【完結】閉ざされた神殿の天使
KAI
第一章 神殿を閉ざした男
(1)
――昔。
国王が絶対的な権力を握り始めていた頃。
「グリフィス! グリフィス!」
女の声。とても聞き慣れれている声。
その切羽詰った口調に、男はひどく動揺した。
「グリフィス! お願い。目を開けて!」
彼女はひどく取り乱し、懇願している。
一刻も早く、彼女の元に行かなければ。彼女を守らなければ。
「グリフィス!」
急速な覚醒。
一刻も早く目覚め、彼女を安心させてやりたいと、そう強く思ったから。
だが、呼んでいた女の顔を見た途端、男はなぜ自分がそう思ったのか、まるでわからなくなった。
「グリフィス!」
安堵の表情を浮かべる女の顔を、……男は知らなかった。
「よかった! 心配したのよ。ずっと目を覚まさないから」
印象的な明るい碧の大きな瞳。
小さな顔を縁取るのは、金色の豪華な巻き毛。
泣いているせいか、頬は薔薇色に染まり、薔薇の花弁のような唇は、小さく震えている。
一度会えば忘れるはずもない、可憐な美少女だった。
その美少女が名を呼んで泣いている。
その名が自分の名だということは確かで、国王である自分を名前で呼ぶ存在など限られているのに、グリフィスは彼女を知らなかった。
「グリフィス?」
黙ったまま、顔ばかりじろじろと見ているグリフィスを不審に思ったのだろう。
彼女は男の顔を不安げに覗き込んできた。
「君は誰だ?」
「グリフィス?」
「俺の名を呼ぶ、君はいったい誰だ? 申し訳ないが、俺は君を知らない」
さっと彼女は青ざめた。
「グリフィス。僕がわかりますか?」
ベッドの反対側から、声がかかる。
ようやくグリフィスは、自分がベッドに寝かされていることに気がつく。
ここが自分の寝室だということにも気づき、声をかけてきた男を知っていることに安堵した。
「ユーシス。これは一体何事だ」
ユーシスは同い年の幼馴染。
親友であり、信頼している側近だ。
「それはこれからわかるんですよ。医者を呼んでください」
と、ユーシスは部屋に待機していた侍女に命じると、再び男に視線を向けた。
「あなたは崖から落ちて、ひどく頭を打ったんです。覚えていますか?」
「いいや」
「では、今は何年ですか?」
ユーシスの言いたいことがわかってきて、グリフィスは眉をひそめた。
「俺が即位してから三年目の春だ」
「今は三年目の秋ですよ」
「………」
「空白は半年分のようですね」
ユーシスはベッドを挟んで反対側にいた美少女に視線を向けたようだった。
つられて、グリフィスも彼女に視線を向ける。
紙のように白い顔色になっていた彼女は、グリフィスとユーシスの見ている前で、ふうっと意識を失って倒れていった。
◆
失われた半年間を思い出そうとすると、ひどい頭痛がグリフィスを苦しめた。
医者が言うには、記憶喪失というものはとても不安定なもので、記憶を戻すための確かな手だてはない。一生、記憶は戻らないかもしれないし、明日にもひょっこり戻ったりするかもしれない。
ようするに、記憶が戻るのを待つことしか、グリフィスに出来ることはなかった。
医者にはしばらく静養するように言われたが、寝ていれば記憶が戻るわけでもない。
崖から転落したらしいが、頭に大きなコブができていただけで、体には擦り傷程度。
グリフィスは寝室で一日だけ静養し、翌日には起きだして仕事を始めることにする。
執務室にユーシスを呼び出すと、驚きあきれたような顔をしつつ、ユーシスはこの半年間に処理した書類をまとめて出してくれた。
「俺がすぐに知っておかなければならない、この半年でおきたことはあるのか?」
「運よくありません。外交も内政も、この半年は安定していました。平和だったと言っていいと思います」
「そうか」
グリフィスはほっと安堵する。
なにしろ、記憶はいつどうやって戻るのか、まったくわからない。戻らない可能性だってある。
だが、国王としてこの国のかじ取りをしているグリフィスにとって、半年もの記憶の空白は場合によってはかなり危険だ。
「大丈夫です。王国に関して、どうしても必要な記憶というものはないと思います。書類を見てもらえれば、問題ないでしょう」
幼馴染で親友のユーシスが、そう言ってほほ笑む。
ユーシスはグリフィスと同い年の二十二歳。サザーランド公爵であり、国王を補佐する有力貴族の集まりである元老院の一人でもある。
グリフィスもユーシスには何でも話している。ユーシスが平和だったと言うのなら、間違いはない。
あせって記憶を取り戻す必要はなさそうだと、グリフィスは安心して書類をめくったのだが。
「……ま。ある意味、平和とは言い難かったんですがね」
ぼそぼそっと言ったユーシスに、グリフィスは目をすがめる。
「どういう意味だ? お前、平和だったと」
「平和でしたよ。隣国との関係も良好。国内の貴族達もようやく大人しくなってきましたからね。それであなたは、お忍びで出かけたりしたんでしょうかね。今となっては、その真相も闇の中ですが」
なにやらとても含みのある言い方をするユーシスを、グリフィスはにらみつけた。
「ユーシス。一体、何を隠している。俺が何をしたというんだ」
「それはもう、突拍子もないことを」
「突拍子もないこと?」
「僕があなたに言わなければ、このことは闇に葬られるんじゃないかなぁ。あなたの失われた記憶と共に、なかったことになる。しかし、あなたはいつか記憶を取り戻すだろうと、僕は思っているんですよ。その時に、責められるのはごめんだと思うわけでして」
「一体、何のことだ」
ユーシスは今ひとつ決心がつかないと言わんばかりに、グリフィスから視線をそらしてそっぽを向いた。
「ユーシス」
「……あなたはお忍びで出かけた先で、恋に落ちたんですよ」
言葉を失ったグリフィスの顔を、とても嫌そうに見ながら、ユーシスは話し続ける。
「お相手は、田舎の伯爵令嬢。あなたは彼女を城に連れ帰って、妃にすると公言し、つい先日、婚約したばかりなんです」
「……気は確かか?」
「正気ですよ。だから言ったでしょう、突拍子もないことだと。僕だって、驚いたんですよ」
「ユーシス。俺が記憶喪失だからといって、からかおうとしているのなら」
「残念ながら本当の事ですよ。半年前、あなたは行く先を告げずに王城を一人出て行きました。夜になっても帰らないので、大騒ぎになりましたよ。数日後、あなたからの使者が王城に到着し、田舎の伯爵家にしばらく滞在すると知らせてきました。それから四ヶ月かな、あなたほとんど王城に帰らず、彼女の元にいたんです。で、二ヶ月前、彼女を連れて帰ってきたかと思うと、いきなりの婚約発表だったというわけです」
「………」
「気持ちはわかりますよ。あなたは大の女性嫌いだ。結婚もまだ当分するつもりはないと公言していましたしね」
グリフィスはユーシスの顔を凝視する。
だが、ユーシスは視線をそらさず、グリフィスの厳しい視線を静かに受け止めている。
どうやら、作り話ではないらしい。
グリフィスは小さく息をつき、椅子の背もたれに寄りかかった。
「なかったことになるんなら、それでいいんじゃないか」
と言ったグリフィスを、ユーシスは少し責めるように見てきた。
「それじゃあ、あなたが連れてきた伯爵令嬢はどうなるんです? 彼女にとって、この城で頼れるのはあなただけなんですよ」
「家に帰せ」
「それならそうと、あなたが一度会って彼女に直接言うべきでしょう」
「冗談じゃない」
グリフィスはせせら笑う。
「どうせ財産目当てだろう? どうして俺が田舎の伯爵令嬢なんかに、恋をしたのかは知らないが、ようやく目が覚めたということじゃないか。お前が教えなければ闇に葬られるということは、元老院も俺と同じ意見なんだろう? その令嬢は王妃にはふさわしくないと、そう判断されたわけだ。丁度いいじゃないか。追い出せ」
グリフィスは吐き捨てるように、そう言い切った。
記憶がないとはいえ、くだらない女に惚れ込んで馬鹿な振る舞いをした自分が、ひどく恥ずかしくもあり腹立たしくもある。
そんな過去は、さっさとなかったことにしてしまいたい。
「そう言い切れるもんじゃないですよ。元老院がロベール家の令嬢をあなたの妃にと思っているのは、ご存じでしょう? それ以外の令嬢なら、誰でも文句を付けると思いますからね。それに、あなたが令嬢を城に連れ帰ってから、まだ二ヶ月もたっていないんです。この城の者達は、ほとんどが彼女とは話しもしたことがない。僕もですよ」
「お前まで? 二ヶ月もいて?」
「僕はあなたの分も仕事をして、先週まで隣国に出かけていて留守だったんです。侍従や貴族たちの話では、あなたは彼女を部屋に閉じこめて、独占するかのごとくだったそうで。誰の目にも触れさせないと言わんばかりの態度で、朝から晩まで、ほとんど彼女と部屋に閉じこもりきりで。婚約中だというのに、すでに新婚同然だったと」
「ユーシス」
「そう怖い顔をしないでくださいよ。本当のことなんですから」
くすくすと笑うユーシスを、グリフィスはにらみつける。
「本当に俺のことなのか?」
笑いながらも、ユーシスはしっかりと頷いた。
「信じられない気持ちもわかりますが、あなたは彼女を、それはもう熱烈に愛していたんですよ」
ますます、自分の過去ではない気がして、グリフィスは顔をしかめた。
「記憶を失ったとはいえ、彼女はあなたが責任を持ってこの城に連れてきたんです。追い帰すならそれでも結構ですが、きちんと責任を持ってするべきでしょう。一度、きちんと会ってください」
ユーシスの言うことはわかる。
しかし、グリフィスはその女に会いたくなかった。
自分の過去の過ちに、喜んでご対面したいと思う人間などいるわけがない。
「向こうからも、あなたが落ち着いたらお会いしたいという話も聞いています」
「俺はそんな話、聞いていない」
「あなたの耳に入る前に、誰かが握りつぶしているからですよ。元老院は勿論のこと、主立った貴族たちはあなたの突然の婚約に反対でした。特に、妙齢の令嬢がいる貴族の間ではね。しかも、あなたの連れてきた伯爵令嬢にはきちんとした後ろ盾など、まるでないのですから。この城の中で、孤立無援状態なんですよ。非常に気の毒です」
「………」
「追い帰すなり、このまま城に置いておくなり、あなたがはっきりさせないといけません」
ユーシスの言うことはもっともだ。
苛立たしくにらむグリフィスを、ユーシスは涼しい顔で見返してくる。
嫌味な男だが、国王のグリフィスに、ここまで率直に意見を言ってくれる信頼できる家臣は、ユーシスの他にはいない。
グリフィスはいつも、ユーシスの意見を尊重するようにしてきた。
「わかった。会おう」
「そうしてください」
「名前は?」
「ミシェル・ヴァロア伯爵令嬢。ブロンドに緑の瞳の美少女ですよ。十八だったかな。一度会ってますが、覚えてませんか?」
「………」
ブロンドに緑の瞳と聞いて、最初に思い浮かんだのは、あの時の蒼白な顔だった。
悲痛な顔でグリフィスの名を何度も呼んでいた、あの時の。
「すぐに連絡しましょう。あちらは喜んですぐにでも会いたいと言うでしょうしね」
にこにことそう言って、執務室を出ていくユーシスを、グリフィスは黙って見送る。
会いたくなかった。
とても嫌な予感がする。
このまま会わずに、追い帰したほうがいいと、心のどこかが忠告している。
しかし、ユーシスの言うとおり、会わずに済ますわけにはいかないだろう。
(……大丈夫だ)
同じ過ちを二度繰り返すような、愚か者ではないはずなのだから。
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