第九章 美しき幽霊の残した傷

(1)


 ――― 数日後。


「子供だと」


 ロベール公爵は、ぞっとした顔でそうつぶやいた。


「それで相手は、陛下だというのか」

「ミシェル嬢が王城を出る前、明け方まで部屋に戻らなかったことがありましたが」

「そういえば、そんなこともあったな」

「時期的には間違いないかと」


 ロベール公爵の秘書は、主人の強い怒りを感じ、自分が悪いわけではないのに自然と声を潜めていた。


「いかがいたしましょう」

「産ませるわけにはいかない」


 声を荒げた公爵の後ろで、扉が開いた。


「お祖父様?」


 公爵はぎょっとして振り返ったが、最愛の孫娘の顔を見ると、ほっと肩を落とした。


「ソフィアか。驚いたよ。ノックぐらいしなさい」

「ノックはしましたわ。それよりなんですか、産ませるわけにはいかないって」

「お前には関係ないことだ」

「でも、お祖父様」


 ソフィアにはどこまでも甘い公爵だったが、政治的なことには絶対、ソフィアを関わらせない。

 綺麗事だけではない政治に、ソフィアを触れさせたくないという、公爵のこれは愛なのだろう。

 その一方で、ソフィアの政略結婚でロベール家の権力を確実にしようという野心も、矛盾なく公爵の中に存在するのだが。


 ソフィアとしては、政略結婚の駒としてだけに使われることに強い抵抗がある。

 出来る限り祖父のやることを把握していたいし、干渉したいのだが、公爵の方が何枚も上手だった。


「今は仕事中だ。また後でな」


 秘書に促され、ソフィアは部屋から追い出された。

 きちんと扉が閉まるのを待って、公爵は口を開く。


「しばらく様子を見よう。本当に陛下のお子なら、なにかしら動きがあるだろう。それを確かめてからでも遅くない」

「わかりました」


 グリフィスの元にも、ミシェルの元にも、自分の部下を送り込んでいる。

 グリフィスの元に送り込んだ部下は、すでにユーシスによって首にされたが、ミシェルの元には今も部下がいて、こうして近況を知らせてくるのだ。


 グリフィスが何を考えているのかは、はっきりとつかめていない。

 だが、ソフィアとの婚約に乗り気でないのは、今もミシェルを諦め切れていないからではないかと、ロベール公爵は考えている。

 美人で気だてがよく、王妃としての教養にも申し分のないソフィアとの婚約を拒否する理由が、他には思いつかないのだ。


 そして、ミシェルの意思は明確だ。

 己の身分をわきまえもせず、王妃になろうと考えている。

 一度婚約破棄されたというのに、ユーシスを味方に引き込んで、巻き返しを図っているのだ。


(愛しているなどと、子供騙しのような言葉を、恥ずかしげもなく使いおって!)


 グリフィスの誕生日にミシェルが用意したプレゼント。

 封を開けて中の手紙を見たのは、ロベール公爵の手の者だった。

 勿論、内容について、公爵は詳細な報告を受け取っている。


 一度は婚約までした二人だ。

 ミシェルが再びグリフィスに接近すれば、また婚約などという腹立たしい結果になるかもしれない。

 このまま春になりミシェルが実家に戻ることになれば、二人の仲は決定的に終わるだろうと思い、安心していたところだというのに。


 懐妊をきっかけに、二人の仲が元通りになるのは困る。

 まして、男子が生まれるようなことがあれば、ロベール公爵の思い描く未来図に大きな影を落とすだろう。

 それだけでは、させられない。


 一番なのは、まだ生まれていない子供を処分することだが、出来ればそれはさせたくない。

 自己の権力を望むロベール公爵だが、殺人に踏み切るほど、悪人にはなれないでいた。

 出来れば、穏便に、ミシェルには退場してもらいたい。


「確か、あの女には元婚約者がいたな?」

「はい。陛下と婚約する前に、地元で婚約をしていました」


 秘書は、慌ててミシェルの調査書をめくり始める。


「レスター・ボードウィン伯爵です。地元では、なかなかの名士と評判の男で、ミシェル嬢とは幼馴染のようです」

「それはいい。その男に、陛下との婚約の顛末を教えてやれ」

「どのようにですか?」

「幼馴染がどれほどひどい扱いを受け、慰み者にされ一方的に捨てられたか、よくよく話してやるといい。その男が、今後、二度と幼馴染をそんな目に合わせまいと考えるようにな」


 それで寄りを戻してくれればいいが、ただ会いに行くだけでも十分だ。

 そうなれば、ミシェルの子供の父親は、グリフィスだとは限らないと主張できる根拠になる。

 今のところは、それで十分だろう。







 ――― 更に数日後。


 ユーシス・サザーラント公爵は、ミシェルとデイナから、それぞれ分厚い手紙を受け取っていた。


 まず最初に、デイナからの手紙を開けた。

 デイナとは子供の頃からの付き合いである。

 お互い言いたいことを言い合う仲でもあって、手紙はとても率直な内容になっていた。


 ミシェルがグリフィスの側にいるため、王城や貴族のことを勉強し始めたこと。

 非常に優秀な生徒で、すぐに何処へ出しても恥ずかしくない完璧な王妃になれるだろうと、誇らしげに付け加えられていた。

 そして最後に、ミシェルの懐妊について書かれていた。


 本当に懐妊しているのか、今の段階ではまだわからない。

 だが、本当にそうならば、父親は間違いなく国王であるグリフィスであり、産まれてくる子供は国王の第一子ということになる。

 慎重に経過を見守り、はっきりとするまでグリフィスを含めて周囲には内密にしておくべきだと、デイナは結んでいた。


(本当ならおめでたいことだけど。……厄介なことになったものだ)


 ため息をもらし、ユーシスは手紙と封筒を手に暖炉の前まで行くと、それを火の中に投げ込んだ。

 デイナに言われるまでもなく、このことは絶対に外部に漏れてはいけない情報だ。


(そうなると、ミシェルがやる気になってくれたのは、幸いというところかな)


 グリフィスの子供を産むのなら、どうしたってこの王城からは逃げられない。

 国王の第一子の母として、一生、王城住まいになることだろう。


(これを聞いたら、グリフィスはどういう反応するかねぇ)


 ちょっと話してみたい気もするが、やはりデイナの言うとおり、ここはまだ秘密にしておいた方が良さそうだ。

 最近のグリフィスの静かな崩壊ぶりを危惧しているユーシスは、再びため息をもらした。


 ミシェルが出て行ってから、グリフィスは静かに荒れている。

 表面上はこれといって何の変化もない。ミシェルがいなくなったことを、グリフィスが気に掛けているような様子は全くない。


 だが、食事の量が減っている。

 あまり睡眠も取れていないようで、どことなく顔色が悪い。

 黙り込んで沈んでいるのかと思えば、急に陽気になったり、怒り出したり。

 ミシェルのことを気に掛けているのは間違いなさそうだが、自分では認めたくないというところだろうか。


(あそこまで張りつめてると、いつ暴発するか)


 ミシェルのことにはあえて触れないようにしてきたが、ここは逆に話してみるのもいいかもしれない。

 勿論、懐妊のことは話せないが、別荘での暮らしぶりなどをそれとなく聞かせるぐらいなら、いい刺激になるだろう。


 今度は、ミシェルからの手紙を開く。

 ユーシスに対する丁寧なお礼で始まり、デイナとロイに色々と教えてもらっていることが説明されていた。

 自分の件に二人を関わらせてしまって申し訳がなく、もしユーシスの意向に沿わなければいつでも言ってもらいたいと、率直に書かれている。

 文章の端々に、ミシェルの人柄と知性を感じさせる手紙だった。


『あんな形で、王城を出て、グリフィスの側を離れてしまったことを、今は後悔しています。

 きっとグリフィスは、私は逃げたと思っているでしょうし、本当に愛しているから婚約したのか疑っていることでしょう。

 グリフィスの側に戻ることは難しいかもしれませんが、出来る限りの努力をしたいと思っています。

 サザーラント公爵様には、今でも十分にお世話になっていますが、これからもご助力頂きたく、よろしくお願いいたします。』


 なかなかいい傾向だと、ミシェルの前向きな変化に顔をほころばせていたユーシスだが、次の一文を読んで表情を強張らせた。


『サザーラント公爵様に、お話ししておかなければなりません。

 グリフィスが記憶喪失になるきっかけになった、崖の転落事故のことです。

 あの事故は、決してグリフィスの不注意などではありません。

 私を狙って矢が放たれ、グリフィスが私をかばってくれた勢いで、崖に転落したのです。

 あの事故のとき、私はそれを何度も侍従に話しましたが、公爵様やグリフィスの元には届かぬよう、握りつぶされているのではないでしょうか。』


 勿論、ユーシスは何も聞いていない。

 グリフィスも、自分の過失による事故だったと認識している。

 ミシェルの指摘どおり、どこかで握りつぶされたのだろう。


『グリフィスの誕生日の翌日、私の寝室のベッドボードに、ナイフが突き立てられていました。

 私がグリフィスと会ったことで、矢を放った誰かが更に脅迫をしてきたのかもしれません。

 その後、そういった脅迫はありません。

 ですが、これは本当に仮定の話なのですが、もし私が本当にグリフィスの子を宿していたなら、その脅迫者は再び行動をおこすかもしれません。

 私だけなら構いませんが、お腹の子にも危険があるかもしれないと思いますと、心配になります。

 サザーラント公爵様のお力で、脅迫者について調べていただければと思います。

 お願いばかりで申し訳ありませんが、公爵様しか頼れる方がおりません。

 どうぞよろしくお願いいたします。』


「……なんてことだ」


 読み終わり、ユーシスは唇を引き結んだ。

 だが、ミシェルを排除したい人物のほうが多いのは当然なのだから、こういった可能性についてもっと考えるべきだったのだ。

 結局、ユーシス自身、ミシェルのことより、記憶を失ったグリフィスのことを気遣っていたということだ。


 すぐに調べなければならない。

 特に、矢で狙われた時、ミシェルはまだ国王の正式な婚約者だったのだ。

 これは、グリフィスに対する重大な背信行為とみなされる。


 まずは、ミシェルが置いていってくれた、ベッドボードに突き立てられていたナイフとカードを取りにいこうと、ユーシスは部屋を出て行こうとした。

 そこに、部下の一人が慌てた様子で飛び込んできた。


「大変です、公爵様」

「どうしたんだ、そんなに慌てて」

「ボードウィン伯爵という男が、陛下に面談を申し込んできまして」

「ボードウィン? 聞いたことがないな」


 眉をひそめたユーシスに、部下は勢い込んで答えた。


「ミシェル嬢の元婚約者ですよ! なにやら、面談というより喧嘩をしに来たという感じだったらしいです」

「それで、陛下は?」

「今、お会いになっています」


 ボードウィン伯爵が何を話しに来たのか知らないが、これは今のグリフィスにとっていいかもしれない。

 今のグリフィスは、多少、喧嘩でもしたほうがいいのだ。


 グリフィスよりも、今はミシェルのことだと、ユーシスは王妃の部屋に向かうことにした。

 ミシェルは王妃の部屋の宝石箱に、例のナイフとカードを隠していったのだ。

 それが犯人を特定する手がかりになればいいと、思わずにはいられなかった。 


 

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