(2)


 ミシェルは、一人で部屋にいた。

 ずっと一人で、刺繍などの針仕事をしているらしい。

 いつも一緒にいた執事は、侍従長の下で見習いとして働いていると、グリフィスは報告を受けている。

 突然現れたグリフィスに、ミシェルは慌てて手芸道具を片付けていた。


 きちんと髪を結い上げているミシェルは、初めて見る。

 ふわふわの巻き毛を背中に流しているのも美しかったが、こうしてきちんと結い上げ、白くて細い首とうなじをあらわにしていると、妙齢の美しい貴婦人そのものだ。


(これで、王妃の間にあったドレスを着せれば、何処に出しても恥ずかしくない王妃になるだろう)


 ふと、そんなことを考えた自分に、グリフィスは顔をしかめた。


「こちらにおかけください。今、お茶を頼みますので」

「必要ない」


 困ったようにこちらを見るミシェルに、グリフィスは少し語気を緩めて説明した。


「私がここに来ていることは、誰にも話していない。あまり知られたくない」

「はい。わかりました」


 意外にも、ミシェルはそれで納得し、グリフィスの向かいに腰を下ろした。

 国王が自分の部屋に来ていることを宣伝されては、たまったものではないと警戒していたグリフィスはほっと安堵する。


「ここはずいぶん寂しいところだ。女性が一人で生活するには、不向きなようだな」


 グリフィスがおだやかに雑談を持ちかけてきたので、ミシェルは驚いた顔をしている。

 だが、ミシェル以上に、グリフィス自身がそんな自分に驚いていた。


「全く人が来ないので、逆に安全なようです」


 グリフィスが後悔して発言を取り消す前に、ミシェルは驚きの表情を微笑に変えて、そんな風に話し返してきた。


「そんなものか」

「はい。誰も彼も、私の存在を忘れてくれたようです。毎日、とても静かな日々を過ごしております」


 まるでそれが望ましいことのように、ミシェルは微笑んでいる。

 その優しい微笑み、静かでおだやかな話し声を、グリフィスは好ましいと感じていた。


「舞踏会を欠席したそうだな」


 だが、そんな自分の心の動きが不愉快で、グリフィスはあえて不愉快な話題を出した。


「申し訳ありません。侍従の方が気を使ってくださったのは嬉しかったのですが、私などは華やかな場所には不釣合いですし。今は目立たないほうがいいと、思ったものですから」

「………」


 舞踏会の招待が、グリフィスからされたものだとさえ、ミシェルは思ってもいないようだ。

 義理でされた招待だから、大勢の招待客の内の一人だから、気軽に欠席できたのだろう。

 国王の招待を欠席するとはと、責めるつもりでいたグリフィスは、何も言えなくなってしまった。


「ドレスがないから欠席したと聞いたが」


 ミシェルは、頬をさっと赤く染めた。


「はい。あの。それが一番、わかりやすい理由だと思いましたので……」


 グリフィスは、持って来た鍵を、テーブルの上に置いた。

 不思議そうに見てくるミシェルの方に、押し出す。


「王妃の間の鍵だ」

「?」

「ドレスもアクセサリーも、自由に使うといい。一度やった物を、返せなどと言うつもりはない」


 ミシェルは呆然としている。

 しかし、すぐにグリフィスが何をしようとしているのか理解すると、今度は真っ青になった。


「困ります!」


 悲鳴のようなミシェルの声に、グリフィスはむっと眉をひそめた。


「あの、あの、陛下。この部屋は次期王妃様がお使いになる部屋です。私には必要ない部屋です」

「部屋を使えと言っているわけじゃない。ドレスとアクセサリーを取りに行けと、言っているだけだ」


 ふるふると、ミシェルは夢中で首を横に振っている。


「それこそ、私には必要ないものです」

「一度は受け取ったもののはずだ」

「受け取ったとき、私は陛下の婚約者でした。今は違います」

「当たり前だ。だから、婚約破棄をしたら返せとは言わないと、そう言っている」


 ミシェルは喜んで受け取るものだと思っていた。

 そうすれば、やはり金目当てだったのだろうと、納得できると思っていたのに。

 ミシェルは必死の様子で、鍵を受け取ることを拒否している。


「違うのです。あの。あのプレゼントは、私が婚約者になるために、頂いたものです。陛下の隣に婚約者として立つときに、どうしても必要な品だったからです。今の私には必要ない物です。頂くわけには参りません。」

「………」

「も、申し訳ありません」


 ミシェルは深々と頭を下げている。

 グリフィスが与えようと言っているのに、それを素直に貰えない無礼を、謝っているのだ。


「それなら、ここにある物を慰謝料の追加ということにする。それでいいだろう」


 やはり、ミシェルはぎょっと顔を上げた。


「とんでもありません。慰謝料だなんて、必要ありません」


 泣きそうな顔で、懇願してくる。


「何を言う。すでに十分貰っていると、言っていたじゃないか」

「は?」

「俺が慰謝料を払うと言ったら、お前はもうすでに十分に貰っていると答えたじゃないか」


 ようやく思い出したのか、ミシェルは小さく息をついた。

 そして、小さく首を横に振ってみせる。


「私が十分に頂いていると言ったのは、それは、陛下との大切な思い出のことです」

「………」

「半年の間、私はグリフィスと一緒に生活できて、本当に楽しかった。半年の間だけでしたが、グリフィスは私を愛してくれました。こんな田舎貴族で何の取り柄もない、私を。夢のような日々でした。私にとって、何物にもかえられない、宝物の思い出なのです」


 夢見るような微笑を、ミシェルは口元に浮かべた。

 失われた時間を思い出しているのだと、わかった。


「この思い出以上に大切なものなど、私にはありません。他には何も必要ありません」


 と、ミシェルはグリフィスを見つめた。

 うっとりとした、優しく甘い、とろけるようなミシェルの視線に、グリフィスはどきりとさせられた。


 だがすぐに、ミシェルが見ているのは自分ではないことに気が付いた。

 ミシェルが見ているのは、『グリフィス』なのだ。

 もうすでに失われてしまった、グリフィスの中に眠っている、過去の恋人。

 決して、今現在のグリフィスではない。


「グリフィスは俺だ」

「し、失礼しました。申し訳ありません」


 婚約者でもない女が、軽々しく国王の名前を口にするなど、許されることではない。

 ミシェルはグリフィスの怒りを、そのことについてだと受け止め、深く頭を下げた。

 だが、グリフィスの言いたかったことは、勿論、そんなことではない。


(記憶を失った俺など、この女の眼中にはないのだ)


 グリフィス自身は、ミシェルのことが気になって仕方が無いというのに。


(馬鹿馬鹿しい)


 ミシェルは、金目当て王妃目当ての女ではないかもしれない。

 本当に純粋な気持ちで二人は愛し合って、婚約したのかもしれない。


 だが。

 ミシェルは、婚約者が記憶を失った途端、あっさりと背を向けたのだ。

 グリフィスにそっぽを向かれ、愛されていないと知ると、あっさりと婚約者を忘れられる程度にしか、愛していなかったということじゃないか。

 この女の愛情は、その程度だったということだ。


 グリフィスは、驚くミシェルの前で、低く声を上げ笑い出していた。


 思えば最初からそうだったじゃないか。

 婚約破棄をあっさりと受け入れ、記憶が戻っても今までどおりにはいかないと言い渡され、すぐに実家に帰ろうとした。

 今もこの城にいるのは執事の男が進言したからで、執事が何も言い出さなければ、ミシェルは無理をしてでもこの城を出ていっていただろう。


 そして、あの髪を切った時もそうだ。

 記憶を失う前と今のグリフィスを、明確に区別していた。


 長い髪を愛していたグリフィスと、長い髪は気に入らない国王陛下。

 どちらも同じ男だというのに。

 きっとどちらも同じように、ミシェルの髪を愛しているというのに。


「陛下?」


 グリフィスが突然笑い出したので、ミシェルは驚きと怯えの混じった目で見上げてくる。

 そんな目を、グリフィスは見慣れていた。

 ミシェルだけではない、滅多に会うことのない地方貴族に会うとき、彼らはいつもこんな目をしている。


「あの……。私、何か気に触るとことを?」

「なんでもない」


 と言いつつも、押し黙ったグリフィスに、ミシェルは不安そうな、泣きそうな顔をしていた。

 だが、グリフィスが無言のままでいると、意を決したかのように、口を開いた。


「陛下。私、王城を出たほうがいいと思っているのです」

「ここを出て、何処に行くつもりだ」

「知り合いが、収穫祭の見物に王都に参っております。頼れば、春まで滞在させてもらえると思うのですが」

「知り合い?」

「私の幼なじみで、元婚約者です」


 国王との婚約がなくなったから、すぐに元婚約者と寄りを戻そうというのか。

 記憶のない婚約者などに用はないと、そういうわけか。

 グリフィスはかっとなったが、ミシェルの前で取り乱したりすることは、プライドが許さなかった。


「勝手にすればいい」


 これ以上、ミシェルの顔を見ていたくなくて、グリフィスは立ち上がった。

 そのまま部屋を出て行こうとすると、ミシェルに呼び止められる。


「陛下。この鍵を、お持ちください」


 ミシェルは、あくまでもプレゼントを受け取らないつもりだ。

 あの鍵を、グリフィスに差し出してきた。


「ドレスもアクセサリーも、売ればいい。それを持参金にすれば、婚約者も喜ぶだろう」

「そんな。頂いた物を売るなんて、出来ません」

「勝手にすればいい。春になってもまだあるようなら、適当に処分させる」


 ミシェルの瞳が涙で潤み始めたのに気がつき、グリフィスは口を閉ざす。

 そして、そのままミシェルに背を向けると、部屋を出て行った。

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