(2)
数日後。
グリフィスが案内された部屋は、城の東棟の奥にある、ごく質素な部屋。田舎貴族の娘が滞在するのに相応しい部屋だった。
ここならば、訪れようと意識して来なければ、城の廊下でばったり会うなどということもない。それぐらい、城の片隅の部屋だった。
ミシェル・ヴァロアは、部屋に入ってきたグリフィスの顔を見て、泣き出してしまうかのかと思わせるほど、瞳を潤ませた。
しかし、涙はこぼさずに、グリフィスに向かって丁寧に腰を折って挨拶してきた。
「はじめまして、国王陛下。ミシェル・ヴァロアと申します」
泣いてすがりついてくるか、なれなれしい態度で懇願されるか、どちらかだろうと思っていたグリフィスは、ミシェルの態度に少しばかり驚いた。
ミシェルの態度は、田舎貴族の娘が国王に初めて会う態度以上でも、それ以下でもなかった。
「……顔を上げろ」
グリフィスの投げやりで面倒くさそうな口調にも、ミシェルは気にする風もなく、言われたとおりに顔を上げてグリフィスを見上げてきた。
大きな緑の瞳と、豊かな金色の髪が、魅力的といえば魅力的だった。
小柄で華奢な体つき。しかし、体の曲線は立派な女性のものだ。
十分に大人の女なのかもしれないが、まだ子供である部分も多くあるように思えた。
そんな境界線の美しさが、ミシェルにはあった。
「婚約は解消する。実家に帰るように」
「……はい」
「私の記憶が戻ったら、また呼び寄せられるなどとは思わないように。この半年、何があったのか知らないが、気が狂っていたとしか思えない。もう目が覚めた」
言葉はなく、ミシェルはただ瞳を少し大きく見開いてグリフィスを見た。
やはり、記憶が戻るのを期待していたのだろう。二度も過ちを犯すほど馬鹿ではないと、グリフィスは心の内で毒づく。
「帰りの費用と、慰謝料を用意しよう。それで帰れ」
さっと青ざめ、唇を震わせたミシェルは、頷くように頭を下げた。
「お気遣いありがとうございます、陛下。でも、私は何も頂くつもりはございません。もう十分に頂きましたから」
女に貢ぐなどという、もっとも愚かしい行為を平然と行っていたのだと、グリフィスは暗澹たる気分になった。
自分の馬鹿さ加減には、本当に腹が立つ。記憶を失ったのは偶然などではなく、失いかけていた理性がそうさせたのだとしか思えない。
「これを、お返しします」
差し出された指輪を受け取って確認し、グリフィスはため息をもらしてしまった。
王家の紋章入りのこの指輪は、代々の王妃に受け継がれている由緒正しい品だ。
これほど重要で高価な、二つとない品を、恋に目がくらんで渡していたとは。
「実家は遠いのか」
「はい。お城に来たのは、生まれて初めてでした」
「今回のことは、縁談に響かないとは思うが。婚約者はいたのか?」
「はい」
ミシェルは小さく頷いた。
当然だろう。田舎貴族とはいえ、貴族の端に名を連ねる者ならば、十八で縁談がないなどということのほうがおかしい。
「必要なら、私の方からその元婚約者に手紙を書こう」
「ありがとうございます。でも、そのようなお気遣いは必要ありません」
「そうか」
他の男ならともかく、他でもない国王の手がついた女なら、貴族の男は歓迎して妻にむかえるはず。
ほんの一時とはいえ、グリフィスと婚約していたことは、彼女にとってマイナスになるとは思えなかった。
「今回のことは、夢でも見たと諦めてくれ」
と、グリフィスは彼女に背を向けた。
これで終わりだと、ほっとする。
ミシェルの大きな緑の瞳を見つめられていると、訳もなく胸がざわめく。
それは、とても不快な感じだった。
「陛下! お待ちください!」
ミシェルの声ではない、男の声がグリフィスを引き留めた。
振り向くと、ミシェルの隣に若い男が立っていた。
若いといっても、グリフィスよりは年上だ。二十代後半ぐらいだろうか。
琥珀の瞳が印象的な男は、グリフィスが振り返るとすぐ床に膝をつく。
だが、その琥珀の目はグリフィスをまっすぐに見ていた。
「誰だ」
「出過ぎた真似をお許しください。私はヴァロア家の執事をしております、エマニエルと申します。陛下、今、ミシェル様に実家に帰れとおっしゃるのはあまりにも無慈悲かと思います」
「エル!」
ミシェルが驚いて声を上げ、慌ててエマニエルを押しとどめた。
「どういう意味だ」
「ミシェル様のご実家は、現在、改築中でございます。父上のヴァロア伯爵も母上も、長期の旅行にでられており、屋敷にはミシェル様を迎えてくれる者は一人もおりません」
「エル、お願い、やめて」
「改築中だと?」
「恐れながら、陛下がお命じになった事でございます」
記憶を失ったことを、グリフィスは神に感謝した。
大切な指輪を渡し、さらには女の実家までわざわざ改築させているとは。気が狂っていたとしか思えない。
「……改築はいつ終わる予定なんだ」
「春でございます」
「わかった。それまで、ここに滞在するといい」
仕方がない。
忘れているとはいえ、自分のしでかしたことだ。責任をとる必要がある。
それに、この部屋ならば、会おうと思わない限り、彼女に会うこともない。
「陛下。とてもありがたいことですけれど、やはりこれ以上、お世話になることは出来ません」
どういうつもりなのか、ミシェルが頭を下げてくる。
「構わない。ここにいろ」
「ですが」
「住む家もないのに、追い帰したと言われれば外聞も悪い」
「はい……」
なぜ、出ていきたいというミシェルを、引き留めるはめになるのか。グリフィスは深いため息をつく。
よっぽど嫌そうな顔をしていたのだろう。ミシェルは悲しげに目を伏せて、うつむいた。
こちらが仕方なしに滞在を許したことをわかってもらえているのは、いいことだ。
愛しているからとか、そんな馬鹿げた理由ではないことを理解しているのなら、うぬぼれたりつけあがったりしないだろう。
グリフィスは今度こそ、ミシェルに背を向けて部屋を出る。
扉を閉ざしてから、一度深く息をついた。
ミシェルの緑の瞳は、なぜかグリフィスを動揺させた。
悲しげな瞳を見ていたくないと思った自分の感情にフタをすると、グリフィスは誰もいない静かな廊下を歩き出した。
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