正七角形

第18話

 図書館のあった円形都市コンパス

 そこから南に100kmほど進むと、海に面した港湾都市クレセントがある。

 港湾都市クレセントは貿易の中心地だ。

 国内外の商品を扱うため、在庫管理や時価、関税といった様々な種類の数字が飛び交う。

 そういった様々な数字を適切に処理するために、図書館テレリア港湾都市クレセントの商業集団、商会『ヘルメス』と深い関わりを持っていた。

 私も過去に一度だけ、商会ヘルメスと仕事をしたことがあった。

 それはそれは。

 苦い思い出だ。

 それ以降、私に外の仕事は回ってこないようになった。

 でも。

 今は違う。

 図書館テレリアの要石だったアリスさんは、今はいない。

 あの謎々エニグマの式を証明するまでは、外には出てこない。

 だから。

 アリスさんがやっていた商会ヘルメスとの仕事を、私がやっていくしかない。

 決意と共に、私は港湾都市クレセントに来た。

 

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「すごく活気があるでしょう!」


 そう話しかけてきたのは、馬車の向かいに座るトリルさんだった。

 小綺麗な格好をして終始ニコニコしている、見た目は20代前半といった感じだった。

 でもその実、年齢は40代後半だ。

 そして、トリルさんはこの港湾都市を取り仕切る、商会ヘルメスのトップだ。

 それを示すように、馬車も豪華だ。

 目に留まる普通の馬車は、車輪は二輪だ。

 だがトリルさんの馬車には、車輪が四輪もついている。

 車輪の数が通常の2倍だ。

 それに引かせている馬も2頭。こちらも通常の2倍。

 円形都市コンパスでは、四輪の多頭引きの馬車は見たこともなかった。

 顔には出さなかったが、さすがに内心で驚いた。

 それ以上に、感心したことがあった。

 このトリルさんは、慎みも持っているように感じた。

 もし車輪の数で権力を主張するような人物だったら、きっと、車輪が十六輪もあるような馬車だっただろう。

 そんなものを見たら、笑いを押さえられる自信はなかった。

 自分の所持物で自分の価値を見せる。

 でもそこから先は、自分の能力で示していく。

 そんな意思が感じられた。

 実際。能力の方も飛び抜けているのは、この都市の発展や商会を見れば、一目瞭然だった。

 アリスさんといい、このトリルさんといい。超人過ぎて、本当に人間なのか本当に怪しいと感じる。なにか別世界の生き物が人間の振りをしている、といわれた方がしっくり来るような。そんな、怪物で、傑物だ。


「みんな生き生きとしていますね。円形都市ではあまり見ない光景です」

「そういって頂けると嬉しいですね。

 アリスさんは辛口でした。

 肯定の言葉を聞けたことがありませんでしたから」

「それは大変失礼しました。

 アリスに代わってお詫びさせていただきます」

「いいえ、そうではありませんよ。

 私は嬉しかったのです。

 この立場になると面と向かって否定されることが少なくなる。

 みんな、賛成してくるんです。

 だから、アリスさんにはっきりと意見をいただけたのは、本当に感謝しています。

 それに、アリスさんの言うことは、的を射ていました。

 だからこそ、今のこの湾口都市クレセントがあるのです」


 そういって、一度、言葉を切った。

 それから。


「だからこそ、残念です」


 その言葉には利害ではなく、本心からの悲しみがあるように感じた。


「申し訳ございません」

「いえいえ。

 もしよろしければ、少しお話いただけませんか。

 そのアリスさんが取り組まれている問題というものを」

「数学に興味がおありですか?」

「ええ。アリスさんに負けないように、少しは勉強いたしました。

 それでも、また全然ではありますが。

 よければ教えていただきたい」


 そうか。

 聞いてしまうのか。

 私は、数学者に言ってははいけない言葉が2つある、と思っている。

 その1は「どうして学ぶのか」

 その2は「教えてください」だ。

 数学はロジックを積み上げる。

 必ずそうだと言えることを、積み重ねて結論に至る。

 だから、すべてのこと説明できてしまうのだ。

 これが、厄介だ。

 すべてのことを説明するためには、膨大な数学上の知識が必要になる。

 もし教えて欲しいといわれたら、教えるだろう。

 それは同時に、必要な知識をすべて教えることにもなる。

 それはもう、地獄だ。

 次から次へと知らないことが、終わりなく降ってくるのだから。

 だから安易に、教えてください、とはいってはいけない。

 逆に、数学者にとって、その言葉は大好物だ。

 それが、自分が興味のあることなら尚更に。

 甘美な禁忌の言葉を聞いて、私は嬉しくなってしまった。


「わかりました。できるだけおおまかに、簡潔にお伝えするようにしまう」


 そういいながら、心の中で小躍りする。

 制限を外す。私の中のものを全部話す。

 まぁ、簡潔に話すように心がけはする。

 とりあえず、できるだけ。


「まずトリルさん。あの式を見たときにどう感じましたか?」

「大きくは2つでしょうか。

 1つ目が、あの分数です。

 分数の中に分数が入って、それがずっと続いていく。

 それが目新しく、同時に雲を掴むような、不思議な感じがしました。

 2つ目が、それが円周率を表している、というところですね。

 あれが本当に円周率を表しているのか、にわかには信じられない。

 それが私の感想です」

「それの2つが分かっていれば、それがすべてです」


 おーけい。

 全力で教えましょうぞ。


「まずはあの式の書き表し方から話をしましょう。分数の中に分数をいれた式を繁分数といいます。繁分数自体は今までもあった書き方でした。そもそも分数は2つの数の割合、つまり片方から見たらもう片方は何倍か、表した数です。ですので、それを複数回行うことは、不自然ではありません。ですが、これは個人的な意見になるのですが、それでも分数の中に分数を書くことは、見た目があまり良くありません。また、すべての繁分数は、分数へ書き直すことできます。そういった観点から、実際に繁分数で表記されることはあまりありません。ほぼない、といっても良いくらいです。その方が簡潔で明快だからです。ですから、例の式は分数に直したくなるのです。もしそれができれば、歴史的な快挙です。円周率を分数で表すことは、数学者にとって長年の夢でしたから。世界の秘密を、ひとつ解き明かしたことになるのです。ですがここで、あの恐ろしい記号『……』が出てきます。私も初めてみる記号でした。でも、見ただけでその記号の意味が分かったのです。数学の記号は、見ただけで意味が分かるものが良いとされています。その点で、あの記号はこれ以上ないほど分かりやすい記号でした。あの記号を考えた数学者は、並大抵でないことが、それだけで分かります。もちろんそれは、 1 ÷ 3 の答えが 0.3 のあとに延々と 3 が続くことを0.333……と標記をするので、その応用だと言えるかもしれません。ですが、この『……』の利用の仕方として、規則性に着目して、使用できる範囲を広げたのです。全く関係ないものの中から関係性を見つけられることから、この式を作った人物の能力の高さをうかがい知れます。いや、能力の高さというより、異常性といった方が、しっくりくるかもしれません。『……』という記号の導入により、規則性によりどこまでも続くものが、記述可能になりました。数学的な美しさを利用した表記を開発したこと。これがあの式の全く新しいところであり天才的な発明である点です。ですが、同時に恐ろしいことも起こりました。『……』の表記により、そうして記述されたものが、ことになったのです。私はずっと、あの式を分数のようなもの、といいました。それは、あの式を分数に書きなおす方法が今のところ、分かっていないからです。繁分数は必ず分数に直せるといいました。これは真実です。では、あの繁分数が続く式は、分数にすることができるのでしょうか? もちろん、見た目では不可能にも感じます。ですが、見た目は物事の本質を決めません。むしろ、見た目は平気で、期待を裏切ります。今の段階では、その方法は分かりません。ですが、この式が証明されれば、その過程で何らかの答えが出ると確信しています。話を戻しましょう。あの式は分数の体裁を取っていますが、現状、分数とは言えない代物です。これは、例の『……』が悪さをしているためです。このように、誰しもが受け入れられる記号を作っておきながら、その記号は本来の性質を歪ませる猛毒も入っている。それが、あの記号の恐ろしさです。一見してはただの記号です。ですがその実、美しさと恐ろしさ、両方を兼ね備えた、そんな記号なんです。これが1つ目の見解でした。

 次に2つ目です。あの式が本当に円周率を表しているのか。これこそが、アリスさんが証明に全力を注いでいる理由です。もし証明できれば長年の悲願を達成できます。と同時に問題も残されるでしょう。なぜなら、最初に出てきたものにも関わってきますが、あの式が分数で表すためには、どうしたらよいか。それが大きな焦点になるからです。あの式は、従来の方法では、分数で表すことができません。だからこそ図書館テレリアをあげて、この事態に望んでいます。一方で、もし仮に分数にする方法が今の段階で発見できなかった場合、大きな贈り物と、大きな課題が残されることになります。それは、今の段階では誰にも分かりません。アリスさんは今、前人未到の領域への挑戦をしています。見守ることしかできないのは歯がゆいですが、同時に期待も感じています」


 そう話終わった時には、静かに微笑を浮かべていた。

 たぶん途中、話の流れから振り落とされたのだろう。

 それでも話を遮らず聞き通した忍耐力は流石だった。

 そして何より、表情に出さないのは超一流の証左だ。

 私は全部話を終わったあとに言った。


「なんか、すみませんでした」


 言葉では謝ったが、心の中の私はピカピカの笑顔で満足そうだった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 それから、また明日会うことを約束して、商会の建物を前にトリルさんと別れた。

 来賓用の部屋もあったのだが、どうもそういったものに馴染めなく性分なので、固辞した。


「アリスさんもそうおっしゃっていました。

 街の担い手が街に住んでいなくて、何が分かるんだよ。

 そう言って、街宿に止まっていました。

 ジオさんも同じで、少し安心しましたよ」


 そう言って、にこやかな表情を見せた。

 アリスさんらしい。

 そう思いながら、同じだと言われたことが、少し嬉しくもあった。

 トリルさんの屋敷をあとにして、街に進んでいく。

 街の中に宿をとるのは、別の理由があった。

 ここに来たもうひとつの理由。

 それは本の収集だ。

 図書館テレリアにとって本は生命線だ。本があるのとないのとでは、研究の捗り具合が全然違ってくる。蔵書の量が、そのまま数学の質に繋がると言っても過言じゃない。

 その生命線である本を手にいれる仕事は、かなり重要だ。

 その仕事は、今まではアリスさんがやっていた。

 だからこそ。

 これからは、私たちがその仕事をする。

 その本の入手場所として、気になっている古本屋があった。

 以前、アリスさんが話してくれたことだ。


「面白い古本屋を見つけたんだ」


 そう言うアリスさんは、楽しそうで、嬉しそうだった。

 アリスさんのそんな顔は珍しかった。

 だから、その表情と一緒に、アリスさんの話が私の中に強く残った。


「その古本屋の店主、本の価値を重さで決めるんだ。本の計り売りだぜ」


 本の計り売り。

 そんなとびきり可笑しなことをしている古本屋が、この港湾都市クレセントにはある。

 機会があれば行ってみたいと思っていた。

 とはいえ、そんな機会は来ないだろう、とも。

 そうして。

 今私は、その機会の真っ只中にいた。

 であればもう、行くしかない。 

 その珍しい古本屋に。

 そうして、その店主を拝みに。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 目的の古本屋はすぐに見つかった。

 中に入ると、店内はランプの淡い反射光で包まれていた。

 受付から、本のページをめくる音が聞こえていた。

 店、というよりは誰でも入れる書庫、と言った趣だ。

 なんとなく、図書館の地下書庫を思い起こさせる。

 嫌いじゃない雰囲気だ。

 受付では長身で銀髪の老店主が、本を読んでいた。

 早速、本棚と本棚の間に入っていく。

 本は表向き綺麗に並んでいたが、分類はめちゃくちゃだった。

 順番に並べたり、分類すしたり。

 そういったことが一切されずに、ただ、本棚に納められている。

 この中から目的の本を探すのは、まさに宝探しだ。

 ――それは。

 私はにんまりとした。

 実に面白そうだ。

 私も、ダテで図書館テレリアの司書をやっているわけじゃない。

 今こそ、司書としての能力を発揮するときだ。

 私は本棚の端から丁寧に、本を探していった。

 目的の本は――。

 みんなの顔を思い浮かべる。

 アリスさんは、なんでも喜ぶ。

 アルは、式が出てくる本がお気に入りだ。

 キセは、折り紙の絵だろうか。

 そして、私は。


「私も、折り紙かな」


 そう呟いて、ちょっと笑った。

 ――さて。

 私は、ひとつ目の棚に手を伸ばした。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 やられた。

 この古本屋の店主は相当な手練れだった。

 ある程度、ランダムに並べられていることは、最初から予想できていたが、その、ある程度が尋常じゃなかった。

 アリスさんの見つけた 355 / 113 だって、112個の数字が規則的に並んでいるというのに。

 ここの本は、今のところ、規則らしいものは見つかっていない。

 しかも、海外の言語でかかれたものもかなり多い。

 背表紙での確認がほぼ無意味で、一冊いっさつ引き出して、中身を確認しないといけない。これがなかなか大変だった。

 本を開いて、パラパラめくる。

 数学の本でないことを確認してしまう。

 心を無にして、それをひたすら続ける。

 そうして最初の本棚の終わりが見えたときに。

 それは起こった。

 その本は、東国の四季を示した書物だった。

 季節ごとの風景と、花や道具が添えられていた。

 数学の本ではないことを確認し、棚に戻そうとした瞬間。

 本が、手から滑り落ちた。

 床に落ちて広がったページ。

 それを見て、気がついた。

 いや、気がついてしまった。

 想像を越えた現実に、本を持つ手が震えた。

 折り紙だ。

 折り紙の挿し絵が目にはいった。

 拾い上げてよく見てみる。

 そこにはキセに教えてもらった、ツバキの折り方が書いてあった。


 ――まさか。


 ふとした考えが頭をよぎる。


 ――前にかかれたいた、花や道具が、全部折り紙になっているのか?

 

 そうあって欲しい。

 そうあって欲しくない。

 2つの気持ちに攻め立てられながら、本をめくる。

 喜びと絶望が仲良く手を繋いでやってきた。

 

 喜び。――やっと目的の本を、ひとつ見つけた。

 絶望。――もう一度すべての本を確認しなおし。

 

 複雑な心境だ。

 でも今は、絶望の方が、少しだけ大きかった。

 知らない言語の本が、こんなにも分かりにくいものだとは思っていなかった。

 ため息。

 それから、気を取り直す。

 収穫はあった。また明日探そう。

 明日はもっと、良い本を見つけられるから。

 自分を慰めて、折り紙の本を受付に持っていった。

 受付に本を置くと、


「587」


 渋く落ち着いた音が、静かに響いた。

 あまりにも、この店にぴったりな音で、それが、店主の声だと気がつくのに、少し時間がかかった。

 私は財布から、言われた金額をぴったり出した。

 受付に置いたの本は、店主の手で上下を私に合わせられた。

 そうしてまた静かに置かれた。

 その所作は、本に、いってらっしゃい、と言っているようだった。

 一連の動きや心持ちは、あまりにも美しさを感じさせた。

 そんな店主と、私は話をしてみたくなった。


「ここの本は、店主が?」


 店主は静かな笑みを称え、うなずく。

 あまりおしゃべりは好きではないようだ。

 それもそうだ。

 だからこんな、静かで、時間が止まったようなお店になっているのだ。

 話をしたい気持ちを押さえ、一言だけ伝えた。


「良い本屋だ。欲しい本が見つかるまで、通わせてもらうよ」


 店主は静かな笑みを返した。

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