(2)
午後、せっせとパイ生地をこねるミシェルを、デイナは少し不安そうに見ていた。
生地をのばすために使う大きな石の台をミシェルが持つと、慌てて奪い取るし、ミシェルがつまずきそうになると悲鳴をあげる。
大きな秤を奪い取られた時点で、ミシェルは腰に両手をおき、深いため息をついた。
「デイナさん。何度も言いますけど、懐妊はありません」
対するデイナも、きっとなってミシェルに向き直る。
「まだわからないじゃないですか。月のものはまだなんでしょう?」
「遅れているだけです」
「そんなこと、わからないでしょう。全く身に覚えがないのならともかく」
それを言われると、ミシェルには反論できない。
口ごもると、デイナはそれみたことかという顔で、睨んでくる。
「大切にしてください。男子なら、次の国王陛下になられるかもしれないのですから」
小さくうなづいて、ミシェルはパイ作りの作業に戻った。
確証があるわけではないが、ミシェルにはどうしても自分が子を宿しているとは思えないでいた。
それに、実家の母は、弟を宿していたとき、かなり苦しんでいた記憶がある。
まだお腹が膨らんでいない時も、毎日のように嘔吐し、ひどく痩せてしまっていた。
父伯爵は、ミシェルを産むときもひどい難産で、そのためにしばらく間をあけて、弟をもうけたのだと話していた。
だが、ミシェルは食欲こそあまりないが、特に嘔吐することもない。
食欲がないのは、グリフィスのことや、今後のことに強い不安のせいだと思えた。
(でも、もし……)
もし、本当に懐妊していたら。
もし、懐妊したことをグリフィスが知ったら。
子供を利用して、王妃になろうとしていると誤解されそうな気がする。愛していると伝えても、信じてもらえないかもしれない。
グリフィスが怒り狂う姿が、目に見えるようだ。
お前の目的はこれだったのかと、罵倒するグリフィスの姿が。
ミシェルは震える瞼を閉ざし、弱気になってしまう自分を戒める。
(彼の子供を産めるなんて、これ以上の幸せはないわ。それに、この子のためなら、私はもっと強くなれるはず)
「ミシェル様。ちょっと行って来ますね」
そう言い残して、デイナが慌てた様子でキッチンを出て行った。
どうやら、考えことに没頭して、周囲が見えなくなっていたらしい。
「ロイ様に呼ばれたんです」
呆然としているミシェルに、パイ作りを手伝っているエレイナが説明してくれた。
「あとはもう、仕上げだけですから」
「あ、そうね」
ほうと、ミシェルは息をつく。
今どれほど悩んだとしても、答えの出ない問題だ。
この問題はとりあえず棚上げして、もっと重要なことを考えたい。
今、大切なのは、グリフィスに会って誤解を解くこと。
記憶喪失になってからの自分の態度について、釈明すること。
グリフィスはきっと傷ついている。
だからあそこまで頑なだったのだと、ミシェルは思っていた。
「ミシェル様は、王妃になりたいんですか?」
驚いて、ミシェルはエレイナの顔を見返した。
エレイナは真剣な顔で、パイの生地を広げている。
そして、ミシェルが見つめても、視線を返そうとはしなかった。
「王妃になりたいわけじゃないわ。ただ、グリフィスの側に居たいだけ」
「それなら、愛人になるという手段もあるじゃないですか」
エレイナの口調は淡々としている。
ミシェルを非難しているわけではなさそうだった。
使用人が主人に立ち入った質問をしてくるのは、許されることではない。
有能なエレイナは、いつもミシェルとの間には、きちんと線を引いて接してくる。
だが長い間一緒にいて、年齢も近く、エレイナを友達のように思っていたミシェルは、個人的な質問が嬉しかった。
「愛人はどうかしら。それに、グリフィスは以前言っていたわ。たくさんの女性を妻にするほど、自分は器用ではないって」
「……私、以前、少しだけですが、前王妃様のお世話をしていたことがあるんです」
「まあ! そうだったの。知らなかったわ。そういえば、エレイナはサザーラント公爵様の遠縁なのよね。前の王妃様はサザーラント公爵様のお姉さまだったから、その関係で?」
ようやく、エレイナが顔を上げ、ミシェルと目を合わせた。
「ミシェル様。王妃という地位は、人をおかしくさせます。それぐらい、大きな権力があるんです」
「エレイナ?」
ミシェルの手を取らんばかりに近づき、エレイナは訴えかけるように話し出した。
「イザベラ様は、それはもうお美しい方でした。社交界の花形で、あの方の周りはいつも華やかで。私のような者にも気をかけてくださるような、お優しい方でした。私の憧れの方で……。それなのに、王妃になられて、イザベラ様は変わってしまったのです」
「…………」
「ミシェル様、どうか、王妃になろうとお考えになるのはやめてください。このまま実家に帰られたほうが、絶対にミシェル様は幸せになれます。私は、ミシェル様が好きなんです。ですからどうぞ」
必死な様子で訴えてくるエレイナに、ミシェルは戸惑いを隠せなかった。
ミシェルが知っているのは、イザベラが前国王に嫁ぎ、国王の外戚となったサザーラント公爵家が絶大な権力を握ったということだけだ。
国王は病死。イザベラ王妃も後を追うように病死し、前サザーラント公爵は失意の中で自殺したと、デイナから聞いている。
当然、政略結婚で、イザベラと前国王は親子ほどの年の差があった。
しかも、イザベラはグリフィスの花嫁になることを望んでいたという。
そんなイザベラが、結婚後どう変わったのか、ミシェルには想像することしか出来ない。
ミシェルは言葉を選び、少し興奮しているエレイナに、ゆっくりと話しかけた。
「ご不幸な結婚だったのではない? 王妃になられたことが原因なのではなく、望まない結婚だったからじゃない?」
「でもっ、王妃ですよ。それを望まないなんて」
「私だったら、王妃になることより、愛している人と結婚できるほうが幸せだと思うわ」
「ですが」
「イザベラ様はグリフィスを愛していたと、デイナさんから聞いたわ。愛する人の父親に嫁ぐことが、幸せだとは思えない」
そんな風に思ってみたことがなかったのだろう、エレイナは驚いた顔で、じっとミシェルを見ていた。
だが、ミシェルの考えを否定するかのように、ぶるっと首を横に振る。
そして、先程よりは落ち着いた表情で、ミシェルを見つめてきた。
「王城は、そして後宮は特に、とんでもないところです。ミシェル様は、おわかりになっていらっしゃらないのです」
そうかもしれないと思えたので、ミシェルは反論しなかった。
デイナの話してくれるのは、ミシェルにはとても現実のこととは思えないような、権謀術数うずまく世界だった。
正直、そこに入っていくには勇気がいる。
デイナは慣れると言っていたが、ミシェルにはきっと永遠に慣れることなどないと思えた。
だが、対応していくことは出来る。出来るはずだと、自分に言い聞かせている。
「ミシェル様が、イザベラ様のように変わってしまわれたら、不幸になられたらと思うと、私……」
「どうもありがとう、エレイナ」
にっこりと微笑んだミシェルに、エレイナはぱっと表情を輝かせた。
「でも、私はグリフィスの側に居たいの。そのために、王妃にならなければならないのなら、頑張りたい」
「ミシェル様!」
「不幸になるかもしれない。でも、これは私が選んだことだから、後悔はしない。それに、王妃になれるかどうかもわからないし」
「でも! ミシェル様は陛下にお会いしたいと、再び婚約したいと、そう思っておられるんですよね」
「愛している人に、愛してほしいと思うのは、自然なことでしょう?」
「……私には、わかりません。残念です」
うつむいてしまったエレイナが、そうつぶやいた。
(何があったのかしら)
イザベラ王妃の身辺で、エレイナをこれほど傷つけるような何があったというのか。
ミシェルには見当も付かなかった。
だからといって、デイナに聞くのはちょっとためらわれる。
イザベラ王妃のことについて、デイナはひどく話しにくそうにしていた。
ミシェルの質問を避けているようで、詳しく聞くことが出来なかったのだ。
グリフィスかサザーラント公爵に会う機会があれば聞いておこうと、ミシェルは心に留めた。
「私を心配してくれてありがとう、エレイナ。でも、私は何者になっても、あなたに対する態度は変わらない。それだけはないわ」
記憶を失ったグリフィスを前に、自分の態度が変わってしまったことを、ミシェルは何よりも後悔している。
遠い存在の国王としてグリフィスに接していなければ、もっと違った結末になっていたかもしれないと思ったことは、一度ではない。
「ですが、ミシェル様は……。ここに来られてからでも、随分お変わりになられました。なんだか、遠いお方になられたみたいで……」
ミシェルは軽く目を見張り、小さく微笑んだ。
確かに、王城にいた時、垢抜けないミシェルはエレイナよりもずっと野暮ったい田舎者だった。
エレイナが戸惑い、不安に思うのも、仕方がないのかもしれない。
それぐらい、ミシェルはここに来て、変わったのだ。
「そうね。ちょっと見かけは変わったかもしれないけど、でも、私は私よ。心は何も変わっていないの」
グリフィスが、ミシェルの素直で真っ直ぐなところが変わらないように祈っていると言ったことが、思い出される。
(そうね。私は、変わらないわ。それでいいのよね、グリフィス)
少し洗練されても、知識が増えても、大人の考え方を知っても、自分という本質は変わらない。
グリフィスが愛してくれたのは、田舎貴族という自分の外側ではなく、その本質のはず。
それなのに、国王という外側でグリフィスを遠ざけてしまった自分をミシェルは改めて後悔し、二度と繰り返さないと心に誓う。
「そのお言葉を、信じてもいいでしょうか」
戸惑い、不安そうなエレイナに、ミシェルは大きく頷く。
「ええ。どうぞ、信じてね」
きっぱりと答えられたとき、ミシェルは自分の中の不安や戸惑いも、薄れていったような気がした。
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