(3)


 その日の夜遅く。

 夕食の後、執事のエルは、別荘番夫妻の居間でワイングラスを渡されていた。

 この場にミシェルはいない。エルは一人用の肘掛け椅子に座り、正面の長椅子にはデイナとロイが仲良く並んで座っている。

 エルとしては来たくなかったのだが、元主人の命令には逆らえない。

 身に付いてしまった執事根性が、それを許さないのだ。


「ユーシスから大体の事情は聞いてるけど、あなたの口から詳しく聞きたいのよ」


 デイナの話し方は、誰かに命令することに慣れている人のもの。

 そして、エルは誰かに命令されることに慣れてしまっている。やはり、逆らえない。


「私がお話出来るようなことは多くありません」

「そんなはずないでしょ。それじゃ、こちらから聞くわ。陛下とミシェル様は、どうやって出会ったの?」

「おいおい、デイナ」


 大貴族のお嬢様という態度の妻を、ロイが軽くたしなめた。

 なだめるように、デイナの手の甲を軽くなで、栗色の髪を指に絡めて軽く引く。


「公爵様からの手紙では、お二人は別れてしまったんだろ。ミシェル様はとても悲しそうな目をしていらっしゃる。今はお慰めしてさしあげるのが一番なんじゃないかい?」

「でも、ロイ」

「今のミシェル様は、強く押したら壊れてしまいそうな風情だよ。少し、そっとしておいてあげたほうがいい」


 エルは、デイナの夫ロイのことを、全くと言っていいほど知らなかったのだが、即座に彼を尊敬した。

 一目でミシェルの状態をわかってくれたことは勿論だが、あのデイナを優しく諭すような口調と笑顔だけで、完全に黙らせたのだから。

 普通の男に出来ることではない。さすが、あのデイナの夫になれる人だと、一種の感動を覚えた。


「そうね。あなたの言うとおりかもしれないわ、ロイ」


 なんだか少しすねた子供のような顔で、デイナがロイに訴えかける。


「でもね、私、ユーシスの気持ちもよくわかるのよ。陛下には、こう言っては失礼かもしれないけど、幸せになっていただきたいわ。そのためには、ミシェル様が必要なんじゃないかと思うのよ。だって、陛下が初めて求められた女性が、ミシェル様なんですもの」

「デイナ。陛下は今もまだ記憶喪失中なんだよ。病人なんだ。記憶が戻ってからじゃないと」

「でもきっと、今だってミシェル様をお好きなんだと思うわ。陛下は、記憶を失ったぐらいで無くしてしまうような恋はしないと思うの。ロイ、あなただって記憶を失ったって、また私を愛してくれるでしょう?」

「当たり前だろう」


 すっかり二人きりの世界を作っている夫婦を見かねて、エルはごほんとわざとらしい咳払いをした。


「公爵様は、ミシェル様に王城に戻るよう、説得してほしいとおっしゃっているのですか?」

「そこまではっきりとは言ってきてないわ」


 まるでいい雰囲気を邪魔してくれたと言わんばかりの目でエルをにらみながら、デイナが答える。

 見ているエルが悪いと言わんばかりの態度のデイナに、ロイが小さく苦笑していた。


「でも、この別荘に来させたことで、私には十分だわ。お二人がなぜ別れてしまったのか知らないけれど、記憶を失う前の状態に戻せるように努力するつもりよ」

「デイナ様」


 疲れたようにエルは大きく息をつき、肩を落とした。


「はっきり申し上げますが、私は反対です」

「反対って、なによ。ミシェル様が王城に帰ることに反対だと言うの?」

「その通りです」

「執事のくせに主人の幸せを願わないっていうの?!」


 怒って立ち上がったデイナを、ロイが引きとめる。


「デイナ。君は話が早すぎるよ。それに、エルは君の執事ではなく、ミシェル様の執事なんだ。頭ごなしの命令はいけない」


 デイナを止めてくれたロイに感謝の視線を向け、エルはほっと息をついた。

 いつもこんな感じでデイナのペースに巻き込まれ、厄介ごとを背負う羽目になっていたエルは、再び心からロイを尊敬した。

 そのロイがエルに向き直り、口を開く。


「エル、だからといって、デイナの話がすべて偽りだということもないんだ。実際、ユーシス様がミシェル様をここにお寄越しになったのは、ここにデイナがいるからだと俺は思っている。そうでなければ、俺達のことでごたついているこの別荘を、わざわざ選ばれるとは思えないからね」


 やっぱりごたついているのかと、エルは思ったが口には出さなかった。


「デイナなら、今のミシェル様に適切なアドバイスが出来るかもしれない。そして、デイナはそうしたいと思っているんだ。勿論、俺も微力ながら協力したいと思っている」

「………」

「よかったら、君の意見を聞いておきたい。お二人が出会った頃から、君はずっとミシェル様にお仕えしてきたんだろう?」


 まっすぐに見つめてくるロイの黒い瞳は、エルに『悪いようにはしない。君を信頼している』と訴えかけてきている。

 そして、エルはロイのことをまだほとんど知らないというのに、ロイを信頼してもいいんじゃないかと思えてきてしまっていた。

 ずっと胸の奥に閉じこめてきたことを、打ち明けてもいいんじゃないかと、根拠もなく思えていた。


「君がミシェル様を王城にお帰しすることに反対するのは、なぜなのかな」


 エルは、ふうと息をついてから、話し出した。


「ミシェル様は、気だてのいい、善良な方です。ミシェル様にお仕えすることに、私は何の不満もありません。ですが、この国の王妃にふさわしい方かと聞かれれば、それはまた別の問題だとお答えするでしょう」


 それだけでエルの言いたいことを察し、デイナとロイは黙り込んだ。


「とても頭のよい方です。お父上のヴァロア伯爵様はとても博学な方で、ミシェル様も幼少の頃より学問をされていました。私などよりよっぽど学問には通じていらっしゃいます。ですが、政治、権力闘争、宮中の争い、そういったものには無縁な方です。物欲も権力欲も薄く、田舎の小さな貴族出身のミシェル様には、王宮で貴族達が争っている中に飛び込んで生き残れるような、そういった意味での強さがないと思うのです」


 しゃべりすぎていることを、エルは自覚していたが、一度話し出してしまうと、もう止められなかった。


「お二人はとても愛し合われていました。それはもう、誰にでも胸を張って証言できます。しかし、あまりにも陳腐な言いぐさですが、お二人の住む世界は違いすぎました。国王陛下も、それはよくおわかりだったと思います。わかっていても、ミシェル様を手放せなかった。そんな感じにお見受けしました。王城にお二人が帰られた後、陛下は全身全霊でミシェル様を守っておられました。『王妃』という立場から、ミシェル様を守っておられた。ですが、そんなことはいつまでも続きません。王妃がいつまでたっても城の奥から姿を見せず、外交の席にも現れずでは、誰も納得しません。記憶を失う前、陛下はかなりお疲れのご様子でした。ミシェル様を守ることに、限界を感じられていたのではないでしょうか」


 手にしていたワイングラスの中身を一気にあおると、エルはため息をもらす。


「……今のは執事ではなく一個人の戯言です。どうぞ、お聞き捨て下さい」

「馬鹿ね。あんたの言ってることは正しいわよ」


 むっとしたように眉を上げ、デイナが即座に答える。


「申し訳ありません。話しすぎました。これぐらいでご勘弁ください」


 執事とは、本来、主人のプライベートについては絶対の秘密を守ることが義務なのだ。

 その大切な掟を破ってしまった罪悪感に加え、ずっと自分の心に閉まって置いた本音を話してしまった爽快感に対する自己嫌悪に、エルは一礼すると別荘番夫婦の居間を辞去した。




 エルが断固とした態度で部屋を去って、しばらく二人は無言だった。

 その沈黙を破るように、デイナがそっとつぶやいた。


「どう思う?」

「難しいね」

「そうね」

「愛し合っているだけでは解決しない問題はたくさんある。国王陛下ならば、たくさんでは済まないぐらいだ」

「ねえ。もしかして、陛下が未だに記憶を取り戻さないのは、思い出したくないからなのかしら。ミシェル様を、諦めてしまったからなのかしら」


 ロイはすぐには答えず、少し不安そうに自分を見上げてくるデイナの頬を、指先でそっとなでた。


「それはわからない。限界を感じていたという、エルの言葉は間違っていないかもしれないけれど、忘れてしまえばいいというのは、あまりにも無責任じゃないかな。陛下がそんなことをするとは思えない」

「そうよね」


 デイナはロイの肩に自分の額を押し当てて、逞しい胸に寄りかかった。

 すぐに背中を優しくなでてくれる大きな手の感触に、ほっと安堵の吐息を漏らす。


「これから、どうするつもりだい、奥さん」


 からかうような、ロイの低い声に、デイナは口元に微笑を浮かべる。


「あなたの言うとおり、しばらくはミシェル様の様子を見ているわ」

「それで?」

「それでもし、ミシェル様が本当に陛下を愛しておられるのなら、私がミシェル様は王妃にふさわしいと思ったなら、ミシェル様には王妃になっていただくわ」


 ロイが声を押し殺しながら笑っている。


「随分、簡単に言うね」

「あら、簡単よ。私だって、ちゃんとあなたの妻になれたわ」

「デイナ。君は俺の妻になるために、たくさんの物を捨てた。だが、ミシェル様は捨てるのではなく、手に入れなければならない。どちらが難しいか、言うまでもないことだと思うよ。勿論、君が俺のためにしてくれたことが簡単だったと言っているわけではないけれどね」


 今度はデイナが笑いながら、ロイの胸から顔を上げる。

 グリフィスのように人目を引く美形というわけではないけれど、十分に整って男らしい夫の顔に、優しくキスをする。


「お馬鹿さんなロイ。私は何も捨てたつもりなんてないわ。ミシェル様だって、何も手に入れる必要なんてないの。ただ、ちょっと変わるだけよ。相手にあわせて、新しい環境にあわせて、自分をちょっと変えるだけ」

「なるほど。だが、その『ちょっと変える』のは結構、難しいんじゃないかな。君には出来たけど、ミシェル様にはどうかな」


 デイナは、わざとらしく目を見張って見せた。


「まあ、あなたって、本当にお馬鹿さんね」


 そして、にっこりと微笑んだ。

 愛しくて仕方がないというように、とびきりに甘く。


「女はね、いくらでも変われるのよ。愛している男のためならね」


 

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