(2)
深夜に王城を出て、朝日はとうに昇り、そろそろ昼になろうかとしていた。
グリフィスは一人で馬を走らせている。
同行させた軍人達とは、ミシェルの実家で落ち合うことになっており、それぞれ別ルートで向かっていた。
全く休みを取らず走り続けてきたグリフィスは、さすがに休息の必要性を感じていた。
あと一息でミシェルの実家に到着できる。予想以上に、早く着けそうだ。
それならばと、馬をかえる空き時間に、自分も食事をとることにした。
疲労困憊のふらふらでミシェルの元に駆けつけるより、体力を少しでも回復しておいたほうがいい。
焦る自分にそう言い聞かせ、グリフィスは目に付いた大きな宿屋に向かう。
こういった宿屋では、宿泊だけではなく、食事だけの客もとるものだ。
まだ昼食時には早いというのに、宿屋の食堂は人でごったがえしていた。
グリフィスは他の店に行こうかとも思ったが、それもまた面倒で、とりあえず中に入ってみた。
王位についてからは真面目に王城で執務をとっていたが、気軽な王子の時にはこういった庶民の店にも忍びで遊びに行ったものだ。
安い酒や油の匂いが染み付いている店内を、疲れた足取りで進み、壁際に一つだけ空いていた席に座った。
テーブルにひじをつくと、自然とため息が漏れる。
食堂の中は慌しく、そして平和だ。
その平和をもたらしているのが、全て自分だと思っているわけではないが、やはり安心し満足感があった。
(時々は外に出るのも必要だな)
あの王城の中にこもっていると、気が変になると思うことがある。
年若い国王を軽視しようという貴族達に付け入る隙を与えないために、自分を強くもっていなければならない。
支持者達の期待を裏切らず、期待以上の結果を自分に課すことも忘れられない。
常に緊張の連続で、張り詰めていて、気を抜く余裕もなく。
ミシェルの笑顔を心の中に思い浮かべて、ぼうっとしていたグリフィスは、いきなり背中を勢いよく叩かれて、ぎょっとなった。
「久しぶりだね! 相変わらず、いい男じゃないか!」
顔を上げると、この宿屋の女主人らしい中年の女性が、グリフィスを見下ろして立っていた。
まるで旧知の友人と会ったかのように笑いかけているが、グリフィスにとっては初対面だ。
「おやおや。まだ難しい顔してるんだねぇ。ちゃんと私のおすすめどおり、ヴァロアの森に行ったのかい?」
人違いだとあしらおうとしたグリフィスは、その言葉に動きを止める。
「ヴァロアの森?」
「心の洗濯するのなら、あの森が一番だって教えてあげたっていうのに」
「心の洗濯?」
呆然とした顔でオウム返しするグリフィスを、女主人は呆れた顔で見ていたが、それもまたグリフィスがひどく疲れているせいだと解釈したらしい。
大きな手で、グリフィスの肩をばしばしと叩く。
「その若さで人生に疲れてどうするね。あんたには、今までの人生よりもこれからのほうが長いんだよ。過去に疲れる暇があったら、こうだろう?」
と、女主人はグリフィスの顎を、まるで小さな子供にするかのようにぐいと持ち上げて、グリフィスの視界を一転させた。
壁際にあるグリフィスの席のすぐ上は、宿屋になっている二階へあがる階段になっている。
安普請の階段は、下から見上げると、階段を上り下りする女性のスカートの中が丸見えだった。
強引に上を向かされたグリフィスの上を、若い娘がそうとは知らずに駆け上っていった。
「時にはよそ見して気分転換さ!」
グリフィスは思わずふきだしていた。
とんでもない女主人がいるものだ。階段をのぼっていくのは、宿屋の女性客だというのに。
だが、そのいい加減さと明るさが楽しくて、グリフィスは笑っていた。
「なかなかいい席だな」
駆け上る女性の足を見送ったグリフィスは、そうつぶやく。
それを聞いた女主人は、とても楽しそうに大声をあげて笑い出した。
「調子がでてきたじゃないか!」
どうやら、失われた記憶の中で、この宿屋に来たことがあるらしい。
そして、今とほとんど同じやりとりをしたのだろう。
なぜこの宿屋に来ることになったのか、思い出すことは出来ない。
ユーシスは、ちょっと息抜きしたくなって出ていったんじゃないかと言っていたが、それが正解なのかもしれない。
そして、ここから……。
「俺は森へと向かったのか」
「あの森は美しい所だったろう? 本物の妖精が住んでいても不思議じゃない。これからまた、あの森に行くのかい?」
「そうだ」
「いいことだよ。また心の洗濯に?」
「……まあな」
グリフィスはふと黙り込んだ。
人生を一変させる、そのきっかけとなった森。
ミシェルが愛し、懐かしむ場所。
その森には、何か特別な魅力が、力が、あるのだろうか。
(再び足を踏み入れたなら、俺はまた何か……変われるだろうか)
◆
ミシェルの実家、ヴァロア伯爵邸に到着したが、同時に王城を出た軍人達はまだ誰も来ていなかった。
グリフィスは軍人達の到着を待つつもりはない。
すぐ、ミシェルが来る道へと向かう。その道は、ヴァロアの森の先にあった。
降りだした雪の中、グリフィスは一人、森へと入っていった。
背中から強い風が雪を巻き上げ、グリフィスの視界を遮る。真っ白に。
そして、風がやんだとき、グリフィスは自分が深く森に包まれているのを感じた。
(この森を知っている)
雪の中、森がどのような姿をしているか、ほとんど見ることは出来ない。
それでも、体のどこかが、ここを知っている懐かしいと声を上げているのが聞こえてくる。
この森で、ミシェルと多くの時間をすごしたのだろうか。
この森での時間は、いつも幸福だったのだろうか。
だからこうして、思い出せなくても心に触れるのだろうか。
「グリフィス」
ミシェルの声を聞いたと思い、はっと振り返った。
だが、周囲を見回しても、ミシェルの姿はどこにもない。
ミシェルが来ているはずがない。
風の音を聞き違えただけだ。そうでなければ、寝不足の頭がどうかしているのか。
そう自分に言い聞かせながらも、グリフィスは一瞬、ミシェルの笑顔を見たような気がして仕方がなかった。
(まさか、もうミシェルはここに到着しているのか?)
そんな胸騒ぎに襲われて、グリフィスは馬を走らせ始める。
「グリフィス」
また背後から声をかけられて、グリフィスは馬をとめ、振り返る。
だが、グリフィスの背後には真っ白に雪化粧した森が広がるばかりだった。
グリフィスはきつく目を閉ざすと、大きく頭を横に振った。
幻聴なのだ。ミシェルに会いたいと思っているから、声を聞いたと思うのだ。
だが、胸騒ぎがとまらない。
この森を知っていると主張する自分の中の何かが、ミシェルを探せと命令しているかのようで。
「グリフィス」
耳元でミシェルの声が聞こえて、グリフィスは目を開けてみずにはいられなかった。
雪に覆われた森は消え、グリフィスは緑深い森の中にいた。
頬に感じる風は心地よく、木漏れ日の中は眠くなるほどに居心地がよかった。
ふと横を見ると、木陰に広げられた敷物の上で、ミシェルがぐっすりと眠っていた。
とてもあどけない寝顔だった。
驚くと同時に、その光景は消え失せる。
今度はのんびりと森の中を歩いていた。
確信を持って隣を見ると、やはりミシェルが楽しそうに何か話しながら歩いていた。
だが、彼女が何を言っているのか、聞き取ることは出来ない。
それがもどかしく思った途端、またその光景は消えていた。
「森ならどこでも素敵よ? ここに限らず」
と、ミシェルが、こちらを見上げながらそう言うのが聞こえた。
その表情がとても幼く無垢で、美しくて、グリフィスは目を見張った。
そして、またその光景は消え失せる。
(これは俺の失った記憶か?)
そう思った途端、今度はミシェルに話しかけていた。
「いい男の条件はなんだと思う?」
ミシェルがこちらを見つめながら、小首をかしげる。
「難しいね」
「まあ、色々と意見はあるだろうが、俺はちゃんと人を愛せることだと思う」
過去の自分が言った言葉に、グリフィスは息をのんだ。
「愛することは信じることでもある。何度裏切られても、誰かを愛し信じ続けることは、簡単なことじゃない。強くなければ」
今度は馬車の中、ミシェルが真剣でどこか苦しげにこちらを見上げながら、つぶやいた。
「私のこと、信じられない?」
夢想はほんの一瞬だった。
気がつけば、雪が舞い散る森の中、グリフィスは一人、馬を立たせていた。
小さくあえぎ、震える手で汗に濡れた前髪をかきあげる。
そして、グリフィスは、改めてゆっくりと白く輝く森を見回した。
記憶が戻ったというよりも、この森が持つ自分とミシェルの記憶を見せられたような感じがした。
しかも、今の自分に必要な記憶だけ、見せられたような気がするのだ。
「愛することは信じること、か」
自分らしい言葉に、苦笑していた。
愛情と信頼は必ずしも並び立つものではないかもしれないが、グリフィスにとってはどうしても切り離せないものだ。
その二つが離れてしまったら、父とイザベラのような関係になってしまうような気がして。
「ちゃんと、わかっていたんじゃないか」
ミシェルとの恋にどっぷりと浸っていた過去の自分も、彼女を信じていたのだ。
信じていたからこそ、愛していたのだ。
自信を持たなければ。
もっと自分の判断を信じ、行動を信じ、自信を持つべきだ。
このままでは、間違いを犯すまいと怯えるばかりで、何も出来ない人間になってしまう。
自分が自分を信じられないことには、どれほどミシェルが愛してくれていても、ミシェルを信じることが出来ない。
いつまでもミシェルを疑い、二人の仲は駄目になる。今のように。
グリフィスは白い息を吐き、雪が舞い降りてくる天を仰ぎ見た。
ミシェルが会おうと思ってここに向かってくれたなら、今度こそ自分の気持ちを全て打ち明け、もう一度だけ懇願しようと思っていた。
だがもし来てくれなくても、このままユーシスの別荘まで走りぬけ、ミシェルに会おう。
愛していると伝え、ありのままの自分をさらけだし、こんな自分でも一緒にいてくれないだろうかと懇願しなければ。
勿論、その前に、今までの山のような悪行に対する謝罪もだ。
グリフィスはそう心に決めながらも、確信していた。
「ミシェルは、きっと来る」
どれほどの信頼関係もぶち壊すようなことをしたことは、よく自覚している。
だがきっと、ミシェルは……、ミシェルなら……。
グリフィスは大きく息をつき、冷たく澄んだ空気を体に満たすと、進むべき方へと馬の向きを変えた。
一陣の強い風が舞い散る雪を吹き飛ばし、グリフィスの向かう先の視界をさっと開く。
それはまるで自分のために、森が扉を開いたかのように、グリフィスは思えた。
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