(3)


 信じたい。

 だが、グリフィスの傷ついた心は、これ以上傷つくことを恐れていた。


 苦しげな顔で黙り込んでいるグリフィスを、レスターはどこか痛ましげに見つめていた。


 身分というものは、厄介なものだ。

 ヴァロア伯爵の屋敷にいた頃の二人は、こんな苦しげな顔をしていなかった。


 まるで顔に刻まれてしまっているかのようなグリフィスの眉間の皺も、ヴァロア邸では一度として見ることはなかった。

 いつも明るく朗らかなミシェルも、この王城にいた時は借りてきた猫のように小さく縮こまり萎縮していた。


 緑の森の中で、グリフィスは国王という重責から一時ではあるが解放され、年齢相応の若者として生きることを楽しんでいた。

 ミシェルも、住み慣れた屋敷で気心の知れた人々に囲まれ愛され、おおらかに元気よく生きていた。


 二人とも、自由だった。

 そして、誤解が生じるような壁も、存在しなかった。

 いつも二人は、率直に話していたのだから。


 あの頃の、シンプルな関係に戻れたら、ミシェルとグリフィスの誤解など、あっという間に消え失せるのだろうに。

 だが、グリフィスが国王である事実は消えることがなく、グリフィスと共にあろうとする限り、ミシェルが今までの生活を変えなければならない現実はどうしようもない。

 二人は、今の環境の中で、新しい二人の関係を築いていくしかないのだ。


 レスターは、そっとため息をついた。


「実は、ヴァロア伯爵が、旅先から私に手紙をくださいまして、この冬を一緒にすごさないかと誘ってくださいました。この足で、私は出かけます。雪深い所ですので、次にお会いすることがあっても、春以降になるかと思います。ミシェルの父上に、なにかご伝言はありますか?」

「……知らない男に、なにを伝言しろという」

「あなたはヴァロア伯爵と、とても仲が良かったのですよ。だからこそ、伯爵はあなたを信じて、ミシェルを一人でこの城に行かせたのですから」


 それこそ、グリフィスには何も言えなくなった。

 結果として婚約を破棄し、ミシェルを王城から追い出してしまったのだから。


「伯爵には、何もお話ししないつもりでいます。ですからどうぞ、お気になさらず」


 本当なら、グリフィスには会わず、そのまま伯爵の元に行くつもりだった。

 だが、グリフィスとミシェルについての、ひどい内容の密告があったため、王城に寄ったのだ。


 グリフィスがミシェルにひどいことをしたのは、事実なのだろう。

 だが、二人はこれ以上なく愛し合っている。誤解と行き違いさえ解消されれば、再び元の関係に戻るだろうと、レスターは確信している。


 その一方で、ミシェルを想う男としては、黙って見ているのにも限界がある。

 だからといって、ミシェルを婚約者として取り戻したとしても、それがミシェルの幸せにつながらないことをわかっているだけに、もどかしい。

 グリフィスに直接会って、言いたいことを言い、それが二人の関係を改善するきっかけになればいいと思ったのだが。


 ミシェルを諭すように、グリフィスに意見するのは、やはり難しい。

 記憶を失っているからというわけではなく、国王であるグリフィスは背負っているものも大きく、事情も複雑すぎるからだ。

 そして、彼の抱えている事情のほとんどをレスターは知らないのだから、こうして意見するのは身の程知らずなのかもしれないと感じてもいた。


「ミシェルに会って、もう一度、きちんと話をしていただきたい」


 最後に、レスターは心を込めて話しかける。


「それが出来ないと言うのなら、言葉では信じられないと言うのなら、誕生日の贈り物はどうでしょうか。ミシェルはそれを作るのに、かなり時間をかけ、苦労していたようです。可能なら、そのプレゼントを今からでも受け取っていただければと思います。きっと、ミシェルの思いがつまっているでしょう」

「…………」

「それでは、失礼いたしました」


 一礼し、レスターは去っていった。






 扉の閉まる音を聞きながら、グリフィスはレスターの残していった言葉に心を飛ばしていた。


「誕生日の、プレゼント……」


 グリフィスは椅子を立つと、侍従に女官長を呼ぶように申しつけた。

 この城の中でプレゼントを用意するとなれば、女官長の手助けなしでは出来なかったはずだ。

 ミシェルは東棟の奥に閉じこもり、一人でひっそりと生活していたのだから。

 女官長ならば何か知っているだろうと心が騒ぎ、グリフィスは部屋の中をうろうろ歩き回る。


 失われたあのプレゼントには、レスターの言ったとおり、ミシェルの本当の気持ちが入っていたのだろうか。

 もしそうなら、それを受け取ることができたのなら、ミシェルの思いを信じることが出来るのだろうか。


 ぴたりと、グリフィスは立ち止まった。

 そして、女官長が来るのを待ちきれず、小雪の舞う外へと、飛び出していった。




 あの時の東屋に、グリフィスは駆け込んだ。

 大きく首を振って、顔と髪にかかった雪を振り落とす。

 荒い息が、真っ白になって浮き上がった。

 雪の中、ひとけのない東屋は、耳が痛くなるほどしんと静まりかえっていた。


(あの夜……)


 ユーシスに言われて、東屋で待っていた所に、ミシェルがやって来た。

 そして、プレゼントを置いてミシェルは出ていき、グリフィスもユーシスに呼ばれてすぐに出ていった。

 ユーシスに見られるのが嫌で、ここにプレゼントを置き去りにして。


 ひんやりとした大理石のテーブルに手を置くと、グリフィスはその後のプレゼントの行方を想像してみた。

 パーティーはすでに無礼講状態で、参加者は自由に抜け出していた。カップルがこの東屋に出てきた可能性がある。もしそうだとしたら。


(今まで何もないというのは、変だな)


 参加者はすべて上流の貴族だ。

 こんなところに、噂の元婚約者からグリフィスへのプレゼントが置き去りにされていれば、絶対に黙っていない。

 あることないこと尾鰭背鰭を付けて、盛大なゴシップに仕立て上げてくれるだろう。


(参加者でないとすれば、使用人か)


 パーティーが終わってから、会場を片づけた使用人が、この東屋まで片づけようとしたのだろうか。

 それは、少し考えにくい。深夜に、わざわざ東屋にまで足を向けないだろう。

 東屋には急いで片づけなければならないような食べ物などもない。掃除するとしたら、翌朝だ。


(朝……)


 グリフィスの脳裏に、ぱっと浮かんだのは、雨に打たれ泣いていたミシェルの小さな背中だった。


(まさか)


 グリフィスの視線を感じたのか、ゆっくりと振り向き、グリフィスと目があったときの、あのミシェルのこわばった顔。

 そして、ミシェルは雨の中に逃げ出した。


(まさか)


 考えたくもないが、そうとしか考えられない。

 そう考えれば、すべて辻褄が合う。


 ミシェルが、置き去りにされたプレゼントを見つけたのだ。

 精一杯の愛を込めて用意していたというプレゼントが、開けられることもなく放置されていたのを見つけたのだ。


 雨に濡れ、ミシェルは一人で静かに泣いていた。

 雨に濡れていたい気分だと、ミシェルは真っ青な顔で言っていた。

 当然だろう。ミシェルは深く深く傷ついていたのだから。


「それを俺は」


 それなのに、グリフィスはミシェルを罵倒したのだ。

 濡れてみせ哀れみを請うつもりかと。目障りだとさえ言った。


 ミシェルが、愛されていないと思うのは当然すぎる。嫌われていると思うのは当然だ。

 これほどまでの仕打ちを受けて、出ていくと言わないほうがおかしい。

 ミシェルに出ていくと言わせたのは、やはりグリフィス自身だったのだ。


 グリフィスはじっと目を閉ざし、胸を締め付けるような痛みに耐えた。


「謝らなければ、これは、絶対に」


 そのためにも、プレゼントをどうにかして探し出したい。

 ミシェルが置き去りにされたプレゼントの第一発見者だとしたら、そのプレゼントをどうするだろうか。

 当然、そのままにはしておかないだろう。誰かに見つかれば、何を言われるかわからないことぐらい、ミシェルにもわかっていたはずだ。

 それなら、どうする?


 ミシェルの行動を予想できるほど、グリフィスはミシェルのことを知らない。

 ミシェルが王城で過ごした時間は長いが、グリフィスとすごした時間はほんのわずかだ。


「畜生っ」


 グリフィスは頭皮が痛くなるほど、強く髪を握りしめた。

 この頭の中に眠っている記憶のほとんどは、ミシェルに関するものだろうに。

 この記憶さえ自由になれば、ミシェルの行動だって、簡単に予想できたのではないだろうか。


「駄目だ。駄目だ駄目だ駄目なんだ。いつまでも失った自分との差にこだわっているから!」


 グリフィスは大きく息をつくと、東屋の椅子に腰を下ろし、テーブルにひじを突いて指を組んだ。

 組んだ拳を唇に押し当てると、じっと心を澄ませた。


 ミシェルは見つけたプレゼントを捨てるだろうか?

 多分、捨てない。

 心のこもった大切なプレゼントだったと、レスターは言っていた。

 そんな大切な物を、ミシェルはきっと捨てない。


 それならば、ミシェルはプレゼントを持って帰ったのだろうか?

 それが一番考えられることだ。

 行き場の失ったプレゼントを、ミシェルは密かに今も隠し持っているのかもしれない。


 だが、それならばなぜ、ミシェルはあんな所で雨に打たれていたのだろうか。

 東屋からミシェルのいた東棟の部屋に行くのに、あの場所は通らない。

 それに、ミシェルはあの時、プレゼントを持っていなかった。


 部屋にプレゼントを置いて、その後で雨に打たれに、わざわざあの場所に来たのだろうか。

 それはあまりにも不自然すぎる。

 雨に打たれたいのなら、東棟の部屋のすぐ側でいいはずだからだ。


 グリフィスはあの時のミシェルの様子を、事細かに思い出そうと目を閉じた。

 最初に見つけたミシェルは、うずくまっていた。

 何をしていたのかまでは、見えなかった。


 そしてその後、ミシェルはすぐに立ち上がり、泣いていた。

 いや。泣いていたのは、うずくまっていた時からだった。

 その泣き声を聞きつけて、ミシェルを見つけたのだから。


 ミシェルは立ち上がって、そしてそう、両手を雨で洗っていたのだ。

 泥だらけの両手を。


「!」


 瞬間、グリフィスはもう一つの可能性を思いついた。

 捨てたのではなく、持ち帰ったのでもない。

 ミシェルは、プレゼントを隠したのだ。


 誰にも見つからないように。


 地の下に。


 

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