(3)


 ミシェルは、グリフィスが扉の向こうに姿を消すのを、挨拶をするのも忘れ、ただ呆然と見送っていた。


 最初は、驚くほど友好的に会話が始まったのに。

 最後はやはり、グリフィスは怒って出て行ってしまった。


(グリフィスだなんて、今も婚約者みたいに図々しく口にしたせいだわ)


 そこから、会話の雲行きは怪しくなったのだ。

 ミシェルがまだ婚約者気分なのだ、また婚約者に戻ろうと狙っているのだと、そう思われてしまったのだろう。


「大失敗」


 ため息をつくと、ミシェルはソファに腰を下ろす。


 グリフィスとは滅多に会えない。

 ミシェルが会いたいと望んでも会えるわけはなく、今日のようにグリフィスの気が向いたときだけなのだ。


 とても貴重な機会だったのに。

 会えて話をする時間があるなら、たくさんのことを話したいと毎日のように考えてきたのに。

 もしかしたら、もう春まで、一度も会えずに終わってしまうかもしれない。


(記憶は……本当にもう戻らないのかしら)


 グリフィスは、記憶が戻っても再び婚約することはないと断言していたが、ミシェルは心のどこかでその言葉を信じていなかった。

 だが、今のグリフィスはあまりにもミシェルの知るグリフィスとは別人で、そのギャップは会うたびに大きくなっていく。

 記憶が戻ったなら、何もかも元通りになるのではという希望の光は、消えそうになっている。


 ずっと手の中に握り締めていた鍵を、そっとテーブルの上に置いた。

 王妃の間の鍵。この王城に来て記憶を失うまで、ミシェルとグリフィスがほとんどの時間をすごした部屋。

 失った記憶に深く関係するものに触れると、それに刺激されて記憶が戻ることがある。以前、父から借りた本に書いてあった。

 だが、グリフィスは王妃の間に入っても、何も思い出すことはなかったということ。

 まるで、自分の意思で、失った記憶を消そうとしているようにさえ思えた。


(思い出そうとしていないもの)


 半年間のことを、ミシェルに尋ねることもない。

 普通なら、記憶を失った間のことを知りたがるものだ。

 グリフィスは、全く興味もなく、それどころか無かったことにしたいと強く願っている。

 なぜそこまで、婚約したこと、恋愛したことを否定したいのか、ミシェルにはわからない。

 自分のような女と婚約したことが許せないのだろうかと、不機嫌なグリフィスに会うたびに、そう思うぐらいで。


 だが、ミシェルを王妃にと強く願ったのは、グリフィスのほうだったのだ。

 ミシェルは王城に行くことも、婚約することも、かなり躊躇した。グリフィスを愛してはいたが、自分が王妃になれるような女だとは、とても思えなかったからだ。

 それでも、グリフィスが必ず守ると約束してくれ、ミシェルはただ側に居てくれさえすればいいと言ってくれたから、王城に来たというのに。


 ふうとため息をつき、ミシェルはグリフィスが来たときに片付けた、やりかけの刺繍を出してきた。

 グリフィスの誕生日がもうすぐなので、プレゼントにと、豪華な刺繍をしたベストを作っている。

 女官長が協力してくれて、上等の布と刺繍糸を用意してくれたので、なかなか素敵な物が出来そうだった。


 細かい刺繍をしていると、集中して他のすべてを忘れていられる。

 愛されていると確信していた、信じていたグリフィスへの不信感。

 このまま婚約のことなど忘れて、何も無かったように実家に帰ってしまいたい。もう、グリフィスを諦めてしまいたい、そんな現状から逃亡するばかりのような、気弱さを。


 一針一針、ミシェルはグリフィスへの思いだけを胸に、針を刺す。

 グリフィスと、そして彼を愛した自分を、信じようと思う。

 一度は結ばれた二人なら、きっとまたうまくいくと、そう自分に言い聞かす。


 集中し始めていたところに、また扉にノックがあった。

 この部屋の訪問者は少ない。

 エルか女官長か、東棟付きのメイドぐらいなものだ。

 ミシェルはその内の誰かと思い、気楽に席を立ってドアを開けた。


「ミシェル」


 しかし、ドアの外に立っていたのは、その誰でもなかった。

 淡いサラサラの金髪に、細面な端正な容貌。変わらない優しい笑顔が、ミシェルを見つめていた。


「レスター!」


 幼なじみの元婚約者、レスターだった。




「久しぶりだね、ミシェル」


 向かい合った席に座り、にっこりと微笑んでいるレスターを、ミシェルは信じられない思いで見つめていた。


「レスター、どうして?」

「国王陛下が婚約を破棄したと聞いたから。記憶喪失になったのが原因とか。本当なのかい?」


 秋の収穫祭に王都に来て、レスターは初めて婚約破棄を知った。

 だが、ミシェルがその後どうしているのかという情報はほとんどなく、ようやく未だに王城にいるとわかり、訪ねてきてくれたのだ。


「本当なんだね?」


 小さく頷いたミシェルに、レスターは大きくため息をつく。

 悲しげに、形のよい眉はひそめられた。


「ミシェルのことは、全て忘れてしまわれた?」

「そうなんです。私と会った時ぐらいから全部、忘れてしまって。すぐに婚約を破棄されました」

「辛かったね、ミシェル」


 レスターに優しく言ってもらえて、ミシェルはおもわず涙をこぼしてしまっていた。

 エルが居てくれるといっても、この王城でずっと一人、ミシェルは気を張って頑張って来た。

 兄のような存在のレスターに会えただけでも安心できたし、優しい言葉には涙を抑えることなど出来なかった。


 レスターはミシェルの隣に座り直すと、ハンカチを差し出してくれる。

 そして、ミシェルが泣き終わるまで、そっと肩を抱いてくれていた。


「今の陛下はミシェルのことをどう思っているの?」


 ミシェルが泣きやむのを待って、レスターがそっとそう聞いてきた。


「嫌われているわ。会うと怒鳴られるばかりで……。私のことを金目当てで近づいてきた女だと思っているの」

「あの、陛下が」

「ええ」


 レスターも、グリフィスの溺愛ぶりを知る一人だ。

 驚いた表情を隠せず、ミシェルを見返す。


「一体どうして。国王陛下ならば、記憶を失っても、またミシェルを愛するだろうと、私は思っていたが」


 レスターがそう思うのも無理は無いほど、グリフィスはミシェルを溺愛していたのだ。


「ちゃんと陛下とお会いしている?」

「いいえ。陛下にお会いするのは、とても難しいんです」

「陛下の元婚約者じゃないか」

「私と婚約したのは、気の迷いだったと言われてしまったんです。気が狂っていたとまで言われて」


 うつむいてしまったミシェルの肩に、レスターは励ますように手を置いた。


「陛下に忘れられて、あなたがとても辛いことはわかります。しかし、陛下も記憶を失って不安でないわけがありません。そうでしょう?」

「……そうでしょうか」

「国王陛下が、自分の不安を周囲に悟られるようでは大変ですよ。それに、とてもプライドの高い方ですから、自分の弱みをさらけ出すとは思えません」

「そう、なのでしょうか」

「ミシェル、あなたは陛下にちゃんと愛しているとお伝えしたのですか?」

「いいえ。とても、そんなことをお話しする時間などなくて……」


 言われてみれば、一度もグリフィスに愛していると言ったことがなかった。

 そんなことを話す雰囲気ではなかったのも事実だが、それよりも、嫌われている相手に、愛を告げるのはとても難しい。

 手ひどく拒絶されてしまったら、傷つけられる。それだけではなく、グリフィスとの大切な思い出さえ、壊されてしまうような気がする。

 だから、今までそうしようと思えなかったのかもしれない。


「二人がどう出会ったのか、どういう経緯で婚約したのか、陛下はご存じないのですか?」

「はい……」

「ミシェル。それでは」

「そうですね。誤解されても、仕方がないのかもしれません」


 今のグリフィスにとって、ミシェルはいきなり現れた身分違いの婚約者にすぎない。

 財産や権力目当てかもしれないと警戒するのは当然だし、グリフィスの周囲にはそういう悪い話を耳に入れる人ばかりなのだから。

 ミシェルが自分をわかってもらいたいのなら、自分自身で行動しなければならない。

 黙ってじっとグリフィスの罵倒に耐え、記憶が戻るのを待っているだけでは、いいほうには変わっていかないのだ。


「ですが、一人、ここで奮闘するのは大変でしょう。味方もいません。一度、私の屋敷に来ませんか? 陛下と少し距離を置くことも、必要でしょう」


 優しく、レスターがそう言ってくれた。

 実は、ミシェルも同じことを考えていた。

 このままグリフィスと会うたびに傷つけられるのなら、少し距離を置いたほうが、グリフィスと冷静に話し合えるのではないかと。


「ありがとうございます。でも、私、ここで頑張ってみます」


 傷つくことを恐れ、自分をわかってもらう努力をせず、諦めてしまいたくはない。

 まだ、自分に出来る努力を、全てやれたと思えないから、出来る限りのことをやるまで、この王城にいたい。

 またここに戻りたいと希望しても、王城になど、そう簡単に滞在出来ないのだから。


「わかりました。ミシェル、私はいつでもあなたの味方です。何かあった時は、遠慮なく頼って来てください。いいですね?」

「ありがとうございます、レスター」


 そんな風に言ってもらえたのは、この王城に来て以来、初めてのことだった。

 一人ではないと言ってもらえて、ミシェルは心から微笑むことが出来た。


 

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