クインテット

ドヴォルザーク作曲・交響曲第九番『新世界より』

 私の大学生活に、どうやら波乱は付き物らしい。

 それは最早、憑き物と言うべきか。私に纏わりついた、振り払えぬ事象だ。

 この出会いが、私のこれからにどう影響するのか。全くもって分からない。

 触らぬ神に祟り無しとか、君子危うきに近寄らずとか。

 それら二つのことわざの様に、ここで関わらなければ少なくとも面倒事は起こらない。

 ……なのに。

 コミュ力の無い私は、どうしてここで駆け出してしまったのだろうか。


「……神坂さん!」


 どうしてそう。

 彼女の苗字を呼んでしまったのか。

 慣れないことに、手を出してしまったのか。


 それは。

 彼女のトランペットから出される音が、悲哀に満ちていたからだ。

 私の胸に刺さった彼女の音は、何か。取れずに、残り続けていたからだ。

 明るい音の中に込められた負の感情が、私には見えてしまったからだ。


 彼女──神坂さんは、ピタと己の動きを止めた。

 私は雨に打たれながら、置かれたパラソルの端っこに飛び込む。

 水に濡れた犬の様に体をブルブルと震わせて、私は目の前にいた彼女を見た。


 これまた一言で済ますのなら『美人』で済むのだが。

 その一言じゃ、あまりに語れない部分が多すぎる。

 彼女は琴音を連想させる華奢な容姿ではあったが、身長は並程にあった。

 パラソルの下とはいえ、横風に流された雨に打たれ、全身は既に濡れネズミだ。

 それも相まってか、彼女は私の目に酷く弱々しく映っていた。そう、酷かった。

 入学式に主席者挨拶があったわけだから、私は確かに彼女を一回は見ている。

 でも。私は今、彼女のことを初めて見たのでは無いか? そんな感覚に一瞬、陥ってしまった。

 それほどまでの、弱々しさを彼女は放っていた。

 鬼火の様に青ざめて見える彼女の表情は、洞窟の様に空っぽで、虚しく。美しいという感情よりも、何故か哀しいという感情を先に抱いてしまう。


「風邪引くよ?」


 私は何も分からず、読み取れないまま。彼女に声をかけた。

 少しの妙な間を乗り越え、神坂さんはトランペットのベルを地面に向けると細々とした声で私を訝しんだ。

 

「……あなた、誰?」


 その返しは、少しだけ私を驚かせる。

 最近、私たちの噂とかが広まりまくってるので、知られていると思ったけど。

 どうやら違ったらしく、私は少々自意識過剰だったらしい。

 私はコホンと喉の調子を整え、慣れない他人との会話を開始した。


「……んっと。一年の音海日菜子。神坂さんとタメ」

「そ。何か用? 私、生き急いでいるから。要件は早くね」


 生き急ぐ、だなんて。

 言葉選びのセンスは、良いものだと思えない。


「雨に濡れてるなって思って。楽器も錆びついちゃうと思うよ? タオルあるとは言え」

「いいの。お気遣いありがと」

 

「あーうん。どういたしまし、て……? いやいや、良くないって」

「練習室はどこも空いていないでしょう? それなら、ここでやるだけ」


 練習室が空いていないからって、雨晒しの屋上で……って。

 これはもう。こう返す以外にあるのだろうか。


「……すごい好きなんだね。楽器が」

「うん。好きだよ。だから、こうしてるの」


 その台詞の後を「はい。これでいいでしょ」と追わせる。

 彼女はここで会話が終わるのを確信したのか、トランペットを再び空に向けた。

 ピストンを雑にカチャカチャと動かし、準備が整えられ、口の端から息を吸った。


 口元に力が込められるのが見えてすぐに、彼女は私の存在なんてどうでもいいことのように演奏を始めた。

 トランペットから飛び出した楽曲は、ドヴォルザーク作曲・交響曲第九番。『新世界より』から第二楽章。

 ドヴォルザークが新世界であるアメリカから、故郷であるボヘミアへ向け作られた曲であり、そのため『新世界より』という副題が付けられている──ってのは、割とありふれた曲の説明だ。

 第二楽章と言えば、冗談を抜きにして『曲は知ってるけど曲名は知らないランキング第一位』の曲だ。私調べ。

 夕方五時にかかる地域も多いと聞く。故に、有名なのかもしれない。

 『家路』というタイトルが付けられているくらいであり。

 イングリッシュホルンが奏でる主題は、ただただ美しい。

 そのメロディを、今はトランペットが奏でている。

 その音楽は確かに私に夕日を連想させるのだ。


 だが。彼女の演奏に関しては違かった。

 私が先に聴いた通りの、とても悲哀に満ちた。

 憂鬱な足取りを思わせる、ぬかるみに入ったかのような。

 土砂降りの家路を、傘も何もささずに歩いているような。

 雲を晴らす演奏とは言い難く、むしろ雨に溶け込でいる演奏だった。

 不思議と涙が溢れそうになった。とても、苦しかったから。

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