(2)


 昼下がり。森の中。


「うまい!」


 パンをほおばり、グリフィスは嬉しそうに声を上げた。


「本当に?」


 わざと意地悪に聞くミシェルに、グリフィスは本気でむっとしたように顔をしかめる。


「当たり前だろう。俺が作ったパンなんだからな」

「おいしいのは認めるけど」


 ミシェルは、真っ白になってしまった台所の掃除を思って、ため息をついた。


 きっかけは、パン生地をこねていたミシェルを、グリフィスがいつもの意地悪でからかい始めたことだ。

 最近では、ミシェルも負けずに言い返すようになっていたので、パンを作りながらの口論となった。

 そして、どこでどうなったか忘れてしまったが、どちらがおいしいパンを作れるかということになってしまったのだ。


 やったことがないのに、出来るわけないでしょ! と怒るミシェルに、グリフィスは、俺に不可能はないと言い切り、ミシェルからパン生地を奪い取った。

 そして、あっけにとられるミシェルの前で、グリフィスは派手にパン生地をこね始め、台所を粉だらけにしてしまったのだ。


「相変わらず、偉そうよねぇ」

「当たり前だろう。俺は」


 言いかけて口をつぐんだグリフィスだが、ミシェルの不思議そうな視線に気がつくと、口を開いた。


「俺はこの国一番の色男だからな。何をやらせても天下一品だ」

「図々しいわよねぇ」

「事実は事実だ」

「国王陛下はそれはそれは素敵な方なんですって。貴族のお姫様は、どなたも夢中なんですってよ。残念だけど、グリフィスも国王陛下には勝てないんじゃない?」


 ミシェルとしては、ただグリフィスの高すぎる鼻をちょっと折ってやるつもりだったのだが、グリフィスは真面目な顔で黙り込んでしまった。

 グリフィスのプライドを傷つけたのだろうかと、ミシェルが不安になった頃、ようやくグリフィスは口を開いた。


「いい男の条件はなんだと思う?」

「難しいね」

「まあ、色々と意見はあるだろうが、俺はちゃんと人を愛せることだと思う」


 何を当たり前なことをという顔になったミシェルに、グリフィスは苦笑を漏らした。


「愛することは信じることでもある。何度裏切られても、誰かを愛し信じ続けることは、簡単なことじゃない。強くなければ」

「そうかしら?」

「違うか」


 無邪気な顔で反論したミシェルの顔を、グリフィスはどこか眩しそうに見つめていた。


「だって、誰かを愛するのって、愛そうと思って愛すものじゃないでしょ。いつの間にか心の中に住み着いている想いでしょ?」

「それは、どちらかというと、恋じゃないかな」

「そうかな。でも、愛している人を信じるのって、当たり前のことじゃない?」

「そうだな。相手が女神だった場合はそうかもな」

「女神?」


 グリフィスは敷物の上にごろりと横になると、頭上に広がる緑の天井を見上げる。

 そして、目を閉ざすと、ゆっくりと口を開いた。


「ある男が、俺に教えてくれた話なんだが。男は誰しも心の中に神殿を持つらしい。その神殿に住むことが出来るのは、たった一人の女性だけ。それはその男にとって生涯忘れることの出来ない、大切な女神になる」

「定員は一人だけ?」

「勿論。入れ替えもなしだ」

「生涯、その女性を愛するということかしら」

「そういうことか」

「ロマンティックね。それで、グリフィスの神殿にはもう誰か住んでいるの?」


 ちらりと目を開けて、グリフィスはミシェルを見やった。

 頬を薔薇色に染めたミシェルは、好奇心と他にほんの少しの何かを秘めた瞳で、グリフィスの返事を待っていた。


「さあな」


 素っ気なく答え、グリフィスは再び目を閉ざす。


「ケチ」


 そして、ミシェルに額をつつかれると、目を閉ざしたまま口元に微笑を浮かべた。


「ケチだなんて、初めて言われたな」

「グリフィスは、ケチで意地悪でいばりんぼうだと思いますけど」


 しれっと言ってのけたミシェルに、グリフィスは声を上げて笑った。


「そういうミミは、素直でまっすぐだな」

「それって、品がないってこと?」

「いいや。誉めているのさ」


 そして、グリフィスはミシェルが照れるような、まっすぐな瞳で見つめてきた。


「君のそういうところが変わらないように。祈っているよ」







 ロイとのまき割りの後、ミシェルは自室に戻っていた。

 そして、壁にかけてある絵を、じっと見つめている。

 グリフィスがミシェルのために描かせた、故郷の森の絵だ。

 この絵を見つめながら、グリフィスとの時間を、ミシェルはずっと思い返していた。


「私……。変わってしまったのだわ」


 力なくつぶやき、ミシェルは目を伏せる。


 グリフィスが記憶を失ってから、いばりんぼうだと言ったことがあるだろうか。

 ケチだと言った事は? 意地悪はどうだろう?

 勿論、ない。一度だって、ない。


 ロイは、初めて出会ったグリフィスと、記憶を失ってから初めて会ったグリフィスは、ある意味、これ以上なく同一人物だと言った。

 確かに、初めて会ったグリフィスは、どちらもいばりんぼうで意地悪な人だった。


 だが、ミシェルの対応はあまりにも違っていた。

 後者のグリフィスと会ったとき、ミシェルの前に立っていたのは、この国の国王だった。

 国王陛下に礼を尽くすのは当然のことで、ミシェルはそれを第一に考えた。


 記憶を失った時点で、ミシェルの中で、グリフィスは対等な恋人から手の届かない国王陛下へと変化した。

 同じ愛する人だというのに、中身は同じだというのに、ミシェルはまるで別人を相手にするように、態度を変えた。


(だって……)


 国王という肩書きはあまりにも重い。


(………)


 グリフィスはこんな自分をどう思ったのだろうか。


 泣きそうな思いで、ミシェルはようやくグリフィスの気持ちを考え始めていた。

 まるで国王には心がないかのように、記憶を失ってからのグリフィスの心の内を一度も思ったことがない自分を、ミシェルは驚き、呪った。


 もし、記憶を失ったのが自分だったら。

 記憶を失って心細く不安だというのに、誰よりも近しい存在のはずの婚約者が、よそよそしく接してきたら。

 国王と地方貴族というだけの関係しか望まず、国王としての言葉しかかけてもらえなかったら。


 当然、グリフィスの愛を疑う。

 本当に自分を愛してくれていたのか、とてもではないが信じることなど出来ないだろう。

 グリフィスが自分を信じてくれないのは、当然のことなのではないだろうか。


(それなのに私、ただ信じてほしいとばかり……)


 グリフィスが、尊大な人に見えて、本当はとても優しい人だということを知っていたのに。

 時にとても威圧的だけれど、意地悪だけど、それは彼の不器用な感情表現の一部であることも。

 自信満々に見えて、複雑そうなコンプレックスを持っていそうだったり、人を愛することに慎重な一面があることも、わかっていたのに。


 ミシェルがおどおどしたり、遠慮したりすれば、グリフィスは自分から遠のいていく。そういう人だ。

 逆に、ミシェルが五月蝿いぐらいに付きまとえば、グリフィスは文句を言いつつも、付き合ってくれる。

 王城で、ミシェルはわざとグリフィスを遠ざけるような振る舞いをしていたのだ。


(私が悪かったんだわ)







 二人が出会ってから、四ヶ月。

 グリフィスは、家での用事を済ませてくると、何度かヴァロア家を出て行ったが、短期間でまた戻ってくるという生活をしていた。

 ミシェルの両親もグリフィスを気に入って、いつ来てもいいと、グリフィスを歓迎した。


 父のヴァロア伯爵は、グリフィスと知的な会話や論議をすることを楽しんでいたし、伯爵夫人はグリフィスを実の息子のように可愛がった。

 そして、ミシェルとグリフィスは、森への二人きりの散歩を毎日のように楽しみ、時には朝から弁当を持って、遠出することも多くなった。


 森での時間は、しだいに親密に変化していった。

 それは、グリフィスのミシェルに対する態度の変化だった。

 ミシェルをからかって怒らせるよりも、優しい言葉や笑顔が増え。ミシェルを見つめる視線は、いつしか隠しようもない熱がこもるようになって。

 告白されるのに、それほどの時間を必要としなかった。


「結婚してほしい」


 突然に言われて、ミシェルは目を丸くした。

 そんなミシェルの顔を見つめ返すグリフィスの瞳には、強い意志の光がともっていた。


「この森を出て、俺と一緒に来てほしい」


 どこへとは、グリフィスは言わなかった。

 自分の身元について、グリフィスは巧妙にミシェル一家を誤解させていた。

 地方貴族の子息だと明言したことはない。しかし、そう思われるような言動をわざと繰り返していた。


 ミシェルにとって、この時のグリフィスは、自分よりもほんの少し上流の貴族の子息でしかなかった。

 グリフィスと結婚するということは、今の生活の延長であり、家事を取り仕切り、子供を産み、共に老いていく。未来図を想像できる、思い描いていた未来を実現させる、そういった相手だった。


 頬を紅潮させ、それでも小さく頷いてくれたミシェルに、グリフィスはほっと安堵のため息をもらす。

 そして、優しくミシェルを抱きしめると、初めて唇と唇を触れ合わせた。


「愛している、ミミ。誰よりも何よりも」


 愛の告白よりも先にプロポーズしたグリフィスは、ミシェルを腕の中に閉じこめてやっと、ほっとしたようにそう囁いた。


「私も、愛しているわ」

「永遠に?」

「ええ」

「何があっても?」

「勿論」

「俺が誰であっても?」

「ええ」


 答えながらも、その不自然な問いに、ミシェルはグリフィスを見上げた。

 グリフィスは口の端をゆがめ、どこか悲しげな目で、ミシェルを見つめていた。


「グリフィス?」

「俺が貴族でなくても?」

「……グリフィス?」


 ミシェルは不審げに眉をひそめた。

 グリフィスが貴族であることは、その立ち居振る舞い、言動から間違いようがない。

 なぜグリフィスがそんなことを言い出すのか、ミシェルはわからずに不安になった。


「俺は貴族じゃない」


 グリフィスの怖いほど真剣な顔に、ミシェルはじっと聞き入った。


「俺は王族だ」

「王族」

「そうだ。この国の、国王だ」


 冗談だろうと笑おうとして、ミシェルはグリフィスの真剣な顔に息をのんだ。


「この森を出て、俺と一緒に王城に来てくれないか。ミミ」


 ミシェルの頭の中は真っ白になった。

 黙ったまま真っ青になっていくミシェルの肩を、グリフィスはしっかりとつかむ。もう、逃がさないと言わんばかりに。


「俺の妻に。この国の王妃に、なってほしい」

「王妃」


 ふるふると震える唇で、ミシェルはつぶやいた。


「王妃といっても、俺の側にいてくれるだけでいい。ただ、俺の側にいてくれればいいから」


 ミシェルは呆然としたまま、ただ力無く首を横に振った。


「そんな。無理よ。私が王妃だなんて」

「ミミ。俺が君に望んでいるのは、俺の妻になってくれることだけだ」


 思考停止状態のミシェルは、ただグリフィスを見つめた。

 グリフィスは、大丈夫だと、ミシェルに強く頷いて見せた。


「俺が守るから。全力で守るから。俺の側にいてくれないか」


 グリフィスの側にいたい。その思いはミシェルも同じだった。

 だから、頷いた。


 

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