第1話

 辺りには、夜が広がっていた。

 そんな中に揺らめく、ろうそくの明かりは2つ。

 その1つは、私の手元を照らしている。

 そこには図形の問題。


 正方形が1つ。

 右角から左斜め下に10cmの線。

 その斜め線と辺の角は60° 。

 最後に一文。


【この正方形の面積を求めよ】


 その答えを捕まえに、私はペンを走らせていた。

 でも、空気でもかき混ぜているように、何も手応えはない。

 好転しない状況に、呻き声をあげ、髪をかき揚げ、真っ暗な天井を仰ぐ。

 息継ぎ。

 それからまた、問題に潜っていく。

 解けなければ、解けないほど。

 苦しさがにじむ。

 苦しいのに。

 ――面白くて仕方がない。

 ――楽しくて仕方がない。


「お前ら、まだやってたのか」


 不意の声に、問題から顔をあげた。

 そこには少年のように低身長で、タレ目にハネっ毛。

 そして。

 私が世界で一番尊敬している希代の数学者、アリスさんが立っていた。

 アリスさんに、私は文句を返した。


「アリスさんが悪いんですよ。こんな面白そうな問題だされたら、こうもなりますって。明日は臨時休館にしましょう」

「おいおい。冗談だろ。そんな難しい問題じゃないはずだぜ」

「それは、アリスさんにとっては。ですよ。凡人には、なかなか手強い問題ですよ」

「ジオは、感性センスはあるのに、その感性センスを全く使わずに解こうとするからな。ホント、お前の数学は面白いよ」

けなさないでくださいよ」

めてんだよ」


 そうして、私をからかったあと。アリスさんは向こうの机で、じっと問題に目を落としている長身痩躯の数学者、アルに視線を向けた。


「そっちはどうだ?」


 その言葉に返事はなかった。

 いつもは飄々として、のらりくらりとした性格だが、今のアルは真剣そのものだった。一心不乱に問題と向かい合っている。アリスさんの言葉も、届いていないようだった。


「あっちもずいぶん、いい感じみたいだな」


 アリスさんはそう言って、口の端をあげた。

 それから私を見て言った。


「じゃ、今から南に行ってくる。しばらく空けるから、よろしく頼むぞ。司書殿」

「了解しました。アリスさんも、お気を付けて」


 アリスさんは、返事の代わりに手をヒラヒラと振る。物音を立てずに歩き、扉を開け、図書館テレリアをあとにした。

 また静かになった。


 ――さて。こっちも、もうひと頑張りしますか。


 そう思い、問題に目を落とした。

 正方形の角から斜め線をいれることで、正方形の 90° を利用した直角三角形を見つけることができる。しかもその直角三角形は、残り2つの角のうちの1つは 60° だ。

 そうなればもう、残りの角は 30° と計算できる。

 30° , 60° , 90° の直角三角形だ。

 そしてそれは、とても特別な形だ。

 なぜなら。

 30° , 60° , 90° の直角三角形は、正三角形の半分だから。


 ――正三角形。


 すべての辺の長さが等しくて、すべての角が等しい。

 もっともシンプルで、そして強力な性質。

 性質は、美しさだ。

 だから、正三角形は特に美しい。

 その美しさを利用する。

 直角三角形の一番長い辺の長さが分かれば、正三角形の性質を利用して、一番短い辺の長さが分かる。

 でも。そこまでだ。

 直角三角形の最後の一辺、つまり正方形の一辺の長さは分からない。

 正方形の一辺は分からない。

 なのに、面積は分かってしまう。

 使える武器すうじは斜め線の 10cm と一番短い辺の 5cm だけ。それだけで、一辺が分からない正方形の面積を、出せてしまうというのだ。


 これだから。――口の端が上がる。

 数学は。――口元が弧を描く。

 幾何学は。


「――大好きなんだよ」


 ペンを走らせる。

 頭に思い浮かんだ可能性を、すべて描いて確認していく。

 色々なパターンを組み合わせては確認し、ダメなら次の考えを紙に書く。

 鋭利な論理ではなく、愚鈍な思考しこう試行しこうで補う。

 私は数学の感性センスはない。

 質の部分は、まったくダメだ。

 その分を、量で補う。

 不格好で冴えない数学。

 でもそれが、私の数学だった。

 なんども失敗を繰り返しながら、行きつ戻りつ、進んでいく。

 そのうち紙に書くよりも早く、頭の中で数字が飛び交う。

 数字は手を置き去って、勝手に進んでいく。

 いくつものアイデアと失敗を繰り返していく。

 いつのまにか現実と思考の境目が曖昧になる。

 そうしていつも。

 知らないあいだに。

 

 眠ってしまっている。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「んぁ?」


 目を覚ますと、外は明るく、日差しも高くなっていた。

 欠伸をして、それから背伸びをした。

 肩から毛布が落ちた。

 きっとアルが掛けてくれたのだろう。

 なんだかんだで、優しいヤツだ。

 毛布を拾い上げ、畳んで置いた。


 さて、と。


 受付から出てきて、寝落ちで固まった体を軽い体操でほぐす。

 体が柔らかくなると、考えも柔らかくなるような気がする。

 なにより、適度に体を動かすのは、気持ちがいい。


「よしっ」


 掛け声ひとつ。

 それからまた、問題に向かった。

 正方形は四角形に形を変え、4つに増えていた。

 その4つが、風車のようにならび、新しい形を作り出していた。

 それは、大きな正方形のなかに小さな正方形が入った形だった。

 大きな正方形の一辺は、切り取った10cmと付け加えられた10cmで、合計20cm。

 だから大きな正方形の面積は400。

 あとは真ん中の正方形の面積さえ分かれば、簡単な計算で元の正方形の面積が求められる。

 真ん中の正方形の一辺を考えている間に、いつのまにか眠ってしまっていた。

 でも。

 手がかりは、夢と現実の間で掴んでいた。

 切り取った5cm、付け加えられた5cm。合計10cm。

 それが、小さい正方形の一辺になっているはずだ。

 図を描いて、それを確認した。

 確かにそうなっていた。

 あとは計算をして。

 400 - 100 = 300

 これが、求める面積の 4 つ分。

 だから答えは。


 ―― 75。


 そう紙に書いて、答えを示す下線を引く。

 できた。

 本当に、一辺がわからないまま、面積が求まった。

 その嬉しさに、受付から出て、小躍りをして喜んだ。

 嬉しすぎて。

 背後にある入り口への警戒を、完全に怠っていた。


   その時だった。


       ――から、かららん。


 入り口の扉に付けてあるカウベルが来客を告げた。

 私は猫のように驚いて、それからすぐに、なにごともなかったと自分に良い聞かせた。そうして準備が整ってから、おもむろに入り口を振り返る。

 そこには、黒髪のクリクリとした目をした背の低い少年が、不安そうな表情をしながら立っていた。

 綺麗な黒髪だ。この辺りでは見ない色。

 東国の方の血が入っているのだろう。

 子供の年齢はよくわからないないが、身長と見た目からして、12 , 13才くらいだろうか。

 そんな少年は私と目が合うと、ちょこんと頭を下げた。

 その様子は可愛らしく、ついこちらから声をかけてしまった。


「どうした、少年。迷子か?」

「……いえ」


 私の声に、少年はもじもじとしてしまった。

 それから直ぐに、頼りない声で言った。


図書館テレリアに入りたくて、試験を受けに来ました。よろしくお願いします!」


 そう言って、またペコリ。

 私は驚いてしまった。

 それから。

 可愛らしい迷子に、静かに口の端をあげた。

 感心なことだ。

 自分から学びたいと、こんな子供が言うのだから。


「キミは、算数が好きなのか?」

「はいっ! 算数も好きです。でも、数学はとっても好きです!」


 面白い子だ。

 この子は数学を口にした。

 算数と数学の違いを説明できるものは、大人でも少ない。

 それを、こんな年端もいかない少年が口にしたのだ。

 少年の言う数学に、私は興味が湧いた。


「それじゃあ、教えてくれ。キミにとって数学とはなんだ?」


 私の言葉に、少年の口は「あ」の形で止まった。

 それから、口をもごもごさせ「あ」と「う」を繰り返しはじめた。なにかを伝えたいのは分かる。でも、言葉になる前に消えてしまうようだった。やがて、少年の目に、涙がにじみ始める。

 少年の今の気持ちは、よく分かる。自分の中に答えはあるのに。それをうまく言葉にできない。伝えられない。言葉にしようとすると、途端に違うものになってしまう。

 その悔しさは、痛いほど理解できる。

 私も昔、そうだったから。

 でも、助けは出さない。

 数学を語れない人間に手を差し伸べるほど、図書館テレリアは甘い場所じゃない。

 私にできることは、少年のために冷徹になることだけだ。


「キミが、数学が好きなことは、私には痛いほど分かったよ。そんな気持ちになるくらい、正しく伝えようとしたことが何よりの証拠だ。

 でも、数学を語れないようであれば、全然ダメだ。もっと算数を、そして数学を勉強して、それからまた来なさい」


 少年は顔をくしゃくしゃにして、下を向いてしまった。

 床にしずくが落ちる音がした。

 声を押さえながら、泣いているのが分かった。

 そんな少年の姿に、私の子供の頃の姿が重なる。

 差しのべそうになった手を、握る。

 その気持ちを理性でおさえる。

 大人の私は、手を差し伸べない。

 その代わり。

 少年にあきらめてもらえるように、理由をあげた。


図書館テレリアの入館試験には 15 歳からっていう年齢制限があるんだ。だから、あと 2 , 3 年かな。しっかり学校の勉強して、その 100 倍自分で勉強して。そうしてから、また来なさい。数学は、逃げはしないから」


 その言葉に、少年は泣きながら頷いた。

 悔しさと悲しさが過ぎ去るまで、涙を流して。そうして落ち着いてから。一度頭を下げて、それから静かに図書館テレリアを出ていった。  

 少年の後ろ姿が入り口の向こう側に消えて、カウベルの音が静かになる。それからため息をついた。


 ――もう少し。なんとかできたんじゃないか?


 すぐにその考えを打ち消す。

 この感情は、何も解決しない。

 だから、この結果は、きっと仕方がなかった。

 自分にそう言い聞かせた。

 心の中で、ざ、ざ、と雑音がしている。

 それを忘れようと、受け付けに戻る。

 読みかけの論文に、目を張り付ける。

 図を描きながら、手を動かしながら、問題に集中しようとした。でも、何も頭に入ってこない。

 ざ、ざ。

 ざ、ざ、ざざ、ざ。

 ざ、ざざざざざ、ざざ。


「あ゛ー。もうっ!」


 両手で前髪をかきあげて、それから髪をくしゃくしゃにする。

 唇を尖らせて、空中を睨んだ。

 そそれから、10分だけ後悔することにした。

 でも。


   その期限が来る前に。


     ――からんらら、ららん。

 

 カウベルは2度、鳴った。

 図書館テレリアの扉を開けたのは、あの少年だった。

 息を切らしながら。


「紙が」手に答えを持って。

「飛びます!」

「……それが、飛ぶのか?」

「はいっ」


 少年は顔を赤くしながら、手の中にある三角形のソレを滑らせるように宙に放った。

 三角形は、綺麗に滑空し、壁に当たって落ちた。


 マジか。

 めっちゃ面白そう。


 私はソレを拾って、少年がそうしたように放った。

 それは手を離れると、直ぐに地面に向かって突っ込んだ。

 む。

 拾って、またほうる。

 今度はさっきよりも飛んだ。が、やはりすぐ落ちてしまった。

 少年のようにはいかない。

 私は、眉をしかめて、少年を見た。


「教えてくれないか? どうやったら、そんなにキレイに飛ぶ?」


 少年は笑顔を咲かせて、それから、色々教えてくれた。

 私は膝を屈めて、少年の話を聞いた。

 それから飛ばした、ソレはよく飛んだ。


 数学で紙が飛ぶ。か。

 それは、なかなかに悪くない答えだ。


「これは、なかなか面白いな、少年」


 少年は、嬉しそうに、ウンと頷いた。


「少年よ。なぜコレが、こんなにも飛ぶのか、わかるか?」


 少年は少し考えてそれから、あうあうをし始めた。

 やはり手助けはしない。

 その代わりに声をかける。


「慌てなくていい。自分の言葉を持てるように、ゆっくり学んでいけば良い」


 少年が真面目な顔で頷くのを見て、少し笑った。


「私はこう思うんだ。コレを飛ばすのは、数学の美しさだ、って。

 この形は、左右対称的だな。つまり、右と左がピッタリ重なる形だ。それが、この形の性質であり、美しさだ。そして、この紙をキレイに飛ばしてる理由だ」


 少年は、ぱっと花が咲くように笑顔になって、そうして何度も頷いた。

 それから二人で交互に、ソレを飛ばして遊んだ。

 ソレの美しさを確かめるように、あーだ、こーだ、言いながら。

 数学を楽しんだ。

 ひとしきり遊んで、そうして我に返った。


 めちゃくちゃ、面白かった。

 そしてなにより、良いものを教えて貰えた。


 それに対して、なにか返すものがなければならないだろう。

 じゃあ、なにができるか。

 答えはすぐに浮かんだ。


「少年。そんなに図書館テレリアに入りたいか?」

「はいっ!」


 図書館テレリアの入館試験の年齢制限は確かに存在する。が、過去に12歳にも関わらず、年齢制限を無視して入館試験を実施した例がある。

 基準は、試験者が気にいるかどうか、だったはずだ。

 であれば、職権しょくけん濫用らんようをしよう。


 すなわち。


「……入会試験、受けるか?」


 少年の目は、大きく、キラキラに輝いていた。

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