第十二章 幾億の闇の果てに

(1)



 夜もすっかり更け、外は寒さと闇に閉ざされようとしていた。

 だが、ヴァロア伯爵邸は、未だ夜の静けさとは無縁のざわめきの中にある。


 グリフィスは、ミシェルとロイ、そしてコリンとガブを連れて、ヴァロア伯爵邸に戻った。

 道をふさいでいた倒木の山は、村人達と遅れてやってきた軍人達が力をあわせ、人馬が通れるだけの隙間を確保した。

 ヴァロア伯爵邸はまだ改築中なのだが、外装はすでに終わり、内装も半分ほど仕上がっている。

 家具もそれなりに入っているので、非常時の滞在場所としては問題がなかった。


 すぐに、グリフィスを追って王城から来た軍人たちが全員顔をそろえた。

 グリフィスは彼らに指示を出し、村から必要な物資を調達させ、王城のユーシスや別荘のデイナと連絡を取るため、使者として差し向けた。

 ヴァロア邸内に危険はないかすぐに調査させ、危険がないと報告を受けても、引き続き邸内の警備にあたらせた。

 ユーシスからロベール公爵の身柄を確保したという連絡を受けるまで、グリフィスはミシェルの身辺警備を緩めるつもりなどなかった。


 ミシェルを狙った男は、ほぼ即死状態だった。

 この男の存在自体が証拠になるかもしれないと、グリフィスは遺体をユーシスの元に送っている。


 背中に被弾したコリンは、村の医者がすぐに呼ばれ手当てを受けた。

 幸い命に別状はなく、養生すれば元通りに動けるようになると、医者は確約してくれた。

 肩を打ちぬかれたロイも、出血こそ多かったが後遺症になるようなこともなく治ると言われ、ロイ自身も怪我人として特別扱いされることを拒否した。

 もっとも、デイナに無事を知らせる手紙を書いてすぐ、ベッドに倒れこんで眠ってしまったが。


 そしてミシェルも、眠っている。

 ヴァロア邸に着いてから、ロイとコリンのためにベッドを用意したり、邸内を片付けたりと精力的に働いていたのだが、ロイとコリンの無事を聞いて、すぐに眠ってしまった。

 全員の無事を確認し、自分の実家にいるという安心感に、どっと疲れが出たのだろう。


 グリフィスはパンとスープの簡単な夕食を持って、ミシェルが眠っている部屋に向かっている。

 ミシェルを起こすつもりはないが、目が覚めたら食事をしたいと思うだろうからと、自分で自分に言い訳をしながら。

 本当は、ただ単にミシェルの側にいたいのだ。


 音を立てないように、そっと扉を開く。

 ミシェルはぐっすりと眠っているようだった。

 暖炉に薪を追加してから、グリフィスは枕元に椅子を引き寄せて、静かに腰を下ろす。

 無邪気な寝顔はまるで天使のようで、見つめているグリフィスの口元にも優しい笑みが浮かんだ。


 洞窟で再会してからのミシェルの態度は、王城での彼女とはまるで違っていた。

 陛下ではなくグリフィスと呼び、敬語はなくなってしまっていた。

 まるで今も婚約者のように、恋人のように、ミシェルは親しく接してくれている。


 ミシェルに話したいこと、聞きたいこと、謝りたいことが山のようにある。

 だが、まだミシェルとは話す時間を持てずにいた。

 洞窟での再会のキスは慌しいもので、すぐにロイとコリンの治療のため、それぞれに忙しく働いた。

 ヴァロア邸についてからも二人は忙しく飛び回り、今ようやくグリフィスはゆっくりとミシェルの顔を見ることが出来たのだ。


(何から話せばいいのか……。まずは謝罪からだろうな)


 愛していると、ミシェルは言ってくれた。

 だが、その言葉に甘えて、これまでのことをなかったことにするつもりはない。

 それどころか、愛されていることが今も信じられない。

 あの時は命を救われた興奮と感激で、ああいった言葉が口から出ただけなのではないかと、冷静になると思えてきて。


(だが、彼女は、来てくれたのだ)


 それがミシェルの命を危険にさらしたことはわかっていても、グリフィスは嬉しかった。

 ミシェルが今もグリフィスとの関係を切りたくないと思ってくれた証拠なのだから。


 ふと、ミシェルが身じろきをした。

 グリフィスはどきりとして、ミシェルの顔を覗き込むようにしていた上体を起こす。

 緊張するグリフィスの前で、ミシェルはゆっくりと目を開いた。


「……グリフィス?」


 まだ半分寝ぼけた、とろんとした瞳に見つめられ、グリフィスは鼓動を速めた。

 そして、差し出されたミシェルの手を、戸惑いながらもしっかりと握り返す。


「今、何時?」

「十時をまわったところだ」

「大変。ちょっとだけ眠るつもりだったのに」


 驚いた様子でミシェルは起き上がり、そのままベッドをおりようとする。


「まだ眠っていたらいい。疲れているのだから」

「でも、皆さんの夕食の仕度もしていないし。ベッドの準備も」

「夕食なら、もうすませた」


 素っ気無い返事に、ミシェルは泣きそうな顔でグリフィスを見上げてくる。

 大きく見開かれた美しい緑の瞳に、グリフィスの鼓動はますます速くなった。


「材料がそろわないのに、こった料理など出来るわけがないだろう。パンと簡単なスープですませた。それぐらいなら、俺達でも十分だ」

「ベッドの準備は?」

「兵達は居間に集まって休む。薪が限られているのに、個室は無理だ」


 近隣の村から食料と燃料を分けてもらってきたのだが、雪に閉ざされる村に余分な備蓄があるわけがない。

 グリフィスは必要最低限の量だけしか集めなかった。

 勿論、対価として相場以上の金も渡してきたが。


「それなら、私も居間に」

「馬鹿を言うな!」


 兵士は勿論、全員男だ。

 その男達の中で、ミシェルを眠らせられるわけがない。

 ミシェルの寝顔を、他の男達に見せることなど出来るわけがない。


「別に馬鹿じゃないわ。皆さん、礼儀正しい方ばかりだし。非常時だもの」

「国王の兵が礼儀正しいのは当然のことだ。兵の間で貴族の娘が寝るなんてことは、あり得ない」

「非常時だから」

「駄目だっ」


 じっと、グリフィスの顔を見ていたミシェルだったが、不意に小さく吹き出した。

 勿論、グリフィスは面白くない。


「なんだというんだ」

「言ったら絶対に怒るわ」

「言え」

「怒らないでね? あなたが聞きたがったんだから」

「だから、言えと言っている」

「相変わらず、いばりんぼうよね」


 怒るよりも驚いて、グリフィスは言葉がでなかった。

 国王のグリフィスに、かつてこんなことを言った者などいなかったのだから。

 そして、王城ではびくびくしているばかりだったミシェルの口から、それが出たことも。


「いばりんぼうで意地悪で。私はいつもそう言って、あなたを笑わせていたの」

「……俺の記憶は戻っていない」

「知っているわ」

「…………」

「でも私は覚えてる。あなたがどんな人か。どれほど私達が愛し合っていたか」


 ミシェルにぎゅっと手を握り締められ、その手がミシェルの口元に引き寄せられるのを、グリフィスは呆然と見ていた。

 柔らかな唇が手の甲に触れる。その感触に、グリフィスは小さく震えてしまった。


「私、あなたが記憶を失った時、あなたから逃げてしまった。国王のあなたが怖くて、王城が怖くて。自分に自信がなかったの。婚約してからもずっと、王妃になる自信も心構えさえなかったから。一人では到底、あなたの婚約者だと胸を張って立ってはいられなかったの」

「…………」

「一度は、あなたを諦めようとさえしたの。今はとても後悔しているわ。ごめんなさい」


 呆然とミシェルの告白を聞いていたグリフィスだったが、ミシェルの目に涙が光るのを見て、我に返った。


「あ、謝るのは俺の方だ!」


 思わず出てしまった大声に、ミシェルは驚いて目を丸くしている。

 ミシェルを気遣おうとして命令し、謝罪しようと怒鳴って驚かせてしまう自分に、グリフィスは唇をかんで顔を背けた。


「私、ずっと嫌われていると思っていたわ」

「嫌ってなんて」


 勢いよく否定しようと、ミシェルを振り返ったグリフィスは、ミシェルと目が合った。

 優しく、包み込むような笑顔で見つめてくれているミシェルに、グリフィスは自分が全て理解されているのだと感じた。

 理解され、許されているように思えた。


 ベッドに片膝をつき、ミシェルの体をしっかりと抱き寄せる。

 柔らかでたっぷりとした髪に指を差込み、薔薇色の唇に唇を押し当てた。

 強く強くミシェルの細い体を抱きしめ、思うままミシェルの唇を貪る。


 ミシェルの腕が首にまわり、ぎゅっと引き寄せてくれたのが嬉しかった。

 そして、絡めとった舌が愛撫に答えてくれたのも嬉しくて、グリフィスはどんどんキスを深めた。


「ミミ…ミミ……」


 くったりとしたミシェルの体を抱きしめ、髪にキスをしながら、グリフィスは何度もミシェルの名をつぶやいた。


「愛している」


 ずっと出来なかった告白も、ごく自然に、当たり前のようにすることが出来た。


「ええ。私も、愛しているわ」


 まるで、もうずっと前からグリフィスの気持ちを知っていたかのようなミシェルの落ち着きように、グリフィスは眉を寄せる。


「いつから俺の気持ちに気づいていたんだ?」

「いつって、洞窟で抱きしめてくれたとき、気が狂いそうだったって自分で言っていたじゃない」

「そんなこと言ったか?」

「言ったわ」


 本気で覚えのないグリフィスは、ますます眉をひそめ、鼻の上に皺を寄せた。


「すごく嬉しかった」


 素直に言葉を投げかけてくるミシェルに、グリフィスは調子が狂い、狼狽してしまう。


「それから、守ってくれてどうもありがとう。あの時、グリフィスが来るのがもう少しでも遅かったら、私は殺されていた。私、死ぬのを覚悟したもの」


 ミシェルの額に銃口が押し当てられていた場面を思い出し、グリフィスはミシェルをしっかりと抱きしめた。

 思い出すと、今でも体が震えそうになる。きっと一生、忘れることが出来ないだろう。それぐらい、恐ろしい場面だった。


「俺が守るのは当たり前だ。こんな事に巻き込んだのは、全て俺のせいなのだから。君に怪我がなくて本当によかった」

「でも、ロイとコリンに怪我をさせてしまった。これが罠だというのは、私、覚悟していたの。それでも、あなたに会える可能性が少しでもあるならと思って。ロイとコリンには、本当に申し訳ないことをしたわ」

「そんなことはない。特にロイは、この先ずっと君に忠誠を誓うだろう」

「そんなことないわよ。ロイには凄く怒られたわ。人の上に立とうという人があれでは駄目だって」


 ミシェルの盾となって暗殺者と刺し違える覚悟だったロイを守るためにミシェルが無茶をやったことを、グリフィスはロイからすでに聞いていた。

 確かに、ミシェルの行為はロイの覚悟を無にするものだったし、グリフィスが間に合わなければ、二人とも殺害されるという最悪の結果をもたらしただろう。ロイの言うとおり、それは人の上に立つ者が選択していいやり方ではない。


 だが、グリフィスはミシェルの選択が好ましく、嬉しく思えた。

 そして結果として、ロイという軍人としても人としても一流の男から、心からの忠誠と崇拝を得たミシェルを、誇らしく思った。

 この国の王妃にふさわしい女性だと、そう思ったのだ。


「私、デイナさんに色々と教わったの。王城ではどう振舞うべきか、どう考えるべきか。王妃になるというのは、どういうことなのか。だからあの場面で、ロイに守られるべきだということはわかってはいたの。でも、出来なかった」


 ミシェルは顔を曇らせ、しょんぼりとした様子で頭をたれる。


「やっぱり、私には王妃なんて務まらないのかもしれない。でも、私に出来る限り、精一杯努力するから。だからグリフィス。私と結婚してほしいの」


 再会してからずっと、ミシェルには驚かされっぱなしのグリフィスだったが、今以上の驚きはなかった。

 声もないグリフィスを、ミシェルは不安そうに見つめている。


「私からこんなお願いするなんて、とんでもないと思う? でも、デイナさんも自分からプロポーズしたって聞いて、あなたに再会できたら、今度は私からプロポーズしようって決めていたの」

「……ミミ」

「突然でごめんなさい。でも、今言わないと、言えなくなってしまいそうで。私、王城では何も言えなくて、それを凄く後悔しているから、もう同じ後悔をするのは嫌なの」

「ミミ」

「あなたを愛しているわ、グリフィス。あなたと一緒に生きていきたいの」

「ミミ、待ってくれ」


 ミシェルの肩をつかみ、グリフィスはミシェルをとどめる。


「駄目なの?」


 不安いっぱいの目で見上げられ、グリフィスは低くうなると、胸の中にミシェルを引き寄せた。

 愛おしさが胸に突き上げてくる。このまま抱きしめて、自分のものにしたいと、熱い思いがこみ上げてくる。

 だが、グリフィスはまだ自分が何も話していないことを忘れてはいなかった。


「駄目じゃない。ただ、先に俺の話を聞いてほしい。話と謝罪を、聞いてほしいんだ。聞いた後で、君が同じ気持ちでいてくれたなら」


 ミシェルはグリフィスの顔を見ようと身じろぎしたが、グリフィスはしっかりとミシェルの頭を胸の中に抱えこみ、それを許さなかった。

 諦めて、ミシェルはこくりと頷いてくれる。

 それでようやくほっとして、グリフィスは腕の力を緩めた。

 ミシェルの視線を感じながら、目を伏せて、自分の話すべきことをもう一度、心の中で整理した。


 

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