(6)


 数日後。


 ソフィアは、うかない顔を扇の後ろに隠しながら、王城の廊下を歩いていた。

 社交シーズンは終わり、貴族たちのほとんどは冬を快適に過ごせる南の別荘か、雪を楽しむために北の別荘に移動している。

 ソフィアもいつもなら、ロベール家の南の別荘に行っているのだが、どうしてもそんな気分になれないでいた。


 その原因は、祖父のロベール公爵にある。

 グリフィスの婚約者になるように、あれこれと細かい指示をされるのはまだいいとして、最近、部屋に閉じこもり、深刻な顔で部下達となにやら相談をしている。

 ソフィアが同席するのを嫌がり、何を話しているのか、全くわからない。

 そして、ソフィアにはその相談の内容が、何か悪いことではないかと思えて仕方がないのだ。


 扇の陰でため息をつく。

 ふと顔を上げると、長い廊下の向こうから、ユーシスがやってくるのが見えた。


「ユーシス様」


 ユーシスもソフィアに気がついて、軽く会釈し、微笑んでくれる。

 ソフィアにとって、ユーシスは初恋の人だ。

 子供の頃から、大人になったらユーシスと結婚するのだと、ずっと思いこんで育ってきた。

 前王妃イザベラの事件がおきるまで、ソフィアとユーシスは正式に婚約もしていたのだ。

 だが、事件以後、元老院の主席となったロベール公爵は更なる権力の拡大を夢見て、ユーシスとの婚約を破棄した。


 祖父からは、グリフィスと結婚し王妃になるのだと言われている。

 だが、ソフィア本人はユーシスと結婚しサザーラント公爵夫人になることだけを、夢見ている。


「ソフィア、いらしたんですね」

「まるで、居てはいけないみたいですね」

「まさか。お会いできて、とても嬉しく思っています」


 礼儀正しく、ユーシスはソフィアの手を取り、手の甲にキスをしてくれる。

 だがそれは、挨拶以上のものではない。たとえば指で手の平を愛撫してきたりとか、顔を上げるときに思わせぶりにみつめてくるとか、そんなことはまるでない。

 ユーシスはいつもそうだ。期待したいソフィアに、絶対に期待させてはくれない。


(六年前は、もっと親密だったのに)


 家同士が決めた婚約だったが、ユーシスが嫌そうにしているのは見たことがなかった。

 むしろ積極的に、ソフィアを婚約者として扱ってくれていたと思う。


「どうしたんです? いつもは、もう別荘にいらっしゃっているでしょう」


 心配そうな表情のユーシスに、ソフィアは自分の悩みを相談したいと思った。

 祖父を裏切ることになるかもしれないが、祖父の一番の政敵であるユーシスなら、逆に祖父が何を考えているのか、自分よりも詳しく知っている。

 言質を取られないように、慎重に話せばいい。そういうことは、生まれたときから大貴族の令嬢であるソフィアには、なんでもないことだった。


 ソフィアは、ユーシスを廊下の端に引っ張っていく。

 幸い、廊下に人影はなく見通しがいいので、誰かが来ればすぐにわかる。


「実は、祖父のことで、気になることがあって」

「ロベール公爵の?」


 眉をひそめたユーシスに、ソフィアは頷いてみせる。


「陛下が婚約を破棄されてから、ちょっと変なのです。何があっても、私と婚約させようとしていて」

「ああ、それは、仕方がないかもしれませんね。ロベール公爵だけではなく、最近、婚約目当ての令嬢が陛下に近づこうと、それはもう涙ぐましい努力をされていますから」

「そうなんですか」

「つい先週には、陛下の寝室に忍び込んでいた令嬢がいまして。陛下は追い出したそうですけどね」

「まあ」


 それでは、祖父は急に増えたライバルを蹴落とすために、忙しくしているのかもしれない。

 寝室に忍ぶなんて、大胆なことをするライバルがいるぐらいだから、祖父も躍起になっているのだろう。

 ソフィアは少し安心して、ほっと息をついた。


「心配なさらなくても、あなたが一番婚約者の地位に近い所にいらっしゃる」


 ユーシスの言葉に、ソフィアははっと顔を上げた。


「私がそんな事を心配していると思っておられるの? 本気で? ユーシス様」


 悔しさに唇を震わせ、瞳を涙で潤ませながら、それでもきつい視線で睨んでくるソフィアを、ユーシスはただ静かに見つめ返していた。


「私が誰と結婚したいのか、ご存知のはず。知らないとは言わせません」

「知りません」

「ひどい人!」


 声を荒げたソフィアの顔を、ユーシスはあくまで冷静な顔で見つめている。


「僕はひどい男です。それこそ、ご存知でしょう?」

「知りませんっ」

「実の父と姉を断頭台へと追いやった。冷酷な、ひどい男です」


 一瞬、ソフィアはユーシスの冷ややかな表情に息を呑んだが、すぐに息を吹き返す。


「ええ、確かに、冷酷な決断だったと思います。ですが、家長として、あなたは正しいことをなさった。サザーラント家が取り潰されれば、どれほどの人々が路頭に迷ったことでしょう。私も大きな身代を持つ貴族の娘です。あなたのなさったことを理解できますし、あなたを尊敬しておりますのに」


 じっと、ユーシスの目が真っ直ぐに見つめてくる。

 ソフィアは見つめかえしながら、キスをされると、そう感じた。

 ユーシスは何も言わない。ぴくりとも動かない。

 それでも、ソフィアはそう感じて、胸をはやらせ、じっとその時が来るのを待った。

 だが、その時は訪れなかった。

 ユーシスは視線をそらし、ソフィアとの間に、半歩分距離を開けた。


「私、待つつもりです」


 このまま、ユーシスが行ってしまうような気がして、ソフィアは慌てて口を開いた。


「ユーシス様は、罪悪感を抱えておられるんだわ。お父上に、姉上に。そして、そのお二人のせいで不幸になられた陛下に対して、償いをなさろうとしている」

「…………」

「それが終わるまで、私は待ちます。待ちますから」


 ユーシスが無言のまま、優しく、嬉しそうな笑みを浮かべたので、ソフィアは言葉を失う。

 その笑顔に見とれている間に、ユーシスはソフィアに背を向けて去っていってしまった。

 だが、もうソフィアはユーシスに追いすがって声をかけようとはしない。

 ユーシスは何も言ってくれなかったが、今、彼の心に触れることが出来たような気がしたから。

 言葉ではない、深い部分でわかりあえたような気がして、胸がじんと熱かった。


(もし陛下が婚約をしたなら、ユーシス様は何かおっしゃってくださるのかもしれない)


 勿論、ソフィアとユーシスの間には、結婚に至るまでにたくさんの問題がある。

 一番の問題は、祖父の反対だろう。


(陛下との婚約、諦めるように説得しなくちゃ)


 グリフィスが、ミシェルと幸せな結婚をすれば、ユーシスの罪悪感もきっと薄れるだろう。

 そのためにも、祖父には大人しくしていただかなければならない。

 ぱちんと扇を閉ざすと、ソフィアは早足で祖父の下へと向かうことにした。



 ロベール公爵の秘書は、主人の怒りを恐れて、早口に報告書を読み上げていた。

 だが、早く済ませたとしても、報告書の内容が変わるはずもなく、公爵の怒りがなくなるわけでもなかった。


「陛下が隠密で別荘にだと?」


 やはり、怒りも露わにロベール公爵は秘書を睨み付けた。


「は、はい。タイミング的に考えても、これは懐妊の知らせを受けてかと思いますが」

「そんな事は言われなくてもわかっている」

「失礼いたしました」


 ロベール公爵は、黙り込んでじっと考えこんだ。

 今まで、どれほどミシェルの存在を邪魔に感じていても、脅迫以上のことをするにはためらいがあった。

 ロベール公爵は、前のサザーラント公爵と前王妃がどんな末路をたどったのか、よく知っている。

 処刑にも立会い、あまりにも哀れだった両者の姿を今もよく覚えていた。


 そして、自分が権力を望むとしても、こうはなるまいと心に決めたのだ。

 サザーラント公爵と王妃は、望んではいけないことを望み、罰を受けた。

 自分はそうなるまいと、自らの戒めにしていたのだが。


(あの田舎娘が悪いのだ)


 あともう少し、あともう少しで夢がかなうところだった。

 元老院の主席となり貴族たちの頂点に立ち、孫娘を王妃とし国王の外戚となる。

 長年抱き続けていた夢を、いきなり出てきた小娘にぶち壊されてしまったのだ。

 ミシェルに対する恨みが、ロベール公爵の中で大きく膨れ上がり、戒めを破ってしまったのかもしれない。


「すぐに計画をたてろ。絶対に私が関与していると知られないような、完璧な計画をだ」

「一体、何の計画です?」


 公爵は秘書を睨み付ける。


「決まっている。子供は流させろ。産まれてもらっては困る」


 その子供はただの子供ではない。国王の第一子。男子ならば次の国王だ。

 それがどれほどの大罪であるか、秘書はさっと顔を青くした。

 だが、雇い主であるロベール公爵に逆らうことは出来ない。

 今更、拒否したとしたら、それこそ自分の身に何があるかわかったものではない。

 秘書は青ざめながらも、ぎこちなく頷くしかなかった。


 そして、扉の外で中の会話を漏れ聞いていたソフィアは、ただ呆然と立ちつくしていた。


 

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