、見えなくなる」


 そこで、白黒眼鏡は一度言葉を切って、それから言った。


「ジオさんは、図書館テレリアをどう思いますか?」


 どう。か。

 身近にありすぎて、そんなことを考えたことなんて、なかった。


「数学の最先端集団、かな」

「そうですね。数学の才能ある者を集めて、そこで数学を深めていく。その数学は、街を発展させ、人々の生活を豊かにした。それだけじゃない、数学は船を改良した。大勢の人間を安全に航海させることが、数学のお陰で出来るようになった。そうして船は、今ではなくてはならない道具になっている。船に限らない。ありとあらゆる道具が、生まれ、改良され、新たに生まれた。今この瞬間でさえも、数学は世界を変えていっている」


 そう言ってから、白黒眼鏡はこちらを見た。


「貴女の作った正七角形だって、単に数学的な発見だけでは留まらない。この国の人たちと東国の人たちを結びつける精神的な象徴になる」


 白黒眼鏡の表情は、私には、曇っているように見えた。


「この世界は今、数学で動いている。それに気がついている人は、殆どいませんが。そうして。ここにあって、図書館テレリアの存在は計り知れないものになっている。――違いますか?」


 白黒眼鏡の言葉は、静かでありながらなにか強い意思を感じさせた。それが、あまり良いものでないような、そんな感じがする。

 私は困惑しながら「ああ」と答えた。


「たぶんそうなんだと思う。図書館テレリアの存在の大きさは、感じている」

図書館テレリアは、世界を動かしている。だからこそ、数学の才能があるもの達を集める。それはわかります、――でもそうして」


 白黒眼鏡の視線が、針のように鋭くなった。


「数学を独占している」

「独占?」

「数学における発見は、図書館テレリス以外に持ち出してはならない。それが、ルールですね?」

「ああ。確かにそういうことはある。でもそれは」


 私の言葉を、白黒眼鏡は遮った。


「なぜか。理由を説明できますか?」

「知識は財産だ。それを軽々に外には出せないだろ」

「だから」その語気は「数学が発展しないんですよ」激しかった。

「発展しないって。今の話じゃ」

図書館テレリアは数学を発展させているんじゃない。数学の発展に、歯止めをかけているんです」

「そんな、わけ――」


 言葉の途中で、円周率の時のことが頭をよぎった。

 あれは、結局のところ。円周率を外に出さないためだった?

 動揺する私に、白黒眼鏡の言葉が投げ掛けられる。


「心当たりがありますよね」

「そんなことは」

「――近くにいる人は、本質が見えなくなる」


 白黒眼鏡はそういうと、前を向いて歩き始めた。


「あくまで、そういう見方もできる。そういう話です。私にはそう見える。だから、私は図書館テレリアが好きになれない。それだけのことです」

「――言いたいことは、分かったよ」

「ありがとうございます」


 それから。


「それでも街は、美しい。だから数学は、手に余る」


 白黒眼鏡は言った。

 それは、少し笑っているような言い方だった。

 ああ、この白黒眼鏡は本当に、数学が好きなんだ。

 それが分かるような、言葉と言い方だった。

 だから私は、その言葉を口にした。


「あんたの言いたいことは分かったよ。でも、それでも私は、言いたいんだ」


 白黒眼鏡は、また立ち止まった。


「あんたは天才だ。だからこそ、図書館テレリアに来て欲しいんだ。あんたが図書館テレリアに来れば、数学はもっと面白くなる。だから――、考えては、くれないか?」


 白黒眼鏡は、少し笑ったようだった。


「貴女は、勘違いをしていますよ。私は、天才ではありません」

「それは謙遜だ。あの分数を連ねた式は美しかった。あんな式を産み出せるやつが、天才でないはずはないよ」

「それが、勘違いですよ」


 白黒眼鏡の言葉の意味が、わからなかった。


「どう言うことだ?」

「それは、もうすぐにわかりますよ」


 白黒眼鏡は、それ以上はなにも言わずに、また歩きだした。

 私は黙って、白黒眼鏡の後ろをついていった。

 もうすぐ、最初の場所に戻ってくる。

 子供たちの声が聞こえる。

 楽しそうに遊ぶ声だ。

 キセの声。それに。

 アルの声。

 それから、アルの姿を見つけた。


「おー。アル。どうした?」


 私は、アルに声をかけた。

 アルは私に気がつくと、手を振り返した。

 それから、私たちの方に歩いてきた。

 私は少し困った。

 アルに、謎々エニグマのことを、どう話そうか考えた。

 アルは私たちの前に来ると、白黒眼鏡を見た。

 白黒眼鏡も、アルの方を見て、頷いた。

 2人の間で、なにかやり取りされたのが分かった。


「なんだよ、2人で」


 そんな私の言葉を聞いて、2人はいたずらげに笑った。


「まったく、損な役回りだよ」


 白黒眼鏡が、アルに冗談のように言った。


「ありがとう。お陰で助かったよ」


 2人の間で、2人にしか分からない会話。

 それが、ちょっと気になって、口を尖らせた。

 そんな私を、アルは笑った。


「ごめんね、ジオ」


 そうして。

 不意に言った。


「ボクが謎々エニグマなんだ」


 ――、は?


「待てよ。謎々エニグマは、こいつだって!」

謎々エニグマは1人じゃない。ボクたち2人なんだ」


 アルは笑った。


「詳しく話すよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る