(3)
言葉どおり、グリフィスは全身全霊をかけてミシェルを守ってくれた。
王城内での様々なトラブルから、王妃という地位に付随する義務からさえも。
だが、それではいけなかったのだ。
結婚するということは、夫が妻を守る契約を結ぶということではない。
お互いに愛し合い、慈しみあい、新しい生活を始めることだ。
だというのに、ミシェルとグリフィスがやっていたのは、グリフィスが作り出した箱庭の中で二人きり、外を見ることなくただ一緒にいることだけだった。
「馬鹿だわ、私。なにもわかっていなかった。……なんて子供だったの」
グリフィスに守られてばかりで、現実から目を背けてばかりで。
グリフィスにだけ依存した生活をしていたから、グリフィスが記憶を失ってしまった途端、何も出来ず無力のまま孤独となり、自分に自信も持てず、ただ周囲に流されてしまった。
本当なら、ミシェルがもっとしっかりして、記憶喪失になったグリフィスを支えるぐらいの強い気持ちが必要だったのに。
グリフィスは、人を愛することは信じることであり、それには強くなければと言っていた。
そして今、弱いミシェルは、グリフィスを信じきれず、王城を出てきてしまった。
(グリフィスは一度も、出て行けって言わなかったのに)
最初、実家に帰れとは言ったが、改築中だと知ってからは一度も言っていない。
本気で出て行ってほしいと思っていたなら、別に王城に滞在させなくても、他に別荘はいくらでもあったはず。
それに、出て行くと言いだしたミシェルに、グリフィスは勝手にしろとしか言わなかった。
(あれは、出て行けって意味じゃない。居たかったらいてもいいのにという意味よ。知ってたはずじゃない)
天邪鬼で、意地悪なグリフィス。
決して、自分から側にいてほしいなんて、言うはずがない。
婚約してからずっと、グリフィスは怖いぐらいに素直だったから、忘れてしまったのだろうか。
そうじゃない。あの時、ミシェルの前にいたのは、グリフィスではなく、国王陛下だったからだ。
(馬鹿ね、私、本当に馬鹿)
グリフィスの側に居たい、もっと話をしたいと、率直にお願いすればよかったのだ。
そうすれば、グリフィスはきっと嫌な顔をしながらも、勝手にしろと答えただろう。
どうして、もっと早く気づかなかったのだろう。
どうして、記憶を失ったグリフィスを、国王陛下としか思えなかったのだろう。
華やかな王城に怯え、周囲の大貴族たちの冷たい視線に怯え、自分が自分じゃなくなっていった。
あれほどまでに、無力さを感じたことはなかった。
こんなにも、自分が弱いのだと、初めて知った。
(強くならなくちゃ)
ぎゅっと祈りの形に両手を組み合わせ、ミシェルは全身に力を込める。
(グリフィスを愛し続けるためには、もっともっと強さが必要なんだわ)
国王であるグリフィスの隣に立っているだけの強さ。
愛し合った記憶を失ってしまったグリフィスを愛し続ける強さ。
再び、グリフィスの愛を獲得するための強さ。
もう遅いかもしれない。
グリフィスとは遠く離れ、王城に戻るあてもない。
それに、グリフィスから絶対に信じられていない。
信じられていないだけではなく、きっと憎まれている。
記憶を失ったらあっさりと背を向けるような女と、一時は婚約していただなんて、あのプライドの高いグリフィスには自分が騙されていたかのようで、許せなく思えるのも当然だ。
それなのに、このまま春が来れば実家に帰り、何もなかったように元の生活に戻らなければならない。
謝罪も、弁解も、何も出来ず。グリフィスを傷つけたまま。
(そんなこと、出来ない!)
「ミシェル様」
肩をそっと叩かれ、ミシェルははっと顔を上げた。
少しだけ開かれた扉の向こうで、デイナが心配そうにミシェルの様子をうかがっていた。
「もう、とっくに夕食の時間を過ぎていますよ?」
「デイナ……」
「どうかしました? 顔が真っ青」
デイナは静かに室内に入ってくると、ミシェルのそばに来てくれる。
首を横に振ろうとして、ミシェルはふと、デイナの顔を見直した。
「デイナ、あの、私……」
デイナの顔を見上げ、ミシェルは口ごもった。
大貴族の令嬢であるデイナなら、ミシェルの知りたいことをたくさん知っているだろう。
だが、グリフィスの元に戻るため、色々と教えてほしいと願うのは、デイナにとって迷惑になるかもしれない。
デイナの実家は、ミシェルを婚約者として歓迎していないだろうし、それでなくても実家と対立しているデイナに、更に実家との間に問題を発生させるわけにはいかない。
「顔色が悪いですね。お昼もほとんどお食べにならなかったし。ご気分でも悪いですか?」
「大丈夫です。ちょっと、考え事をしたかったから」
「そうですか? 食欲はあります? 夕食はきちんと食べた方がいいですよ」
ミシェルは申し訳なく思いながらも、首を小さく横に振った。
「すみません。ちょっと貧血みたいで」
ずっと絵の前に座り込んで考え事をしていたせいか、なんだかふらふらした。
胸が一杯で、食欲もほとんどない。
額を押さえてため息をつくミシェルを、デイナはじっと見つめていた。
その視線が、心配しているだけではないように思えて、ミシェルは不思議に思って見つめ返す。
目で、言いたいことがあるなら言ってほしいと促すと、デイナはかなり迷ったようだが、しばらくして、ようやく口を開いた。
「これを聞くのは……。とても、立ち入った質問ですし。お気を悪くなさらないでくださいね」
「ええ?」
「あの……。ミシェル様は、もしかして、ご懐妊ではありません?」
あまりにも予想外の質問に、ミシェルは驚いて目を丸くした。
「この前、月のものがあったのはいつですか? 遅れていたりしません? 子を宿したばかりは、体調が悪くなるんです」
「ま、待ってください」
矢継ぎ早に質問してくるデイナをとどめ、ミシェルは自分の考えをまとめようとする。
だが、この前いつ月のものがあったのか、なかなか思い出せない。
「遅れているんですね?」
次第に不安そうな表情になるミシェルに、デイナは確信に満ちた口調で聞いてくる。
ミシェルは、ふるふると首を横に振った。
「待ってください。遅れているのは確かなんですけど、私はちょっとしたことで、すぐに不安定になるんです」
確か、王城に行ってからも、環境の変化にとまどって、周期は滅茶苦茶になった。
だから、いつ次が来るのか、全くわからないのだ。
「それに、体調が悪いのは、グリフィスと別れてしまったことが大きくて。まさか……まさか、ありえないわ」
「それは、その可能性が全くないということですか?」
王城を出る前の夜、グリフィスに抱かれたことを思い出して、ミシェルはさっと頬を薔薇色に染めた。
「それなら、私の予想が当たっているかもしれません。ミシェル様、お体を大切になさらないと」
そう言われて、ミシェルはグリフィスの子を産むということが、とんでもないことなのだと思い当たった。
国王の子供だ。男子ならば、次の国王になるかもしれない。
瞬間、ミシェルは恐怖を感じた。
王城に象徴される、絢爛豪華な世界への、恐怖。
(駄目よ。そんなことじゃ)
この恐怖を克服しなければ、グリフィスの元になど戻ることは出来ない。
「ミシェル様。陛下にお知らせしないと」
ミシェルの表情に何を心配したのか、デイナが言う。
「いいえ。それは、はっきりとするまで、待ってください」
「ですが」
「私が一人でどうこう出来ることではないと、ちゃんとわかっています。でも、私にはどうしても、そうとは思えないんです。きちんとわかるまで、待ってほしいだけです」
「………」
ミシェルの真意を確かめるように、デイナがじっと見つめてくるのを、ミシェルはしっかりと見つめ返した。
ほっと、デイナがため息をつく。
「わかりました。ですが、ユーシスには知らせますよ」
「サザーラント公爵様に? どうしてです」
「ユーシスには知らせておくべきです。もし、今この瞬間に、陛下が自分の義務を果たそうと、結婚を考えていたらどうします? ユーシスなら、万事抜かりなく事を進めてくれるでしょう。大丈夫です。ユーシスはミシェル様の味方です」
確かに、ミシェルに対して、グリフィスの元に居てほしいと言ったのは、ユーシスだけだ。
大貴族の一人なのに、誰もが追い出そうとしているミシェルのために、自分の別荘を提供してくれてもいる。
もしかしたら、ユーシスはそのせいで、王城内に敵を作るかもしれないのに。
「サザーラント公爵様は、なぜ、私の味方をしてくださるのでしょうか」
ミシェルは率直に質問した。
すると、デイナも率直に答えてくれた。
「正確には、ユーシスはいつでも陛下の味方なんです。陛下が幸せになること、幸せな結婚をすることを、望んでいます。そして、その相手は、ミシェル様以外にはいないと、ユーシスは考えています。だから、陛下のために、ミシェル様には何が何でも、王城に戻っていただこうと考えているんです」
「……私達の結婚は、一度駄目になったようなものなのに」
だが、ユーシスが本気でそう思ってくれているのなら。
ユーシスなら、ミシェルの決断を喜んで受け入れてくれ、力を貸してくれるかもしれない。
「わかりました。サザーラント公爵様には、手紙を書きます。お手元に届くように、手配していただけますか?」
「勿論です。それから、私とロイも、ミシェル様の味方です。私達でお力になれることは、なんでもしますから。遠慮なく、おっしゃってください」
ミシェルは小さく、しかしきっぱりと首を横に振る。
「私に関わらないほうが、お二人のためです。デイナのご実家も、私のことをよく思われていないでしょう。問題を複雑にするだけです」
「そんなこと! 気になさらないでください」
「そういうわけにはいきません」
デイナは更に反論しようとしたが、ふと口を閉ざした。
そして、少し悪戯っぽい笑みを口元に浮かべると、こう話し出した。
「それなら、こういうのはどうでしょう? ミシェル様が無事に婚約者に戻られたときは、私とロイのことを、取り成してほしいのです。私の頑固な父も、陛下に私達の結婚を認めるように言われれば、考え直すでしょう」
ミシェルは、困ったような顔で、小さく首を横に振った。
「お約束できません。私が陛下にそのようなことをお願いするわけにはいきませんもの」
思わず、デイナは微笑んだ。
ミシェルは政治に関して全く無知だが、頭が悪いわけではない。
田舎貴族の令嬢とは思えない、教養の高さを感じる。
(陛下は、ちゃんと自分にぴったりの女性を見つけたんじゃない)
ユーシスと同じく、グリフィスの変貌振りに心を痛めていたデイナは、とても嬉しかった。
「デイナさん? あの、お気を悪くしました?」
黙ってしまったデイナの顔を、ミシェルは心配そうに覗き込む。
「あ、いいえ。すみません。では、私にミシェル様へ、恩を売らせてください。変な言い方ですみません。でも、私がミシェル様の応援をすることで、損をすることはないんです」
「……本当に?」
「本当ですとも。それに私、ずっと跡継ぎとして育てられたので、こう見えても、使える女なんですよ」
「ご兄弟は、いらっしゃらないんですか?」
「弟が一人います。十五も年下なんです。おまけに、少し病弱なところがあります。父はずっと私に家を継がせようとしていたので、ロイとの結婚を大反対しているんです」
「そうなんですか」
ぎゅっと、デイナはミシェルの手を握り締める。
「私もロイも、八方塞で困っているんです。これ以上、悪くはなりません。むしろ、ミシェル様のことで、何か変わってくれればと思うぐらいで」
「それが、悪い方向への変化でも?」
「ええ。それでも、です」
最悪、この国を出て行く事になっても構わないと、デイナは考えている。
そんな決意が表情に出たのか、ミシェルはデイナに頷いて見せた。
「わかりました。それでは、私に王城で生活していくために、必要な知識を教えてください。礼儀作法にもあまり自信がないので、見ていただけると助かります」
「お安い御用です、ミシェル様」
優雅に腰を折って挨拶したデイナが、上品とは程遠い笑みを口元に浮かべたので、二人は声を上げて笑い出した。
笑いながらミシェルは、自分の行く先に少し光がさしてきたような気がして、とても嬉しかった。
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