(2)
グリフィスと出会う前、田舎の実家で暮らしていた頃、ミシェルは休みなく働き回っていた。
屋敷に使用人はいたが、必要最低限の人数でいつも人手不足だった。
それに、ミシェルは部屋でじっとしているよりも、忙しく働き回っているほうがずっと好きだった。
この城に来て、そんな生活は一変してしまった。
それでも、グリフィスが記憶を失ってしまう前は、朝昼晩と絶え間なく会いに来るグリフィスの相手をすることで、一日はあっという間に終わってしまった。暇を感じる余裕などなかった。
しかし今、ミシェルを訪ねてくる者など、誰もいない。
それでも、記憶を失ったグリフィスと会うまでは、激しく落ち込み、悲しみ、不安で、物思いにふけっている間に一日が終わっていた。
だが、はっきりとグリフィスに婚約破棄を言い渡された今、いつまでも閉じこもって悩んでいるのはやめようと思えてきた。
陰気な部屋に閉じこもっていては、いつまでたっても落ち込んだままだ。
春までは、どうしても、この城にいなければならない。
それに、グリフィスの記憶が戻ってから婚約破棄を言い渡されなければ、本当の意味でグリフィスを諦めることなど出来ないとも思えた。
だが、ただ何もせず待つのはごめんだ。
一日中、部屋でぼおっとしている毎日に、ミシェルは限界を感じていた。
それに、暗殺者のこともある。人けのない部屋にこもっているよりも、外に出たほうが安全ではないだろうか。
ミシェルは早速仕事を探すことにした。
「お願いします! どうか、お願い!」
ミシェルは、女官長をつとめる人が良さそうな中年女性のアンナを捕まえて、必死に何度も頭を下げた。
しかし、女官長はとても困った顔をしている。
それも当然である。
つい先週までは、王妃として丁重なお世話をさせていただいた相手が、メイドとして働かせてくれと言うのだから。
「それでは、陛下にお伺いして……」
ため息混じりにそう言った女官長に、ミシェルは激しく頭を振った。
「私は婚約を解消されたのです。だから、ここにいるのは、ただの地方領主の娘なんです。しかも、陛下のお情けで城に滞在しているだけで、本当ならお城に滞在できる資格などないのです。勿論、陛下のお心を煩わすような存在でもありません」
貴族といっても、数多くいる。
裕福な貴族は、地方の自分の領地には代理の管理人を雇って滅多に帰らない。王都に大きな屋敷をたてて、王城の社交界で贅沢の限りを尽くす。
国王の補佐として、政治や軍事に携わることもある。
貴族の中でも特に有力な家は、元老院のメンバーとなり、直接政治に関わる。
だが、ミシェルの実家のような貧乏貴族は、自分の領地で細々と生活するのがやっとで、王都の社交界なんてまるで縁がない。経済的に社交界デビューすることが不可能だともいえる。
王城の中心で働いている女官長のほうが、ミシェルのような貧乏貴族などよりも、ずっと多くの権力を握っているのだ。
「お城に、行儀見習いとして来ている地方貴族の娘さんはたくさんいますでしょう? 私もそうだと思っていただけないでしょうか。実際、行儀も礼儀もまるで出来ていないんですもの」
「陛下の元婚約者を、行儀見習いとは……」
女官長は額に手を当てて、低くうめいた。
「大丈夫です。誰も私が元婚約者だなんて気付きません。会ったことがありませんもの」
婚約期間中、ミシェルはほとんど部屋から出ることがなかった。
ミシェル自身、周囲の自分への態度が怖かったこともあるが、それ以上にグリフィスが外へ出そうとしなかった。
そして、ずっと部屋に閉じこもりきりでもミシェルが退屈しないように、それはもう頻繁に部屋に通ってきた。
本や珍しいお菓子でミシェルの気を引いたり、それこそ一日中、ベッドの中にミシェルを閉じこめていた時もあったぐらいだ。
「お願いします、女官長。私、仕事がしたいんです。働きたいんです」
必死の思いで懇願するミシェルの気持ちをわかってくれたのか、女官長は渋々ながらも頷いてくれた。
「ありがとうございます! 私、頑張ります!」
女官長の気持ちが変わってしまう前にと、ミシェルは急いでお礼を言うと、深々と頭を下げた。
一週間後。
サザーラント公爵ユーシスは、二人きりで女官長と会っていた。
女官長から内密で相談と報告があるから二人きりで会いたいと申し出がきていたのだが、ユーシスはとても忙しく一週間も待たせてしまうことになった。
そして、女官長から、元婚約者のミシェルから希望があり、行儀見習いとして王城内で働いているという報告を受けることになった。
「……構わないと思うよ、一応ね」
中庭の花壇で、テーブルに飾るための花を切ってもらっているミシェルが、朗らかに笑いながら庭師と話していた。
その様子を窓から見下ろしながら、ユーシスはそうつぶやいた。
「陛下のお耳にも入れておいたほうがよろしいでしょうか?」
と、心配そうに言う女官長へ、ユーシスは視線を戻す。
「入れないほうがいいと思うな」
「陛下は反対されるのでしょうか」
「どうかなぁ。ちょっと、反応が読めないんだよね、最近のグリフィスは」
記憶を失う前のグリフィスと、一見、何も変わっていないようにも思える。
しかし、時折、深く考え込んでいるのを見かけるようになった。
ミシェルが滞在している東の棟を、じっと見つめているのに気がついたことは、一度ではない。
婚約を破棄し、それ以後はまるで興味がないように装っているが、グリフィスはミシェルを心のどこかで気にしている。
だが、そんな事を指摘すれば、今のグリフィスは過剰なまでに反応し、否定しようと必死になるだろう。
その気持ちも、ユーシスにはわかるような気がした。
グリフィスは女性という生き物を全く信じていない。
だから、心を預けず、形だけの政略結婚をすればいいと考えていた。
女には騙されない、割り切った関係で子供だけもうけるつもりでいたのに、突然、心から愛し、周囲の反対まで押し切って婚約したという女性が現れれば、それは否定せずにはいられないだろう。
ユーシスは、ミシェルという女性のことをほとんど知らない。
婚約中は部屋に閉じこもりきりで会えなかったし、今は立場上、そう気安く会いに行くのもはばかられた。
だが、使用人達のミシェルに対する話を聞くだけでも、グリフィスが思っているような女性ではないのではないかと思えた。
グリフィスをたらし込んで王妃の地位を狙うような女性が、メイドに混じって働くだろうか?
しかも、ミシェルは働くことをとても楽しんでいるように見える。
そして、この女官長を始めとした使用人達の心を、すっかりつかんでしまっている。
「取り合えず、あまりグリフィスの視界に入る所では、働かせないようにしてくれるかな。もし会ったとしても、グリフィスが彼女の存在に喜ぶとは思えないからね。グリフィスが怒るにしろ無視するにしろ、彼女にとっては辛いことなんじゃないかな」
「おっしゃるとおりです、公爵様。ミシェルはきっと傷つくでしょう。ミシェルも陛下とは距離をとっているようです。遠くから陛下を見つめるミシェルの様子は、それはもう痛々しいほどで」
「彼女のほうから話しかけようとすることはないんだね」
「それはありません。今のミシェルは自分の立場をよくわきまえています。……あれほど愛し合われていたお二人が、なぜこんなことに。公爵様、陛下の記憶は戻らないのでしょうか?」
「兆候はまったくないようだね。何より、グリフィス自身が記憶を取り戻すことを拒否しているみたいだから」
「それではあまりに、ミシェルが可哀想です」
涙ぐむ女官長に、ユーシスは小さく頷いてみせる。
予想以上に、使用人達がミシェルに心酔していることを内心、驚きながらも。
「君たちは、影ながらでも彼女の味方をしてあげるといいよ。彼女は頼る人がいなくて、本当に心細い思いをしていると思うからね」
「ありがとうございます、公爵様」
深々と頭を下げた女官長が出ていくのを見送り、ユーシスは窓の外に視線を移した。
いつの間にかミシェルの周囲には人が集まり、彼女を中心に歓談している。
ミシェルには笑顔が絶えず、周囲は彼女の笑顔に魅了されたように、また笑顔を浮かべていた。
普段、気むずかしい庭師が笑っているのを、ユーシスは初めて目撃することになった。
「……さて。どうするべきかな」
グリフィスにとって、どうなるのが最良なのか。
ユーシスは一人、考え始めていた。
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