第二章 閉じ込められた天使
(1)
国王グリフィスの記憶喪失が明らかになるとすぐ、ミシェルの部屋は城の奥まった一角に移された。
それまでは王妃同然に扱われ、贅沢を極めた部屋で生活していたのだが、グリフィスの記憶喪失と共に、ミシェルへの対応は手のひらを返すように変化した。
だが、ミシェル自身はそのことについて、ほとんど気にしていなかった。
どちらかというと、質素な今の部屋のほうが、落ち着くぐらいで居心地がいい。
伯爵令嬢とはいえ、内実は貧しい地方領主の娘。
村の娘と違っているのは、野良仕事をしないということぐらいだが、ミシェルは趣味で園芸をするので、土にまみれて働くことをなんとも思っていなかった。
そんなミシェルが、きらびやかで優雅な王宮生活になじめるわけもなく。
今のように、城の片隅で貴族達からは忘れられて静かに生活するほうが、何倍も性に合っていた。
なので、今の状況には安堵するぐらいで、ひがんだりする気持ちは欠片もない。
困っているのは、ただ一つ。
グリフィスに会えなくなってしまったことだけだった。
だがそれも、グリフィスが記憶を失って一週間ほどたってようやく、ミシェルはグリフィスと会えることになった。
何度もグリフィスに面会の申し出をしてくれていた執事のエルは、安堵の表情を隠せない様子だった。
これで、ミシェルに対する扱いも改善されるのではないかと、エルは喜んでいたが、ミシェルは記憶のないグリフィスと会うことに、一抹の不安を覚えていた。
王城に来て初めて、ミシェルは自分と出会う以前のグリフィスについて知った。
極端な女嫌い。時には、平然と女性を罵倒するようなこともある。
結婚は遅ければ遅いほうがいいと公言し、それも跡継ぎをもうけるためだと割り切っている。
あれほど自分を愛していると言い、何があっても正々堂々と君を手に入れると言い張っていたグリフィスが、同じ口で政略結婚をするのが当たり前だと話していたなんて、ミシェルには信じられなかった。
ミシェルが知っているグリフィスは、情熱的で嵐のように自分を求めてくる恋人だった。
だが、王城でのグリフィスは、どこか冷笑的で割り切ったものの見方をする、冷酷な国王としての横顔だけしか見えてこない。
(……私、政略結婚に相応しい相手じゃない)
自分との結婚で、グリフィスが得る物はなにもない。逆に、有力貴族達の反感を買うだけのことだ。
そして、政略結婚するのが当たり前だという考えの国王グリフィスが、今、そんなミシェルとの婚約をどう思っているのか。
ミシェルには不安しかなかった。
◆
約束の時間、部屋に入ってきたグリフィスを見て、ミシェルは喜びに胸が震えるのを感じていた。
一週間会えなかっただけ。だがその一週間ほど、グリフィスに会いたいと強く願ったことはなかっただろう。
しなやかで鞭のような、細身でありながら逞しい体格に、男らしく精悍な美貌。
艶のある黒髪に、知的な青い瞳。
通り過ぎる人、ほとんど全員を振り向かせる、圧倒的な魅力がグリフィスにはある。
初めて会ったときから、ミシェルもグリフィスに魅かれていた。
ミシェルは恋しい思いを抑えきれず、衝動的にグリフィスに駆け寄ろうとした。
だが、グリフィスと目と目が合い、ミシェルは足を止める。
いつも優しく細められ、愛しくてしかたがないというように見つめてくれていた青い瞳は、今は値踏みするかのようにミシェルを観察していた。
こちらが照れてしまうほど何度も何度も愛の言葉を囁いてくれた唇も、今は厳しく引き結ばれている。
これほど険しい表情のグリフィスは初めてで、ミシェルは一気に緊張した。
「初めまして、国王陛下。ミシェル・ヴァロアと申します」
ミシェルはグリフィスの前で、自分に出来る精一杯の挨拶をした。
「顔を上げろ」
こんな冷たい話し方も出来る人なのだと、初めて知った。
国王という地位にふさわしい、威厳に満ちた声と話し方。
顔を上げたミシェルの前に立っていたのは、若いながらも堂々とした、この国の最高権力者だった。
「婚約は解消する。実家に帰るように」
「はい」
命令することに慣れた、反論を許さない国王の言葉に、ミシェルは頷くことしか出来なかった。
「私の記憶が戻ったら、また呼び寄せられるなどと思わないように。この半年、何があったのか知らないが、気が狂っていたとしか思えない。もう目が覚めた」
(気が狂っていた?)
ミシェルは、その言葉に、耳を疑った。
愛し合っていたのに。
誰よりも愛していると、こんなに好きになった人はいないと、いつも言ってくれていたのに。
二人にとって何より大切な思いと時間を、狂っていたという言葉で、完全否定された。
ミシェルはその衝撃に、目の奥がじんわりと熱くなっていくのを感じていた。
「帰りの費用と、慰謝料を用意しよう。それで帰れ」
お金目当ての女だと、思われているのだろうか。
王宮の誰もがそう思っているように、今のグリフィスも思っているのだ。
お金目当てではないと、否定する意味も込めて、ミシェルは慰謝料をきっぱりと断った。
そして、婚約をしたとき、指にはめてもらった指輪を外し、グリフィスに差し出す。
「これをお返しします」
受け取ったグリフィスは、それがなんの指輪か確認し、途端にとても嫌な顔になった。
大切な指輪を一時でもミシェルのような女に渡していたことが信じられないといわんばかりに顔をしかめ、乱暴に胸ポケットにしまい込む。
代々受け継がれてきた、とても由緒正しい指輪なのだと、グリフィスは話してくれた。
指輪をはめてくれたとき、グリフィスはとても嬉しそうだったし、これで正式な婚約だと、満足していた。
だが、今はとても腹を立てている。
記憶を失い、愛し合った記憶をなくしてしまったのだということは、よくわかっている。
もう、愛されていないということも、ちゃんと覚悟していたつもりだった。
だが、愛されていないだけではなく、どうやら嫌われ蔑まれている。
お金目当ての女に、騙されたと思っているからだろうか。
そんなはずないのに。
どちらかというと、結婚を強く求めたのはグリフィスのほうだったのに。
情熱的に求められて、いつもいつも彼の熱い思いに翻弄されてきた。
ベッドの中では勿論のこと、結婚したいというグリフィスの願いにも、城に来て欲しいという懇願にも、グリフィスの熱い思いに触れて、グリフィスに頼っていいのだと思えて、ミシェルはここまで来れたというのに。
「今回のことは、夢でも見たと諦めてくれ」
狂っていたと全否定し、夢を見ていたと片付ける。
二人の馴れ初めを聞くわけでもなく、ミシェルがどんな人物か知ろうとするわけでもなく。
完全な拒否を前に、ミシェルは黙ってグリフィスの顔を見つめることしか出来なかった。
だが、グリフィスは、言うことは言ったという態度で、さっさとミシェルに背を向ける。
本当に、これで、これだけで、全て終わりなのだと、ミシェルは呆然とした。
確かに、夢のようだった。
グリフィスとの半年間は、本当に夢のようだった。
(……夢はいつか覚めてしまうものなの?)
「陛下! お待ちください!」
帰ろうとしたグリフィスを引き留めたのは、エルだった。
「ミシェル様のご実家は、現在、改築中でございます。父上のヴァロア伯爵も母上も、長期の旅行にでられており、屋敷にはミシェル様を迎えてくれる者は一人もおりません」
「エル、お願い、やめて」
「改築中だと?」
心底嫌そうなグリフィスの顔が、ミシェルをちらりと見た。
体よく厄介払いが出来ると思ったのに、それが土壇場でふいになってしまったことに腹を立てている。そんな感じの顔だった。
「恐れながら、陛下がお命じになった事でございます」
わかっているのかいないのか、エルがそんなグリフィスの嫌悪感に油を注ぐようなことを言った。
予想どおり、グリフィスは舌打ちでもしたそうに、顔をしかめる。
老朽化した伯爵邸を、丁度いい機会だから改築しようと言ったのは、グリフィスだった。
そして、屋敷が新しくなった春に、結婚式をあげようと。
なぜ急にそんな事を言いだしたのか不思議だったが、城に来て婚約をすませた夜に、グリフィスはその理由を打ち明けた。
ミシェルの帰る場所を一時的にでも無くしてしまいたかったのだと。
そうすれば、ミシェルが城に来てどれほど帰りたいと願っても、帰る場所がないので思いとどまるだろうと。
『ずっと俺の側にいてくれ、ミミ』と、そう囁いたグリフィスは、今、自分の過去を激しく後悔しているようだった。
「改築はいつ終わる予定なんだ」
「春でございます」
「わかった。それまで、ここに滞在するといい」
「陛下。とてもありがたいことですけれど、やはりこれ以上、お世話になることは出来ません」
「構わない。ここにいろ」
「ですが」
「住む家もないのに、追い返したと言われれば外聞も悪い」
「はい……」
体面を考えろと、厳しく批判されたように感じ、ミシェルはうつむく。
ちゃんと国としての視野で考えているグリフィスと、個人的な気持ちしか考えていない自分との差を見せ付けられたような気がして、とても恥ずかしかった。
謝ろうと顔を上げると、もうグリフィスは部屋を出ていこうとドアを開けているところだった。
そしてそのまま、一度も振り返ることもなく、部屋を出て行ってしまう。
行き場を失った謝罪は、ミシェルの深いため息になった。
「出過ぎた真似をしまして、申し訳ありませんでした」
すぐにエルが頭を下げてくる。
「ううん。いいのよ」
本心をさぐるようなエルの視線に、ミシェルは無理にでも微笑を浮かべてみせた。
「本当よ。だって、おかげでグリフィスの側にいれるんですもの。この部屋からだと、遠く後ろ姿ぐらいしか見れないのが悲しいけれど」
発想の転換も必要だと、ミシェルは自分に言い聞かせた。
ここにいれば、グリフィスから自分は見えない。グリフィスの心を煩わすこともないだろう。
婚約していた過去を狂っていたと表現したグリフィスは、間違いなく婚約したことを後悔しているのだから、そのほうがいい。
自分からはグリフィスの姿を見ることが出来る。
誰よりも愛しい人の姿を、遠くからでも見ていることが出来る。
そして、グリフィスの記憶が戻るまでは、小さな希望の光を心の中にともしておける。
記憶が戻ったら、もしかしたら以前のように愛し合えるかもしれないという、小さな光を。
その光があれば、この広い城の中でも、一人で生きていけそうな気がした。
「あの時のことを、お話しそこねましたね」
エルの言葉に、ミシェルは首を横に振った。
「いいのよ。私は話すつもりもなかったわ」
「何をおっしゃいますか。あなたは命を狙われているかもしれないんですよ」
グリフィスが記憶を失ったのは、ミシェルに向かって飛んできた矢から、ミシェルを守るためだった。
ミシェルを抱きかかえて、勢いよく体を投げ出したグリフィスは、その勢いのまま、崖の下に転落してしまったのだ。
そのことを知っているのは、その場にいた、ミシェルとエルだけだった。
勿論、事情をきちんと話したが、グリフィスの耳に入っているかは非常に疑わしい。
会いたいという申し出が握りつぶされたように、きっとグリフィスの元まで届いていないだろう。
「狙われているとしたら、その理由は一つだけでしょ。私みたいな女を、王妃にしたくないからよ」
反論しかけたエルに、ミシェルは小さく笑ってみせる。
「でも、今はその理由がなくなったわ。グリフィスは、婚約を破棄すると明言したもの。もう、狙われることはないはずよ」
「記憶はいつか戻るかもしれません」
「そうね」
記憶が戻れば、ミシェルが婚約者に戻る可能性がある。
暗殺者は、その可能性を見落としたりしないかもしれない。
そうなれば、王妃同然の扱いをされていた以前より、護衛もいない現在のほうが、ミシェルはずっと暗殺しやすく、その危険は増しているのかもしれない。
「グリフィスをこれ以上、煩わせたくないの」
これほど疎んじられているのに。
ミシェルの存在など、なかったことにしたいと思っている人に、助けを請うことなど出来ない。
そして、煩わしい問題を持ち込んで、これ以上、グリフィスに嫌われたりしたくなかった。
「ちゃんと気をつけるから。大丈夫よ、エル」
そんな女主人の心境を理解しているのだろう。
エルは、心配をすべて飲み込んで、ただ頷いてくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます