第六章 過去と未来、今が錯綜する夜
(1)
翌日の夜、ミシェルは城内が寝静まるのを待って、そっと部屋を抜け出していた。
夜着の上にしっかりとローブを着て、柔らかな室内履きのまま、誰もいない廊下を足早に進む。
深夜に近い時間だが、定期的に兵士が城内を見回っている。
その兵士に見とがめられれば、グリフィスにまで報告が行ってしまう。
それだけは、避けたくて、自然と足取りは早くなった。
グリフィスの内殿のそのまた奥、ミシェルが向かっているのは王妃の寝室だった。
この王城に初めて迎えられた時に、与えられた部屋。
記憶を失う前のグリフィスとの、大切な思い出が詰まった部屋。
グリフィスの元を去る決意をしたミシェルは、最後にもう一度だけその思い出に触れたいという思いを抑えきれなかった。
今の自分に王妃の部屋に入る権利がないことを、ミシェルはよくわかっていた。
見つかれば、グリフィスにやはり金目当ての女だったのだと思われるだろう。
出て行く前に、部屋の中の金目のものを持っていくつもりだったのだと、そう嘲るグリフィスの姿が目に浮かぶ。
それでも、どうしても、とても大切なグリフィスとの甘い思い出に、最後に一度だけ浸りたかった。
踏ん切りをつけるためにも、どうしても。
幸い、ミシェルは誰にも見とがめることなく、王妃の寝室の扉の前にたどり着くことが出来た。
一度深呼吸して気を落ち着かせると、手の中に握りしめてきた鍵を、鍵穴に差し込む。
グリフィスに『好きにしろ』と捨てるように渡された鍵だ。
かちりと小さな音を立てて、鍵が開く。
今夜限りに封印する、思い出の詰まった部屋が、ゆっくりとミシェルの前に開かれた。
ふうと、ミシェルは思わずため息をついていた。
カーテンの隙間から差し込む淡い月光の中、ミシェルはテーブルの上の燭台に火をつけた。外には漏れないように、蝋燭一本だけにする。
そしてきちんとカーテンの隙間を締め直した。
この部屋を出たのは、それほど昔のことではない。
だが、遠い昔のことのように感じるのは、この部屋に居た頃と今とでは、まるで違ってしまっているからだろうか。
『ずっと、側に居てくれるね』
不意に、そう話したグリフィスの、どこか不安そうな顔を思い出し、ミシェルはどきりとした。
もう、あの頃のグリフィスはいないのだ。そう自分に言い聞かせ、ミシェルはその思い出を振り払うように、首を横に振った。
ミシェルが実家からこの部屋に持ち込んだ物は多くはない。
大物はベッドカバーのキルトぐらいで、あとは小さな置物がいくつかだけだ。
結婚したら、手作りの品で色々と部屋を飾りたいと思っていて、いくつか用意もしたのだが、そのどれもグリフィスの住む豪華な城には似合わない、素朴な物だった。
なので、ミシェルは持ち込むのを諦めたのだ。
それでも、ここに来てから、なにかと身の回りの物には気を配った。
テーブルクロスに刺繍を入れたり、カーテンやクッションを気に入った色の物に変えてもらったり。壁の絵を変えたり。
「これだけは、持って帰りたいけど」
深い森を描いた絵。
これは、ミシェルの故郷の森なのだ。
ミシェルのために、グリフィスがわざわざ描かせてプレゼントしてくれた。
たった一人で故郷を出てきたミシェルが寂しくないようにという、グリフィスの心遣いで、他のどんな高価なプレゼントよりも、この絵がとても嬉しかった。
だが、やはり持ち帰るわけにはいかないだろう。高名な画家に描かせたのだろうから、きっと高価な絵に違いない。
それに、持って帰ってこの絵を見るたび、グリフィスとのことを思い出すのかと思うとたまらない。
部屋の主がいなくなっても、きちんと掃除は入っているようで、ベッドも綺麗にメイクされていた。
ミシェルはそのベッドに座ると、細い明かりの中、その森の絵をじっと見つめる。
グリフィスと初めて会ったのは、この森の中だった。
グリフィスにプロポーズされたのも、初めて唇を重ねたのも、この森の中でだった。
あまりにもたくさんの思い出が詰まった森。
ミシェルは森の絵を見つめながら、グリフィスとの甘く優しい記憶を思い出していた。
◆
「ミミ、後悔しないかい?」
馬車の窓に額を張り付けて森を見送っていたミシェルに、グリフィスはそう声をかけてきた。
ミシェルが振り返ると、なんだか少し寂しげな顔のグリフィスがじっと見つめていた。
「後悔なんてしません。私、何度もそう言っているのに」
ミシェルの笑顔に、グリフィスも口元をゆるめた。
だが、ちょっと無理をしているとわかる、小さな微笑みだった。
「私のこと、信じられない?」
「君はまだ王城がどんな所か、まるで知らない。この森の美しさに比べれば、地獄のような所だ。君にはふさわしくない。君にはこの森のほうがずっとずっと似合っている。森の妖精のような、汚れない君だから」
「どうしてそんなことを? 王城はとても美しい所だと、聞いたことがあるわ。豪華で華やかで、私には不釣り合いな所だと思っているのに」
「確かに、城は美しい。豪華で華美だ。だが、城に住んでいるのは、汚い連中ばかりだ。自分の汚さを取り繕うために、派手に飾り立てている。そんな所だ」
驚くミシェルを、グリフィスはしっかりと抱きしめる。
肩に腕を回して、ミシェルの頭を胸の中に抱え込んだ。
「君に王城での生活が耐えられるか、俺は心配だ。いつかきっと、君は悲鳴を上げてこの森に帰ると言い出すのではないかと、俺はずっと心配し続けるだろう」
「グリフィス。私、ずっとグリフィスの側にいるから」
「側にいてくれ。側にいてくれるだけでいい。俺の側にだけいてくれ」
抱きしめられる腕の力が抜けたと思ったら、もう唇をふさがれていた。
ミシェルはグリフィスの腕の中、王城での生活に対する不安を感じるまいとしていた。
グリフィスさえいてくれれば、どうにかなる。グリフィスの側にいるために、王城に行くのだからと、そう自分に言い聞かせていた。
王城に着くと、ミシェルはすぐに用意されていた部屋に入った。
王妃が使う部屋だというそこは、とても豪華だが、それほど華美というわけではなく、ミシェルをほっとさせた。
王城の中でもとても奥まったその部屋で生活するミシェルは、ほとんど誰とも会わなかった。
身の回りの世話をする人は決まっていて、いつも同じ女官が出入りする。
それ以外には、女官長が時折顔を出すだけで、女官とエル、そしてグリフィスとしか、ミシェルは会うことがなかった。
そんな状態が普通だとは、さすがにミシェルも思わなかった。
だが、婚約者として公の場でグリフィスの隣に立ちますと、自分から言うことも出来なかった。
貴族の娘といっても、ほとんど普通の娘とかわりない生活をしていたミシェルには、王城での生活は別世界だった。
社交界にさえデビューしていないミシェルは、ホームパーティー以上の集まりに参加したことはないし、社交の場におけるマナーにも疎かった。
国王の花嫁になるということが、どういうことなのか、ミシェルにはよくわからず、ただ漠然とした不安だけを感じていた。
そして、グリフィスは、ただこの部屋で俺の帰りを待っていてくれればいい、他の何も気にせず俺のことだけ気にかけてくれればいいと、毎日のようにミシェルに話した。
ミシェルは、その言葉に従って、毎日のようにグリフィスの訪れを待つだけの生活をしていた。
そうすれば、困ったことは何もなく、不安を感じることもなかったからだ。
今思うと、とても現実のこととは思えない日々だった。
あまりにもそれまでの生活とかけ離れた場所にいきなり連れてこられ、限られた人々の中で、限られた場所で生活をしていた。
グリフィスのことだけを思い、ただただ甘い恋の夢の中にいたのだ。
不安を感じていたのは、グリフィスも一緒だったのかもしれない。
いつも、ミシェルに故郷へ帰らないように話し、ついには実家を改築させることで、ミシェルが王城にいるしかない状況まで作った。
だが次第に、グリフィスは疲れた顔で、ミシェルの待つ部屋に来ることが増えるようになった。
あの夜……そう、グリフィスが記憶を失う前、最後の夜。
グリフィスはひどく疲れた様子で、ミシェルの部屋に帰ってきた。
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