(5)


 夜通し朝までユーシスの部屋で酒を飲んできたグリフィスは、さすがに少しけだるくい足取りで、自室へと廊下を歩いていた。

 ユーシスは、しきりとミシェルを話題にしたがった。

 だが、グリフィスはミシェルの話題を避け、ひたすらお酒を飲んでいたせいか、かなりすぎてしまったようだ。


 ユーシスがただの好奇心ではなく、心配してくれているのはわかる。

 だが、ミシェルに関する自分の想いを、正直に話す気にはなれなかった。

 片思いに苦しんでいるなんて、しかも記憶を失う前の自分に嫉妬しているなんて、我ながらあまりにも不様だと思えるから。


「雨か」


 深夜から降っている雨のせいか、周囲はしんと静まりかえり、清浄な空気が満ちているように感じる。

 酒臭いため息をつくと、グリフィスは少し外気にあたっていこうと、廊下を曲がり、中庭を横切る回廊に出た。


 遠くから、女のすすり泣きが聞こえるような気がして、グリフィスはふと足を止めた。

 周囲を見回すが、雨のせいで視界はよくない。

 泣いている女の姿など、どこにも見えなかった。


 こんな雨の中、外で泣くような者がいるものかと、グリフィスは苦笑を漏らし、再び歩き出した。

 しかし、またすぐに、女のすすり泣きが聞こえてくる。

 しかも、先ほどよりは明瞭に。

 眉をひそめたグリフィスは、泣き声の主を捜そうと、足を速めた。


 植え込みと大きな花壇の間に、誰かがうずくまっていた。

 角度的に、金色の髪と小さな背中しか見えなかったが、グリフィスには一目でミシェルだとわかってしまった。


 何をしていたのか、ミシェルはすぐに立ち上がると、泥だらけの手を雨で洗おうとでもするかのように、手のひらを空に向けて立っている。

 泣いているせいで、時折、肩がひくひくと動く以外、ミシェルはじっとそうして立っていた。

 そして、グリフィスも足を止め、そんなミシェルの後ろ姿をじっと見つめていた。


 雨の中に消えていってしまいそうな、雨に溶けていってしまいそうな儚げな背中を、しっかりと抱きしめたいという想いが熱く胸にこみあげてくる。

 冷え切ってしまっているだろう体を抱きしめて、自分の体温で温めてやりたいと、グリフィスは狂おしく思った。


 他の男のことなど、その華奢な体の中から追い出してしまいたい。

 失った男のことを想って泣くのなら、今ここにいる男に微笑んだほうがどれだけ前向きなことか、体を揺さぶって教えてやりたい。

 悲しければいつでも抱きしめて慰め、寂しければいつでも側にいて孤独をうめる男が、ここにいるというのに。


 今、ミシェルが何を思っているのか。

 自分のことだけではあるまいと、グリフィスはぐっと強く拳を握り締めた。


 視線を感じたのか、ミシェルがグリフィスのほうに振り返った。

 二人の目と目があう。

 途端に、ミシェルの顔が強くこわばるのが、雨のカーテンを隔てていてもよくわかった。


「待てっ!」


 ミシェルが身を翻して逃げ出そうとしたので、グリフィスは追いかけようと雨の降る中庭へと飛び出そうとした。

 しかし、ミシェルはグリフィスが追ってくるのを見ると、逆に慌ててグリフィスのほうへと走ってきた。


「陛下、雨に濡れますから」


 と、グリフィスを回廊の屋根の下へと促した。


「おはようございます、陛下。私に何かご用でしょうか?」


 こんな時でも、国王陛下に対する礼儀を失わない、逆に言えばいつでも他人行儀なミシェルに、グリフィスは唇をかみしめる。


「こんな雨の中、何をしていた」

「朝の散歩です、陛下」

「散歩だと?」

「少し雨に濡れたい気分だったのです」


 真っ青だというのに、顔に笑顔を張り付けて見上げてくるミシェルに、グリフィスは無性に腹が立った。

 本心を隠し、適当に扱われているような気がして。あしらわれているような気がして。


「その哀れな格好で、俺の気を引こうと思ったんじゃないのか?」


 ミシェルは、緑色の大きな瞳を見張り、ただ黙って首を横に振った。


「昨日は着飾って見せ、今日は濡れてみせる。そういうことじゃないのか?」

「陛下。どうぞ、お聞きください。私はただ」

「そんなことをしても無駄だと、いつわかる。俺にとって、お前が目障りなだけだと」


「グリフィス!」


 どんどんエスカレートしそうなグリフィスの暴言を止めたのは、ユーシスの一喝だった。

 いつの間にか、ユーシスが二人の側にまで来ていた。厳しい表情を浮かべて。


「何をしているんですか。ミシェルを雨の中に立たせたまま、あなたは何をしているんですか、グリフィス」


 押さえた口調でそう叱りつけながら、ユーシスはミシェルに手を差し出して、回廊の屋根の中に引っ張り込んだ。

 ミシェルは頭の先から足先までびっしょりで、顔は真っ青で寒さに小さく震えている。

 改めてその様子を見、グリフィスは激しい後悔に襲われた。


「サザーラント公爵様。私はびしょぬれですから、廊下を汚してしまいます。ですから、庭を通って部屋に帰りますから」

「廊下は拭けばいいんです。風邪をひかせるわけにはいきませんよ。部屋まで送りましょう」

「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫ですから」

「送ります。グリフィス、あなたは少し頭を冷やしたほうがいいようですね」


 ユーシスの珍しく冷たい視線に、グリフィスは黙ってそっぽを向いた。


「あの……陛下、あの…」


 何か言いたげなミシェルの様子に、彼女を促そうとしていたユーシスは足を止める。

 そして、ミシェルは、そっぽを向いたままのグリフィスに向かって、口を開いた。


「どうぞ、私がお金や権力を欲しがって婚約したわけではないこと、信じてください。私はただ、本当に陛下をお慕いしていただけなのです。それだけは信じてください。それから、私はお城を出ていくことにいたします。長い間、お世話になりました。どうもありがとうございました」

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