円周率を求めて
第5話
暖かで陽気なお昼過ぎだった。
いつものように受付で本を読んでいると。
かららん。と、カウベルが鳴った。
ん? と顔をあげると、キセが立っていた。
「こんにちは」そう言って頭を下げる。
「おう。学校はどうした?」
「行っていないです」
「行ってないって。親は何も言わないのか?」
キセは少しモジモジして。
「いないです」
親がいないって、どういうことだ?
その疑問が口から出る直前に、不意にその意味が分かった。
――孤児か。
迂闊だった。
キセの礼儀や服装がしっかりしていた。だから、きっと裕福で育ちの良い家庭なんだと、勝手に思い込んでしまっていた。
孤児であって、こんなにちゃんとした挨拶ができて、おまけにしっかりとした服装をしている。
それは、一つのことを示していた。
「キセの家は、ギムナジウムか」
キセは、こくんと頷いた。
ギムナジウムは孤児院だ。それも、少し特殊な。
捨てられている子供を拾い、衣食住と教育を与える。
そうして、時期がきたら働かせる。
客を取らせて、その相手をさせる。らしい。
それが、良いことか悪いことか。私にはわからない。
ただ、ひとつだけ分かるのは。
良いとか悪いとか。そんな気持ちでキセと向かい合うのは、なんとなく嫌だった。
ギムナジウムのことは一旦、頭の隅に追いやった。
「まぁ、大変だな」
そんなぼんやりしたことを言うと、キセは慌てて首を横に振った。
「毎日が楽しいです。みんな優しいんです! 先生も、年長の先輩たちも」
ニコニコしながら言った。
その言葉に、嘘はないのだろう。
なにより、キセ自身が幸せそうだった。
それを見て、私は少し安心した。
「それなら良かった。で、今日は何をしに来た?」
「数学を、教えてください」
ああ、そうか。数学を勉強しに来たのか。
まぁ、その心意気や良しだが。
私は教えることに自信はなかった。
さて、どうしようか。
あー。あれだ。
あれやってもらおう。
「数学の前に算数だ。この問題を解いてみろ」
そう言って、
「正方形の面積の出し方は知っているか?」
「はい」
「じゃあ大丈夫だな。頑張れ」
「はい!」
そういうとキセはキョロキョロし始めた。
それから、恥ずかしそうに言った。
「隣に座っても、良いですか?」
その、ちょっと恥ずかしそうな具合が、可愛らしかった。
私は笑顔で答えた。
「ここは色々な資料とか、私の研究内容を書き留めた紙があってな。だから、立ち入り禁止なんだ。あっちの机でやれ」
キセはちょっとしょげた様子で、「はい」と答えた。
それから指差された机に座って、問題を解き始めた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
日が高くなった。時計を見ると3時を過ぎている。少し休憩しよう。
そう思ってから、キセのことを思い出した。
そちらを見ると、机の上は図や計算が書かれた紙が散乱していた。
ずいぶんと苦戦しているようだ。
たぶん煮詰まっている頃だろう。
「キセ」
そう声をかけたが、返事はなかった。
集中して、聞こえていないのだろう。
私は静かにセキのところに歩いていった。
後ろから覗きこむと、キセの手元の紙には図形と数字でいっぱいだった。
問題で出した図形を、いくつか組み合わせて考えているようだ。
悪くない。
あと 5 日も試行錯誤を続ければ、きっと解けるだろう。
何千、何万回もの
あとは失敗に次ぐ失敗に負けないで、できないことに我慢を続けて、その瞬間をただひたすら手繰り寄せるだけだ。
でも、今は。
きっと休息が必要だ。
「キセ」
そういいながらやさしく、頭に手をおいた。
キセは猫のようにビクッと反応して、それからこちらを見た。
「良い感じだな」
「……解ける気がしないです」
「それこそが、着実に進んでいる証拠だ。でも行き詰まっているんだろ。よかったらこんなときにどうすれば良いか、ヒントをやろうか」
その言葉に、キセは少し考えた。
ヒント、という言い方がよくなかったのかもしれない。全部自分で解きたい。その気持ちとぶつかって、聞いて良いのかどうか、迷っているようだった。
「問題のヒントじゃないよ。行き詰まったときのヒントだ」
キセは真剣な表情で「お願いします」と答えた。
私は「よし」と頷く。それから。
「じゃあ、出掛ける準備だ」
キセは驚きながら、「はいっ」を返し、慌てて片付けを始めた。
それが終わったのを見てから。
「じゃあ、出発だ」
そう言って、カウベルを気持ち良く鳴らしながら、外に出た。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「行き詰まったときに大切なのは、気晴らしだ。ずっと考え込むのもいいが、それで解けないなら、何かを変えていった方が効率が良い。わかるか?」
「はい」
「そのために、一回頭の中を掃除するんだ。頭の中の掃除の仕方は、人それぞれだ。散歩に出る人もいれば、料理をする人もいる。私はこれだ」
そう言って、目の前にある山盛りのパルフェにスプーンを入れ、口に運んだ。
甘味が体に染み込んでいく。
身体中が歓喜し、声にならない声が出てしまう。
「甘いものを食べると、体と精神が幸せになる。それで、また頑張れるようになるんだ」
そういいながら、スプーンいっぱいに、パルフェをすくい、口にいれた。
パルフェ、最っ高!
私たちは
私は、私とキセの分のパルフェを山盛りで注文した。そうして、届いた山盛りパルフェに
ふとキセを見る。キセは目の前のパルフェを見ているだけで、手をつけようとはしなかった。それが、なんとなく気になった。
「甘いものは嫌いか?」
「いえ」それから恥ずかしそうに「大好きです」
「なぜ食べない?」
「ギムナジウムの規則で。外では、人から貰ったものは食べてはいけないって」
「あー。なるほどな」
たぶん、トラブルに巻き込まれないようにするためだろう。
人も歩けば、トラブルに巻き込まれる。
それが子供なら、なおさら。
普段はそんなことを考えもしないが、現実として、人は売れるのだ。見た目の良くて、若ければ特に。
そういった需要は、実際に事欠くことがない。需要があれば、供給が生まれる。きっと、そういうトラブルに関わることを避けるための教育だろう。
良い教育だ。
規則の方ではなく、それをしっかり守れるようにしているところが。
「おーけー。それは大切なことだな。じゃあ、私からも 1 つ教えてやる。これは数学では大切な考えだ」
キセの顔を見ながら言った。
「あらゆることをやってみろ。問題の見た目に固執するんじゃない。馬鹿げている、と思ったことでもやってみるんだ。三角形の面積だって、そうだろ」
そう言いながら、スプーンで宙に、三角形を描く。
「三角形の面積は図形だけを見たって求められない。複製して、ひっくりかえして、くっつける。そうすることで平行四辺形になる。だから計算できるんだ。始めに考えたヤツは天才だよな。複製してくっつけたら求められる、なんてそうそう思い付くことじゃない。でも、そういうことなんだ。
目の前のものだけに固執しすぎるな。意味があるかわからないことでも、やってみることが大切なんだ。どんなことでもな」
そういいながら、これは自戒でもあるなと、苦笑した。
「ということだ。私が何を言いたいか、分かったか?」
キセは迷ったようにしていたが、それからスプーンを手に取った。
きっと、正解かどうかを気にしているのだろう。今まで正解だったものを、自分で壊そうとしているのだから。
でも、それで良い。
数学はそうやって、進歩してきた。間違った道に何度も迷い混み、戻っては進み、戻って戻って戻っては進み。そうして進歩してきた。
キセの進歩の瞬間を、私は口を弧にして見ていた。
キセの目が(><)の形に変わる。
小さなちいさな声で「ぉぃιぃ」と言ったのが聞こえた。
「パルフェは、最高って意味だ。その名前の通りだろ」
「はいっ!」それから「ありがとうございます!」
「良いよ。これが息抜きだ。私にはこれが一番だ。キセも、自分に一番の息抜きを見つけろ」
「はいっ」
キセの笑顔が、微笑ましかった。
そうして、二人で笑顔を浮かべたまま、パルフェをつついた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ごちそうさまでした」それから「ありがとうございます」
「いいよ。大したことじゃない」
そう言って店を出た。そのまま、
「あのっ」その声に振り向く、キセがこちらを真っ直ぐに見ていた。
「どうした?」
「――お返しがしたいです。ちょっと時間がかかるんですけど、ジオさんに見せたいものがあるんです」
珍しい。というか初めてだ。
キセが、自分から発言してきた。
それに。初めて私の名前を言った。
「それは興味深いな。どこだ?」
「30 分くらいかかる場所なんですけど。……一緒に行きませんか?」
「ああ」それくらいなら、食後の良い散歩になる。
「行こうか」
キセは嬉しそうに、元気良く「こっちです」と言って歩きだした。
その姿は得意気で、私はついつい口許が緩む。
さて、この街で子供が自由に歩くのは、絶対に安全、というわけではない。
不慮の事故もあれば、人拐いに捕まることだって、ないわけじゃない。
大人として、子供の安全には配慮すべきだろう。
決して、優しくしてあげる訳ではない。
「待て、迷子になられたら敵わないからな」
そう言って、キセの横に立った。
それからキセの右手を握る。
「それじゃあ、行くか」
キセは顔を赤くして、しばらく機械仕掛けのおもちゃのように、カチコチに動いていたのが、少し面白かった。
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