第41話

「ジオさん」


 キセの声で、はっとする。

 夢の中にいたように、ぼんやりとした感覚が、急に現実味を持ち始める。

 同時に。

 しくしくとした胸の奥のものが、痛みに変わった。


「大丈夫ですか?」


 キセの声に、「ああ、心配かけたな」うわべだけの言葉を返す。


「雨のなか悪いな」

「いえ。気にしないでください」それから。

「渡したいものがあるんですが・・・・・・」上目使いに言う。

「中に入っても、いいですか?」


 私は少し考えた。それから


「ああ。あまりきれいではないが。そこは勘弁してくれよ」


 そう言って、キセを家にあげた。

 部屋には、ベッドと書き物机しかない。

 キセを書き物机の椅子に座らせて、私はベッドに腰かけた。


「渡すものって、なんだ?」

「これです!」


 キセは紙袋を渡してくれた。

 開けて中を見ると、パンが入っていた。


「ギムナジウムでパン作りが流行っていて。ジオさんにも食べてもらいたくて、持ってきたんです」


 そう言って笑ったキセは、年相応の幼さと可愛さがあった。


「そうか。わざわざありがとうな」


 私は、袋の中のパンを1つ取り出して、かじった。

 味は、しなかった。

 ただ、もぞもぞとした食感だけがあって、それを飲み込んだ。


「なかなかにうまいな。キセが作ったのか?」

「はい。まだ、上手には作れないですけど」

「いや、十分うまいぜ」


 それから、残りの分を口にいれて、噛み飲んだ。


「ありがとうな。残りはまた後で食べるよ」


 パンの紙袋を、横に置く。


「私からも話があるんだ。少し大丈夫か?」

「はい、大丈夫です!」

「大切な話なんだが」


 そこまで言うと、喉が詰まった。

 言葉は引っ掛かってしまい、上手く出てこなかった。

 そんな自分を笑い、それから、拙い言葉を紡ぎだす。


「私は、数学を止める」


 キセは驚いて、悲しんで、憂いて。

 そうして、全部をしまって、言った。


「どうして、ですか?」

「私には、才能がなかった。私が大切だと思っていたものは、なんでもないものだったんだ。それに気がついた。だからやめるよ」

「ジオさんに才能がないなんて嘘です! やめないでください。――すみません。でも、少しだけ、考えてくれませんか?」

「キセは、大人だな」それから。

「分かった。ありがとうよ。もう少し考えてみるよ」


 そう言ってから。


「じゃあ、話は終わりだ。ちょっと休みたいから、今日は帰ってくれ」


 キセは「はい」と頷いて、そうして部屋を出て言った。

 溜め息。

 一仕事終わった。

 少し寝よう。

 そう思って、そのままベッドに横になった。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 コンコン。

 ノックの音だ。

 まったく、誰だよ。

 起き上がって、歩いた。

 扉までいくと。


「キセです。渡したいものがあって」


 ああ、キセか。

 そう思って、扉を開けた。

 キセは、ずぶ濡れになっていた。でも、なぜか笑顔だった。


「どうした?」

「これを」


 そう言って、両手で大切そうに持っていた紙袋から、グラスと目一杯に盛られたパルフェを取り出した。


「ジオさんに食べて欲しくて!」

「わざわざ買ってきてくれたのか?」

「はい! 大切な人にあげたいんですって。そう言ったらサービスしてもらいました」


 笑顔のキセの勢い押されて、パルフェを受けとった。


「それじゃあ、また明日来ます!」


 そういって、走って帰っていった。

 残された私は。


「お礼を、忘れたな」


 それから。

 ――ありがとうな。

 そう呟いて、部屋に入った。

 テーブルにパルフェを置いて、それから椅子に座る。

 スプーンを出して、パルフェに差し込む。

 掬いとって、口にいれる。


          甘い。

        それが体に溶けて。

       それから、涙になった。


 ――おいしい。

 こんなにも絶望的なのに。

 すべてが、甘く、優しかった。

 泣きながら、パルフェを頬張った。

 全部食べて、泣いて。

 また、泣いた。

 甘さが体に染み込んで、感情になって、溢れだしてきて。

 真っ白になって、また眠った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る