第八章 幼い恋は緑の森に埋めて

(1)


 初めてグリフィスとミシェルが出会ったのは、ヴァロア伯爵家の裏手にある、大きな森の中だった。




 一頭立ての馬車に一人で乗ったミシェルが、そこを通りかかったのは全くの偶然だった。

 ちょっとした用事で村まで出かけ、屋敷に帰る途中。天気が良かったので、少し回り道をした途中だった。


 最初に見つけたのは、立派な馬。

 ここらへんではちょっと見ない栗毛の立派な馬は、鞍を乗せていたが、その乗り手はどこにもいなかった。

 ミシェルは驚いて馬車を止め、その馬に近寄る。そして、馬のすぐ側、高い草むらの中に倒れているグリフィスを見つけたのだ。


「大変!」


 慌てて息を確かめる。脈も確かめたが、どちらもしっかりとしていた。

 どうやら、気を失っているだけらしい。


 苦しそうな馬の嘶きに、ミシェルは馬の前足が熊の罠にはまっている事を確認する。

 罠にはまった馬の背から振り落とされたのだろう。落馬のショックに気を失っているのだ。


「大丈夫ですか! 目を覚ましてください!」


 ミシェルはグリフィスの頬を、少し力を込めてたたいた。

 グリフィスはすぐに目を覚まして、びしばし頬をたたいてくるミシェルの手を、五月蝿そうにはねのけた。


「痛いっ」

「痛いって、どこが? 腕? 足? 背中?」

「お前がばしばし叩く顔が痛いっ!」


 急に怒鳴ったグリフィスに、ミシェルは驚いて目を丸くした。


「人の顔を勝手に叩くな」


 一瞬、呆気にとられたミシェルだったが、すぐにぷっと吹き出した。

 途端に、グリフィスは眉をひそめる。


「なにがおかしい」

「だって」


 不様に落馬して、草むらの中に倒れていて。

 こっちは落馬のショックでどこか痛めたかと心配しているというのに。

 逆に偉そうに怒鳴りつけてくるグリフィスが、ミシェルにはおかしくてしかたがない。

 だが、ミシェルが笑えば笑うほど、グリフィスは不機嫌な顔になっていくので、さすがに笑うのをやめた。


「一番痛いのが顔なら大丈夫ね。立てます?」


 笑うのをこらえて聞いているのだが、どうしても口の端がぴくぴくとしてしまう。

 それをグリフィスは不機嫌そうに見ながらも、ミシェルに聞かれたとおりに立とうと体に力を入れた。


「………」

「どうやら、立てないみたいね」

「………」

「私の肩を貸すから、なんとか馬車まで歩いてもらえる?」

「誰がお前の肩なんかっ」


 ミシェルは、こらえきれずに、また笑い出してしまっていた。

 グリフィスの態度はこれ以上なく尊大なのだが、草むらの中に泥だらけで倒れている姿でいばってもらっても、おかしいだけだ。

 だが、こちらを睨んでくるグリフィスの眼光の鋭さに、ミシェルはこほんと咳払いして、笑いを収めた。


「ごめんなさい。もう笑わないから」

「俺の前から消えろ」

「そんな事言って、いいの? ここらへんは、ほとんど誰も来ないのよ」

「………」

「一人じゃ立てないのに、馬だって罠にかかったままだし、私を追い帰してどうするつもり?」

「………」

「素直になったほうがいいと思うけどなぁ」


 しばらくの間、グリフィスは無言だった。

 ミシェルも、何も言わずに待っていた。


「わかった」


 観念したようにグリフィスがつぶやいたので、ミシェルは笑わないように苦労しながらも、グリフィスに肩を貸した。


「どこが痛む?」

「どこもかしこもだ」

「骨折してそう?」

「それはなさそうだな」


 どうにかグリフィスを馬車まで歩かせる。

 汗だくになりながら、ようやくグリフィスを御者台に引っ張り上げたミシェルは、ふうと息をついて馬に鞭を当てた。


「馬はちゃんとあとから見に来てもらうから。もしかしたら、まだ走れるかもしれないし」

「すまない」


 素直にお礼は言えるんだと、ミシェルはグリフィスを横目で見た。

 グリフィスは罠にかかったままの馬を、どこか悲しそうな目でじっと見つめていた。

 いばりんぼうだけど、優しい人なんだと、ミシェルはグリフィスの第一印象を少し修正した。


「私、ミシェルっていいます。ミシェル・ヴァロアです」

「グリフィスだ」


 ミシェルを振り返ったグリフィスは、またあの不機嫌な顔に戻っていたが、ミシェルはもう気にしなかった。




 落馬したせいで、グリフィスは全身を強く打っていた。

 それでも、打撲だけで骨折はなかったのが、不幸中の幸いだった。

 ヴァロア伯爵夫妻の強い勧めもあって、グリフィスは体調が戻るまで、伯爵家の客人となることになったのだが。


「あきれた」


 ミシェルはそうつぶやいて、顔をしかめた。

 伯爵家のメイドに着替えをさせてもらっていたグリフィスは、じろりと横目でミシェルをにらむ。


「着替え中だぞ。覗くな」

「それなら、ちゃんと部屋のドアぐらい閉めてよね」


 せっせとグリフィスの服のボタンをとめていた若いメイドは、さすがにばつが悪くなったのか、グリフィスとミシェルにぺこりと頭を下げて部屋を飛び出していってしまった。


「可哀想に」


 少しもそう思っていないのが明らかな口調で、グリフィスがそうつぶやく。

 ミシェルは、むっと眉を寄せた。


「うちのメイドを誘惑するのはやめてよね!」

「誘惑だなんて、人聞きが悪い」

「事実でしょ!」

「着替えを手伝いたいって言ってきたのは、あっちのほうだ」

「それなら、グリフィスが断ってよ。もう着替えぐらい一人で出来る年齢でしょ」

「別に断らなくたっていいじゃないか」

「よくありません」

「どうして?」


 本気で不思議そうなグリフィスに、ミシェルは再び呆れたようにため息をついた。


「グリフィスは、とっても素敵な男性なのよ」


 同じ意味の言葉なら、聞き飽きるほど聞かされているグリフィスだが、これほど率直で飾り気のない言葉で言われるのは初めてだった。

 まして、それが悪いことのように言われることも、生まれて初めて。

 グリフィスが驚きに言葉がでない間に、ミシェルの話はどんどん続いていった。


「ここらへんじゃ、見かけないぐらいよ。だから、うちのメイド達がグリフィスとお近づきになりたいと思うのは当然でしょう? それは別に変なことじゃなくて、普通の事だと思うわ。でも、グリフィスはうちのメイド達に特別な感情を持っていないでしょう? それなら、きちんとメイド達の行きすぎた行為については、拒否してくれないと困ります。メイド達は変に誤解しちゃうし、風紀が乱れますから」


 グリフィスは爆笑した。

 大笑いすると、まだ腹筋が痛んだが、それよりもおかしくて笑いは止められなかった。


 今までに、グリフィスに向かって『風紀が乱れる』と言ったことのある人はいない。

 王宮の社交界では、『風紀が乱れる』のは当然のことだったし、いつも下心のある女性達に囲まれているグリフィスに、そんなことを注意する人などいなかった。


「私、なにか変なこと言った?」


 だが、ミシェルにはそれが普通なのだ。

 不思議そうな顔でグリフィスを見ている。

 グリフィスは笑いをどうにか収めると、出来るだけ神妙な顔をつくってみせた。


「よくわかったよ、ミシェル。気を付けるようにする」

「わかっていただけてよかったわ。メイド達にもちゃんと言い聞かせておきますけど、よろしくお願いね」


 にっこり笑い、ぺこりと頭を下げて出ていくミシェルの姿を、グリフィスは微笑みを浮かべた顔で見送っていた。




 数日後、グリフィスはすっかり体調もよくなっていたが、帰るとは言い出さなかった。

 親には事情を説明した手紙を出すので、しばらく滞在させてくれないかと言い出したグリフィスに、ミシェルの両親は快くうなづいたのだ。


「気に入っちゃったんでしょ?」


 森の中を二人でのんびりと散歩しながら、ミシェルがそう言った。


「なにが」


 グリフィスはそっぽを向きながら答える。


「この森。最初は馬鹿にしてたくせに、最近、しょっちゅうお散歩に行きたがるから。全然、帰る気ないみたいだし」

「………」

「何もないって言ってたけど、そんなことないでしょ?」


 ミシェルは森の中が大好きだ。

 毎日のように森に散歩に行くミシェルは、グリフィスを運動のためにと散歩に誘った。


 最初、グリフィスは断固として拒否してきた。

 森を散歩しても楽しくないとか、ミシェルと二人で行くのなら一人で行くとか、必要以上にミシェルを傷つける言葉で断ってきた。

 ミシェルはちょっと悲しい気持ちになって、一人で森に出かけて行ったのだが。


 森に出かけていくミシェルの後姿を、グリフィスが屋敷の窓からじっと見ていたのに気がついた。

 そして、屋敷に帰ってくると、まるで待っていたようにグリフィスがポーチにいて、一人で出かけたミシェルにくどくどと説教を始めた。

 妙齢の女性が一人で森に行くなんて無用心だとか、もう日が暮れそうなのになにをしていたのだとか、そんな薄着で風邪をひいたらどうするとか。

 口は悪いし、しかも高圧的だが、グリフィスは散歩を断った時に、ミシェルを傷つけてしまったのではと後悔し、ミシェルが心配でずっと待っていてくれたのだと、ミシェルにはわかった。

 だから、翌日、ミシェルはグリフィスを森の散歩に行こうとは誘わなかった。


「どうしても森に行きたいの。でも、誰も手が空いてなくて、お供をしてくれないのよ。グリフィス、一緒に来てくれないかしら?」


 とっても困った顔で、そんな風にお願いをしたミシェルに、グリフィスは思いっきり不機嫌な顔で、「仕方がない」と了解してくれた。

 森に着くまでも、ありとあらゆる文句と嫌味と皮肉を言っていたが、ミシェルはもう気にしなかった。

 それは、グリフィスの照れ隠しなのだと、わかってしまったから。

 グリフィスは、とっても不器用だが、根っこのところは優しい人だと、ミシェルにはわかったから。


 回数を重ねるうちに、グリフィスの憎まれ口は減っていった。

 そして、いつしかミシェルが誘わなくても一緒に散歩に行くようになっていた。

 今日などは、いつもの散歩の時間になってもミシェルが用事をしていたので、グリフィスが出かけるぞと誘いに来てくれたぐらいだ。

 グリフィスが自分の優しいところをどんどん態度や言葉に出してくれるようになってきていて、ミシェルはとても嬉しかった。


「あ、でも、王都とかに比べれば、森なんて地味で面白みがないかもしれないかな」

「そんなことない。王都なんて、一度行けばもうあきる。だが、森は違うな。何度来てもいい」

「嬉しいこと言ってくれるね。私もきっと森のほうが好きだわ」


 きらきらと輝く木漏れ日の中、ミシェルは両手をあげて、緑色の空気を胸一杯に吸い込む。

 そんなミシェルを、グリフィスはどこか眩しそうな目で見つめていたが、ミシェルは気づかなかった。


「もっとも、そう思えるのは、この森だからかもしれないな」


 そう言って、にやりと笑って見せるグリフィスを、ミシェルは目をぱちくりして見返している。


「森ならどこでも素敵よ? ここに限らず」

「……ガキ」

「な! それってどういう意味よ!」


 真っ赤になって怒ったミシェルに、グリフィスは声を上げて笑い出した。


「もう! グリフィス!」


 ミシェルは両手を腰に当ててグリフィスを睨むが、グリフィスはますますおかしそうに笑っている。

 そんな風に全開で笑っているグリフィスは、いつもよりも幼く見えて、なんだかちょっと可愛い感じだった。


 いばりんぼうで、意地悪なくせに、優しかったり。

 なぜだか人を寄せ付けない雰囲気を感じさせる時もあるのに、こうして無防備な笑顔を見せてくれたり。


 いくつもの顔を持つグリフィスから、ミシェルは目が離せなくなっていた。

 そして、ゆっくりと自分に心を開いてくれているグリフィスに、ゆっくりと惹かれていく自分を自覚していた。


 

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