(4)
その日の夜、グリフィスは東棟への廊下を一人歩いていた。
ミシェルの部屋へと一直線に向かっているのだが、心の中は未だ激しく葛藤していた。
ミシェルの元婚約者が訪ねてきたという情報は、ユーシスから聞いた。
グリフィスが聞きもしないのに、その元婚約者が大した美形だったとか、ミシェルにとても親しげだったとか、まるで見てきたかのように事細かに報告してきて。
気にせずにはいられない。
その直前、元婚約者の元に身を寄せたいと言ったミシェルに、勝手にすればいいと言ったばかりなのだから。
ミシェルがこの城を出ていくかと思うと、激しい焦燥を感じた。
馬鹿みたいに、彼女に惹かれているせいだとは、わかっている。
だから、自分のこの焦燥は押し殺し、ミシェルが城から出て行くのを歓迎するべきだということも、よくわかっていた。
そうすれば、きっと時間がたつにつれ、ミシェルのことを忘れられるはずだ。
なのに、今、グリフィスはミシェルに会いに、その部屋に向かっていた。
そんな自分を自分で腹立たしく思いながらも、廊下を歩く足が止まることはなかった。
扉の前に立ち、グリフィスは大きく息をつく。
会ってどうする。
会って何を聞くというのか。
もし、ミシェルが帰ると言い出したら、自分はそれを止めるつもりなのか。
なんて言って?
勝手にしろと言ったばかりだというのに。
自問自答を繰り返しながらも、グリフィスはやはり回れ右をする気にはなれなかった。
覚悟を決めて、扉にノックをする。
「?」
ノックの後、しばらく待ってみても、部屋の中から返事はなかった。
まさか、もう帰ったということはあるまいと思いつつも、グリフィスは焦る心で扉を開けた。
テーブルの上のランプの明かりが、暗くなっていた。
そろそろ油ぎれなのだろう。炎が小さい。
薄暗い室内で、グリフィスはすぐにミシェルを見つけた。
長椅子に、しどけない格好で眠ってしまっているようだった。
綺麗に結い上げられていた髪がほつれ、クッションの上にちらばっている。
その髪と白い顔が、薄闇の中、光を放っているようにぼんやりと浮かび上がっていた。
とても綺麗で、グリフィスはおもわず息をのむ。
足音をたてないように気をつけて、グリフィスはミシェルの側へと歩み寄っていた。
何か刺繍をしているうちに、眠ってしまったらしい。長椅子の下に落ちていたその布地を拾い上げ、テーブルに戻す。
そっと、クッションに散らばっている髪に指を伸ばした。
金色の綿毛のような巻き毛に、一度触れてみたいと思っていたのだ。
指先で触れた髪は、柔らかく細く、グリフィスの無骨な指にしなやかに巻き付いてきた。
指先だけでなく、両手で豊かな髪をかきあげてみたい。
すべらかな髪の感触を、手だけではなく唇でも感じたい。
そんな衝動に駆られ、このままでは本当にそうしてしまいそうで、グリフィスは指をはなした。
長いまつげが頬に淡い影を落としている。
陶器のように白くなめらかな頬が、闇の中で白く浮き上がって見えた。
小さな寝息にあわせて、かすかに胸が上下している。
こうして見ていると、本当に小柄で華奢な女なのだ。
頼りなげな風情で、強く抱きしめたら折れてしまいそうで、壊してしまいそうで。
気がつくと、ミシェルの頬に指先で触れていた。
部屋が冷えているせいか、頬はひんやりとして、本当に陶器めいていた。
きめ細やかな白い肌に触れるグリフィスの指は、浅黒く堅い。そして、ミシェルの頬よりも、ずっと熱かった。
ごく自然に、まるでそうするのが当たり前のように、グリフィスはミシェルの唇に自分のそれを重ねていた。
花の香りがした。そして、懐かしいお日様の香りがした。
どっと胸に、何か熱い思いがあふれてきた。
触れるだけのつもりのキスは、次第に深くなっていった。
ミシェルを起こしてしまうかもということは、グリフィスの頭の中から消え失せてしまっていた。
甘い唇を自分の唇で割り開けて、舌でミシェルの唇に触れる。
グリフィスは更にキスを深めようとしたが、ふと動いたミシェルの唇に動きを止めた。
「……ん…グリフィス……」
グリフィスは、ゆっくりと身を引く。
身じろぎしたミシェルが、そのまま再び眠りの中に落ちていくのを、息を殺し見守った。
甘いキスは、苦いそれに一変した。
冷水を浴びせられたように、グリフィスの心と体の熱は、急速に冷めていった。
ミシェルにとって、キスしてくる相手は、婚約者の『グリフィス』だけなのだ。
今のキスを、夢の中で婚約者とのキスと勘違いしても、彼女を責められない。
なにしろ、キスしている男と、同じ唇なのだから。
わかっていたことだ。
ミシェルが記憶を失った自分を、気にもとめていないことは、よくわかっている。
だが、どうしようもなく胸がざわめいて、グリフィスは叫び出したくなった。
叫んで、ミシェルを揺さぶって起こし、今度はこの自分とキスをさせたかった。
彼女の記憶の中にいる、婚約者のグリフィスを忘れさせるほど、激しく甘いキスをしたくなった。
(これは嫉妬だ)
ミシェルの寝顔を見ていられなくて、足早に部屋を出る。
(俺はミシェルの婚約者だった自分に、嫉妬している)
あまりにも馬鹿馬鹿しくて、グリフィスは自嘲げに喉の奥で低く笑い出した。
(そして、幼なじみの元婚約者にもだ)
自分で思っている以上に、深みにはまってしまっている。
もう……、恋してしまっている。
そして体は正直に、ミシェルが欲しいと、苦しいほどに訴えてきている。
キスしただけで、グリフィスは自分の中の欲望に火がついたことに、気がついていた。
もし、ミシェルがグリフィスの名を呼ばず、目を覚ますことがなければ、きっと抱こうしていた。
今まで、キスしただけで抱きたくなった女などいなかったというのに。
廊下をほとんど走るような歩調で進んでいたことに気がつき、グリフィスは吐息を漏らして立ち止まった。
冷静にならなくては。そして、ミシェルのことは、心の中から追い出さなければ。忘れなければ。
これ以上、惨めな思いをしなくてもいいように。
そう自分に言い聞かせ、じっと目を閉じる。
グリフィスは唇に指をあて、ミシェルの唇の感触をぬぐい取ろうとしたが、より鮮明になっただけのように感じた。
◆
一ヵ月後の、十二月に入ったある日、エルが嬉しそうにミシェルの部屋にやってきた。
「なんとか都合がつきましたよ」
「え?」
「陛下の誕生日パーティーです。陛下付きの侍従に協力してもらえることになりました。お会いできそうですよ」
ミシェルはぱっと顔を輝かせた。
誕生日になんとか会えないものかと、随分前から、侍従見習いをしているエルに頼んでいたのだ。
「本当!」
「はい。パーティーに出席するのは無理そうですが」
「そんなこと! お会いできるだけで十分だわ」
ミシェルは刺繍途中のベストを、胸にぎゅっと抱きしめた。
誕生日に間に合うように、毎日毎日夜遅くまで頑張って作っているプレゼントを、当日に贈れるなんて夢のようだった。
しかも、会って直接渡せるなんて、思ってもみなかった。
最初で最後のチャンスかもしれない。
グリフィスに会って、愛していますと告白できる、最後のチャンスかもしれない。
とっておきのドレスを着て綺麗に髪を結い上げ、お化粧もして。プレゼントを渡し、愛していますと自分の正直な気持ちを伝えよう。
出来れば、二人の馴れ初めも話したい。
財産目当てなどではないし、王妃になることも望んでいなかった。ただお互いがお互いの側にいたかっただけ。
偶然に巡り合い、ただ純粋に愛し合い、ずっと一緒にいるために婚約したのだと、わかってもらいたい。
それで、少しでも二人の間の距離が縮まってくれれば。以前のような優しいグリフィスが戻ってくれば……。
「ありがとう、エル。私、頑張るから」
ミシェルは、再び刺繍にとりかかった。
グリフィスの誕生日は、二週間後にせまっていた。
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