音海日菜子は天才少女

 私──音海日菜子は天才少女、だった。

 小学生の時に何気なく始めたピアノはすぐに、全国レベルまでに上達した。

 これは正しく才能の類であり、母さん父さんは嬉しそうに喜んでくれた。

 周りの大人も皆、日菜子ちゃんは天才だと、そう言ってくれていた。

 ありとあらゆるコンクールで一位を獲ってきた。

 それくらいに、私はピアノの天才少女だった。

 将来の夢はピアニスト、だった。


 なぜ『だった』と「今は亡き〜」みたいに言うのかというと。

 それは。もう、単純なことで。

 私のその夢は、跡形もなく消え失せたからだ。

 

 そして、高校一年生。

 日本で一番規模が大きいとされているコンクールに出場した。

 予選はもちろん難なく突破した。

 

 そして東京で開催された本選に、私と父さんは向かった。

 母さんは宮崎の実家で留守番だった。ペットの柴犬がいたからである。


 そして訪れるコンクール本番。私の演奏時間。

 拍手に迎えられ、私は椅子に腰掛ける。

 スタンウェイのピアノの中でもかなり良いピアノを前にして、私は心臓を高鳴らせながら手を乗せた。

 自由曲である『英雄ポロネーズ』は、かなり難しい楽曲だったが、私は見事に、その音楽を理解し、そして弾きこなした。


 結果はピアノ部門第一位。

 名前を呼ばれた瞬間、私はその場で飛び跳ねていた。

 舞台の上に立ち、大勢の観客に拍手で称えながら私は大きなトロフィーを抱えた。


 父さんのところに戻ると、すぐに母さんにメールをした。

 返信はすぐに来た。

 だけど今は外に出ているらしく、また家に帰ったらメールをくれる、とのことだった。


 コンクールの帰り道。

 父さんと共に、車でホテルに向かっていた。

 ポケットに入れた録音機で、こっそり録音した私の演奏を満足気に車内に流していた。

 貰った大きなトロフィーを大事にぎゅっと抱えながら。

 私は自分の演奏に酔いしれていた。

 満足のいく部分があったら巻き戻したり。

 これからも私はピアノと共に生きていくのだろうと、疑わずにそう信じていた。


 曲が終わり、私はリピートを押した。

 その時だった。


 ──プルルルルル。


 父さんのスマホが鳴き声をあげる。

 ちょうど信号が赤で、父さんは迷わず取る。

 それに「もしもし」と出る父さんの声は、嬉しさが滲み出ていた。

 私が一位を獲ったことが、すごく嬉しかったのだろう。


「え? は、はい……」

 

 だが。その声色は、すぐに暗いものへと変化していた。変貌だった。

 耳からスマホを取り下げた父さんに『どうしたの?』と身体を前に乗り出して聞いてみると、父さんはゆっくりと涙を垂らした顔を私に見せた。


「か、母さんが。交通事故に遭った……」


 即死だったらしい。

 それを伝える父の声は、現実を受け入れられないかの様に、ただ震えて。

 二人の泣き声と、私の『英雄ポロネーズ』が車内に木霊していた。


 私が、母さんにメールをしていなければ。

 私が、母さんと一緒にコンクールに来ていたら。

 私が、コンクールになんて出ていなければ。

 私が──ピアノなんて始めていなければ。

 

 その日から、私はピアノが大嫌いになった。


 さて。ここからは、チューバとの出会いを──と言いたいところだけど、どうやら私の意識は現実に戻りつつあるようだった。

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