(3)
三週間後。
グリフィスは、執務室の窓からぼんやりと外を眺めていた。
今日は朝からひどい雨が降っている。遠く雷の音が聞こえ、時折、暗い空に雷光が見える。
陰鬱な空気。そして、グリフィスは憂鬱だった。
ミシェルが滞在している東棟へと、自然に視線は向かう。
婚約破棄を言い渡したあの日以来、彼女とは一度も会っていない。
もうあれから一ヶ月になろうとしているのに、その間、ミシェルの方から何も言ってこない。
グリフィスは苛立ちを感じていた。
身の程知らずにも王妃の権力を狙った女が、ここであっさりと身を引くとは思えない。
きっと何だかんだと理由を付けて、婚約者の地位を取り戻そうとしてくるに違いないと思い、色々な場面を想定して対応策まで考えていたというのに、ミシェルは沈黙している。
もし今度、ミシェルのほうから何か言ってきたら、必ず自分の所に報告するように侍従達には命じておいたので、今度は途中で握りつぶされているということもないはずだ。
(何を考えている)
グリフィスは自分の中の苛立ちを吐き出すように、大きくため息をつくと、席を立つ。
今日は仕事をする気分ではない。ユーシスでも誘ってカードでもするかと思いついた。
少し歩きたい気分だったので、西棟にあるサザーラント公爵の執務室までユーシスを迎えに行く。
仕事中だったユーシスは嫌な顔をしたが、それでもグリフィスの誘いを受けてくれた。
二人でカード室のある一階におりていくと、どこからか歌声が聞こえてきた。
「誰だ?」
「さあ。初めて聞きますけど、いい声ですね」
二人は声の主を捜すことにして、一階の部屋を順に覗いていく。
そして、大食堂で声の主を見つけた。
ひどい雨で仕事が少ないせいか、大食堂には使用人達がかなり大勢集まっていた。
それでも手にはそれぞれ掃除道具を持っているので、仕事の途中で足を止めただけなのかもしれない。
そして彼等の中心で、ミシェルがとても楽しそうに歌っていた。
ミシェルが歌っているのは、特別な曲ではない。
子供の頃からよく聞く、とても身近で懐かしい歌。
その曲が、ミシェルの透明で、それでいて暖かく優しい声で歌われると、なぜだかとても心を震わされた。
ユーシスとグリフィスも足を止め、いつのまにかミシェルの声に聞き惚れていた。
曲が終わると、心地よい余韻にユーシスはほっとため息をもらしたが、グリフィスは違っていた。
「何をしている!」
歌の後の盛大な拍手の中でも、グリフィスの声は室内に響き渡った。
一瞬にして室内は静まりかえる。
全員が、突然の国王の出現に、真っ青になった。
「すぐに仕事に戻れ」
その言葉に、集まっていた使用人達は蜘蛛の子を散らすようにさっと部屋を出ていく。
ミシェルがただ一人、呆然とした様子で、その場に立ち尽くしていた。
グリフィスはミシェルをまっすぐにらみつけながら、ゆっくりと近づいて行く。
その視線は背筋が寒くなるほどに恐ろしく、ミシェルは足がすくんで動けない様子だった。
「なんだ、その格好は」
下から上へ、メイドのお仕着せ姿のミシェルをグリフィスはわざとゆっくり見渡した。
ミシェルは心底怯えていたが、それでも必死にグリフィスの視線を受け止めている。
だがそれが限界のようで、質問に答えることなど出来なかった。
「メイドの真似事か? 国王の元婚約者がいい格好だな。俺の恥になるとは思わなかったのか」
かっと、ミシェルの頬が真っ赤に染まった。
大きな碧の瞳が、たちまち涙で潤み始める。
だが、ミシェルは泣き出してしまわないようにだろう、何度も瞬きをして涙をこらえていた。
「それとも俺の同情を引こうという作戦か? 残念だが、そんな姑息な手は通用しないぞ」
ミシェルは必死に首を横に振る。
だが、そんなミシェルの態度に、グリフィスは苛立ちを深めた。
「メイドになれば、俺の目に触れる所に入り込めるとでも? そのつもりなら、もう少し自分の身なりを考えたらどうだ。化粧ぐらいして、そのぼさぼさな髪をきちんと結え。見苦しい」
きゅっと唇をかみ、ミシェルは深く頭を下げた。
「申し訳ありません。でも……私は…ただ…」
「ただ? ただなんだと言うんだ」
「ただ、働きたかっただけです。陛下を煩わせるつもりは」
頭を下げたまま、ミシェルは顔を上げようとはしない。
ただ、薄い肩が小さく震えていた。
「顔を上げろ」
「………」
「上げろと言っている!」
グリフィスの怒声に、ミシェルはぱっとはじかれたように顔を上げた。
真っ赤に染まった頬に、涙が筋を二つ作っていた。
紅をささなくても十分に赤い小ぶりの唇は、ふるふると震え、涙をためた大きな瞳は悲しげにグリフィスを見上げていた。
一瞬、グリフィスは言葉を忘れて、美しいミシェルの表情に息を呑んだ。
「国王陛下!」
慌しくその場に入って来たのは、メイド達の責任者である女官長だった。
「申し訳ありません! メイド達がとんだ粗相を」
グリフィスが女官長に注意を向けたところで、ミシェルはその場から走り出していた。
「お叱りになるのなら、私をお叱りください、陛下。ミシェルをメイドとして働かせていた責任は、全て私にあります」
逃げだしたミシェルをかばうように、女官長は扉とグリフィスの間に入り込んで、深く頭を下げた。
「城は人手が足りていると思っていたがな」
「申し訳ありません」
「伯爵令嬢にメイドの真似事をさせるほど人手不足ということか?」
「お言葉ですが陛下。ミシェルのような地方の伯爵令嬢が、王城で働くのは珍しいことではございません。それに、ミシェルはよく働きます。汚れ仕事も嫌がらず、厨房の手伝いから、庭仕事まで、なんでもこなします」
「国王の元婚約者に、メイドをさせていると噂されれば」
「ミシェルが元婚約者だと知る者は、ほとんどおりません。知っている者にも、堅く口止めをしております」
「口止めだけか? それだけでは」
「婚約中のミシェルの側に仕える者を厳選されたのは、陛下ではありませんか。口の堅い、気だての良いメイドばかりです。ご心配は無用だと思います」
冷静にグリフィスの意見に反論する女官長を、グリフィスは忌々しげににらんでいたが、やがて諦めたようにそっぽを向いた。
「メイドをやめさせろ」
「ミシェルに一日中、部屋に閉じこもっていろと言われるのですか」
「そうだ!」
半ば自暴自棄になって叫び返したグリフィスに、女官長は小さく首を振った。
「俺の決定に逆らうつもりか」
「とんでもございません。ただ、ミシェルがあまりにも可哀想だと思いまして。ミシェルはただ本当に働いていたいだけなんです。陛下の目に触れないように、西棟と東棟の仕事をさせていたのですが」
グリフィスが西棟に来ることは滅多にない。
西棟には元老院メンバーの執務室と、官僚達の部屋があるだけなのだ。
「決して、陛下がお考えになっているような理由で、ミシェルはメイドを始めたわけではありません」
「わかったものか」
「陛下。ミシェルは先の王妃様とは違います。陛下の義母上とは、気性も気だても」
冷ややかな視線に、女官長は口を閉ざした。
グリフィスの青い瞳が、ほとんど黒に見えるほど、暗く強く光っている。
それほど、鬼気迫る恐ろしいまでの迫力を持つ視線が、女官長に向けられていた。
グリフィスの逆鱗に触れてしまったことに気がついて、女官長は慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません。出過ぎたことを申しました」
冷や汗を額に浮かべ、ひたすら恐縮する女官長から視線をそらし、グリフィスは黙ってその場を立ち去った。
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