第40話
まるで泥の中に浮かんでいるようだった。
全部が曖昧で、全部が温くて。
ずっとそこに居たかった。
音が聞こえた。
いいや。聞こえなかったことにしよう。
そう思った。けれども音はずっと続いた。
それが、なんだか大切なことのような気がして、私は形を取り戻して、渋々その緩い泥から、身じろぎをした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
目を開ける。どうやら疲れて、眠ってしまっていたようだ。
トントン。
音が聞こえて、私はベッドから起き上がった。
足元がよく分からない。
ふらふらしながら歩いて、扉の前に立った。
「だれ、だ?」
「キセです」
「ん? どうした?」
「アリスさんから、ジオさんのことを聞いて、心配して来ました」
その言葉で、不意に記憶が頭をよぎる。
アリスさんの言葉が、薄いかさぶたの上から突き刺さる。
「ああ。心配してくれたのか。ありがとう。大丈夫だよ」
「それはよかったです。渡したいものがあるので、開けてくれませんか?」
「いや、すまんな。ちょっと疲れていて、今日は帰ってくれないか?」
「――わかりました」
足音が扉から遠ざかっていく。
私は思うように動かない体を、ベッドまで運び、倒れこんだ。
気を抜くと、あの光景が浮かび上がる。
――紙が引き裂かれる音。
――散り落ちる積み重ねたもの。
――アリスさんの目。
私が楽しいと思っていたことは。
私が正しいと思っていたことは。
世界では、無意味なものだった。
「なんのために、やってきたんだろう」
なんのためもない。
ただ楽しいから、やってきたんだ。
それが無意味だと分かっただけだ。
胸の奥が締め付けられて、目から熱いものが流れていく。
声を出して泣いて。
また眠った。
睡眠と覚醒、そして後悔。
それを、何回も繰り返した。
何度か、扉を叩く音が聞こえた。
でも、そのうち止まるから、放っておくようになった。
何度も何度も繰り返して、あるときやっと、終わりが見えた。
こんなにも簡単なことにたどり着くまでに、一体どれくらいの時間をかけたんだろう。そう考えると、可笑しくてわらいが込み上げてきた。
――数学を、やめればいい。
それだけで、もう苦しむまなくてすむのだから。
そう考えると、やっと体が動くようになった。
そこで、食べ物を食べて、身なりを整えた。
数学を止めるために、やることがあった。
キセに、
そうすることで、すべてを清算する。
その後は、その時に考えればいい。
しくしくする。外の雨のせいだ。
雨でも、キセは来るだろうか。
きっと来るな。あの子なら。
そう思って、少し笑った。
コンコンとノックの音。
その音に、緊張する。
深呼吸を一つして。
立ち上がり歩く。
扉の前に立つ。
手を伸ばす。
扉を開く。
そこに。
――。
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