(4)
扉の向こうにグリフィスが姿を消し、ぱたりと扉が閉ざされると、女官長は思わずといった感じにため息を漏らし、肩をおろす。
グリフィスの鬼気迫る迫力に、恐怖を感じて体がすくんでしまっていた。
「禁句を口にしましたね」
誰もいないと思っていた室内で、声をかけられ、女官長はぎょっとして振り返る。
「……サザーラント公爵様。いらしたんですか」
少し離れ、壁にもたれて立っていたユーシスは、女官長を安心させるようににっこりと微笑んだ。
「陛下の前で、前の王妃の話は禁物ですよ、女官長」
「申し訳ありません。わかっていたつもりだったのですが」
それでも、グリフィスに一言意見せずにはいられない心境だったのだ。
「……なんとか、うまく続くかと思っていたんですが」
吐息混じりに、女官長はとても疲れた顔つきでつぶやいた。
「ミシェルのメイド生活が?」
「そうです。彼女はとても楽しんでいましたし、はっきりと顔色もよくなりました。残念なことです」
「メイド仕事に対して、ミシェルは抵抗がないようだね」
「はい。伯爵令嬢といっても、内実は少し裕福な家庭の娘とかわりはありません。むしろ、王都に住む大商人の娘の方が、恵まれた生活をしているでしょう。そうです、公爵様、お願いがあるんですが」
「なにかな?」
「ミシェルを公爵様のお屋敷で預かってはいただけないでしょうか?」
とんでもなく予想外の申し出に、ユーシスは彼には珍しく絶句した。
「メイドとしてで構いません。そのほうがミシェルも気楽でしょうし。陛下とミシェルを離してあげたいのです」
「それは……。陛下は承知しないと思うけど」
「そうでしょうか?」
思いっきり疑っている女官長の聞きかたに、ユーシスは肩をすくめる。
「聞けばね、絶対に頷くと思うよ。でも、内心はどうかな。喜ばないよね、きっと」
「公爵様。それはどういう意味でしょう?」
「僕は今初めて、陛下とミシェルが会うところを見たんだけど。陛下はミシェルをすごく意識しているように思えたんだよね」
グリフィスがミシェルに対してどんな反応をするのか、どう対応をするのか見ていたくて、ユーシスは部屋の隅で気配を殺して二人を見守っていたのだ。
「過剰すぎるね、あの反応は」
それに、ミシェルが歌っている姿を見て、グリフィスが彼女に魅かれたのもわかるような気がした。
ミシェルは、清らかで美しく、世俗に染まっていない純粋さを守ってあげたいと思わせる。
太陽のような眩しさはないが、陽だまりの暖かさと心地よさを持つ。
グリフィスは闇の中にいる。
少なくとも、国王という地位や王城の中に、安らぎも満足も感じてはいない。
そんなグリフィスがミシェルに惹かれたのは、ごく自然のことのように思えた。
「私などには、当然だと思えます」
きっぱりと、女官長が言う。
「公爵様はご婚約中のお二人をよくご存じないと思いますが、私は側近くでお世話させていただいていましたから。それはもう、以前の陛下とは別人のようでした。冷笑的に女を見下しているような、そんな酷薄なところが一掃されて。ミシェルを得て陛下は満たされたのだと、私などは思っておりました。魂の残りの半分を手に入れたかのように、それはもう溺愛していた陛下があっさりとミシェルを忘れてしまうなど、私には信じられないのです。忘れたとしても、再び出会えばまた惹かれあう、そんな二人だと思っていました」
「なるほどね」
それならば、やはり、グリフィスは自分の神殿の中にミシェルを住まわせてしまっているのだろう。
と、ユーシスは納得した。
男は心の中に聖なる神殿を持つらしい。
定員はたった一人。
そして、一度誰かを入れてしまったら、その女性を一生崇拝して生きていく。
勿論、一度入れてしまった女性を、追い出すことなど出来ない。
男は女よりもずっとロマンティストな生き物なのだ。
一度崇拝してしまった女性を、その思いをどんな形に変えたとしても、一生思い続ける。
本人は忘れてしまっているが、グリフィスの心の神殿の中には、今もミシェルが住んでいるに違いない。
だから無意識でも、ミシェルには過剰反応するのかもしれない。
(まぁ、ミシェルの場合、女神というよりは天使、かな)
くすくすと一人笑い出したユーシスを、女官長はいぶかしげに見ている。
「そういうことなら、僕のやるべき事は決まりかな」
ユーシスはそうつぶやくと、さらに不思議そうな顔をしている女官長には笑って誤魔化した。
◆
翌日の夜、グリフィスは一人、東棟を歩いていた。
ミシェルに会うためだった。
昨日のミシェルに対する態度は、時間をおけばおくほど、少し酷すぎたと思うようになった。
少なくとも、あんな風に泣かせるつもりなどなかった。
いつまでも、あの時のミシェルの泣き顔が頭にこびりついて離れず、苛々は増すばかりだ。
しかも、ユーシスが事あるごとに、ミシェルがどれほど可哀想だったか、グリフィスの態度があまりにも酷かったなどと、ちくちくと嫌味を言ってくるものだから、謝ればいいのだろう、などと怒鳴りかえしてしまったのだ。
謝ると言ったからには、実行しないわけにはいかない。
グリフィスは自分にそう言い聞かせるようにして、今、ミシェルの部屋に向かっている。
東棟の一番奥まった部屋からは、少し開いたままの扉から、明かりが廊下にもれていた。
こんな奥まった所には誰も来ないと思っているのだろう。かなり不用心だった。
意見してやろうと思いながら、グリフィスは扉に近づいたが、中から話し声が聞こえてきたので、足を止めた。
客がいるのなら、また別の機会にしなければならない。
ミシェルと会っているなどと思われるのは、御免だ。
「どうしても切るんですか。勿体ない」
鏡の中のミシェルに向かって、エルは何度目かの確認をした。
対して、ミシェルは苦笑をエルに向ける。
「だから、切るって言ってるでしょ。エルったら、往生際が悪いなぁ」
「ですが、私でなくても切るのは嫌がると思います。ミシェル様の髪は、それはもう美しいですから」
「お世辞はいいの」
「世辞ではありませんが」
「嫌ならいいよ。自分で切るから」
と、ミシェルが手の中のハサミを奪おうとするので、エルは慌ててハサミを持った手を後ろに隠した。
「エルったら」
「わかりました。切らせていただきます」
主人の決意は固いようだった。
それなら、まだ自分が切ったほうがましだとエルは思い、吐息を一つついてからハサミを持ち直した。
ミシェルの金髪は、ふわふわの綿毛のような巻き毛で、顔の周りをふわりと縁取るその様子は、まさに後光がさした天使のようだった。
長さも腰のあたりまであり、色白の華奢な体にまとわりつく巻き毛は、それはもう美しいのだが。
ミシェルは切ると言い出したのだ。
エルはごくりとつばを飲み込み、ミシェルに指定された背中の半ばでハサミを入れる。
「………」
「エルったら、なんて顔してるの」
「何も切ることはなかったのでは」
「しつこいなぁ」
「陛下も、それはもうこの髪を気に入っておられたのに」
言ってしまって、エルはしまったという顔をした。
鏡の中のミシェルは、ほろ苦く微笑んだ。
「申し訳ありません」
「いいのよ。グリフィスだって、本当は社交界の流行の型で結い上げていてほしいと思っていたのかもしれないわ。私がどうしようもなく田舎者だから、ゆっくりとそういう事を教えてくれるつもりだったのかもしれないでしょ」
「そんな事はないと思いますが」
「それじゃ、グリフィスは私のことを愛してたから、ついでに髪も好きだったのかも。でも、陛下は……そうじゃないもの。やっぱり、ひいき目で見なければ、私の髪は我慢できないほど田舎風なのよ」
ぼさぼさ頭とののしられ、見苦しいとまで言われてしまった。
確かに、今の社交界の流行の髪型は、後れ毛一つもないように、きちんと結い上げるのものだ。背中に流しているだけのミシェルの髪型とは、全く違う。
国王のグリフィスが、見苦しいと言うのも当然なのかもしれなかった。
逃げ出して来て、ひとしきり泣いた後、ミシェルは鏡に映った自分のみすぼらしさに、改めて田舎者だという事実を痛感した。
お仕着せのメイド服、化粧気のない子供のような顔、飾り気のないくしゃくしゃの髪。
こんなみすぼらしい娘が、自分の元婚約者だと知れば、グリフィスが怒るのも無理はないと思えた。
メイドの仕事は勿論やめさせられ、これからもグリフィスに会うことなどないだろうが、せめて城にいる間だけでも、できるだけ綺麗でいようと、ミシェルは決意した。
だが、流行の最先端のドレスは持っていないから着ることは出来ない。化粧品も、あるのは口紅ぐらいのものだ。だが、髪はなんとか結う事が出来る。
そう思って頑張ってみたが、長すぎる髪を結うにはかなりの熟練度が必要なようで、一度も満足いくようには結い上げられなかった。
なので、初心者でも結えるように、髪を少し切ることにしたのだ。
「これでなんとか結えるかな」
軽くなった髪を、ミシェルは満足そうに触って確かめる。
鏡の中のエルは、いまだに複雑な表情だ。
「ありがとう、エル」
「ミシェル様の髪を切れと言う男は、いないと思っていましたが」
「そんなことないわ」
「しかも、陛下がおっしゃるとは」
「エル。今の陛下はね、グリフィスとは違うのよ。私との記憶は、無くなっているんですもの。グリフィスは私を愛してくださったけど、陛下は私を嫌っているみたいなの」
エルは反論しようと口を開きかけたが、何も言わずただ閉ざす。
反論しようにも、記憶を失ってからのグリフィスの態度には何の希望もない。
ミシェルは鏡ごしに、エルと目を合わせ、微笑んで見せる。
「私は大丈夫。グリフィスとの思い出があれば、生きていけるから」
グリフィスは、足音をたてないように気をつけながら、その場をあとにする。
ミシェルに会う気など、もうすっかり失せてしまった。
胸の中で、わけのわからない苦しいほどの感情がうずまいていた。
(髪を切るなんて)
激しい苛立ちに、グリフィスは顔をゆがめる。
(俺の、あんな言葉を真に受けて)
本気で言ったわけではなかった。
ただ、ミシェルを辱めたくて、口から出てしまっただけの言葉だ。
それを自分でも後悔し、今まさに謝罪しようと思っていたのに。
(なんて馬鹿な女だ。あんなに美しい髪を)
ミシェルを美しいと思っている自分に気がついて、グリフィスは胸の中で舌打ちした。
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