初めての合奏
問1:私は今までに琴音のチューバの生音を聴いたことがあるか?(配点100点)
唐突にパッとそんな問いが頭に浮かんだのだけれど。その際の私は、テスト勉強をしておらずとも答えが分かる様な問題に遭遇した時と少しだけ似た感覚に陥り、同時に何故こんなのを今まで忘れてしまっていたのだろうか、と。これまた問いたくなるような疑問が浮かび上がらせた。
「日菜子は今、こう思っている」
隣でハードケース内から銀色のチューバを取り出した琴音が、私だけの耳に届くくらいの声で小さくぽそり。
私も同じく銀色のチューバを取り出しながら、琴音の唐突なエスパーじみた言葉に返事をする。
「おー。当ててみてよ。『私の考えていることは何でしょうか』」
「『琴音って。チューバ吹くんだ……』これでしょ」
琴音がしたり顔で正解に近い言葉を言ってくるものだから、本当にエスパー? と問いただしたい。
さておき、回答欄にこれが書かれていたら、私は何点をあげるのだろうか。
少し文章は違えど、普通だったら掠りもしないことだと思うので、とりあえずは無難に採点を、と。
「98点。惜しい」
「あと2点はいずこ」
琴音はほっぺたを若干膨らます。
100点をご所望だったらしい。
今からでも三角を訂正して花丸を与えてやるべきか。
しかし彼女贔屓も良くないので、私は踏みとどまった。
「満点の解答は『琴音のチューバの生音聴いたことないなー』でした」
「ニュアンス的には頭で描いていたのとそっくりだから100点でいいと思いました、日菜子先生」
「はい、じゃあ100点あげまーす」
私はきっと教師に向いていないな。
それでも。琴音が満足そうに笑ったので私も満足です。
「ありがと。というかそれ、いつ言ってくれるのかなってずっと思ってた。日菜子、私がチューバを楽器庫から取り出してるのを何も疑問に思っていなさそうだったし」
そう。考えてみれば、違和感を抱くべきポイントはそれ以前、具体的には今日の昼休み頃から存在していた。
それはまぁ極自然な話の流れだったから。気付かなかったのは仕方が無いで済ませられるのだろうけど。
しかし。楽器を取り出すところを見たら、完全なる違和感な訳で。確実に違和感は脳髄を刺激するはずなのだけど。
けれどそこへ注意が向かなかったのは、完全にアレのせい──というべきか、お陰というべきか。
「いや、うん。あの時は、日曜にする琴音とのえっちのことで頭を膨らませてたから」
これしか無かった。
琴音は驚きを露わに『声大きい』と恥じらい、私を叱りつけた。
しかし周りのトランペット軍団は新曲の譜読みに勤しんでいるようだったので、聞こえては無いだろう。
「それに関しては、まだ明後日なのに。クリスマス前の子供でもソワソワし出すのは前日からだよ」
「しょうがない。これは、本当にしょうがない」
うんうんと首を縦に大袈裟に往復させる。
「もう……。というか、それはともかくとして。私はチューバを今から吹くの。日菜子の好きな私のチューバを」
言われてみれば。と思う。
私が琴音に弾いた『英雄ポロネーズ』。あの時と、状況は違えど立場は同じだった。
琴音のチューバは。確かに、そう確かに。あの時、私の心を打った。
なるほど。何気ここで琴音がチューバを取り出すということ──。それはつまり、私にとって強大な価値ある出来事が起こる予兆なのだ。
「本当は日菜子みたいに、もっとカッコよくやりたかったんだけど。……アンサンブルに混ぜて貰うためには、これしかなかったから」
琴音が今、チューバを取り出したのは。アンサンブルに参加するため。
アンサンブルというきっかけは。神坂さんを誘った、という私の身勝手が作り出したものであり。
そう考えてみると、途端に申し訳なさが募り、積もる。
私は「……ごめん」と目を泳がせてしまう。
そんな私の様子を見てか、琴音の表情は少し慌てたものとなり「えっと。そういうことじゃなくて」と言葉を続ける。
「私から言い出したことだから、アンサンブルに参加したいっていうのは」
「だから日菜子は別に気にしないで」と余りにも優しすぎることを言って下さる。
琴音、優しい。好き。神。琴音の一つ一つの細胞に、八百万の神的なのが宿っているに違いない。(適当)
感極まった私は、緩む頬を抑えきれず、声量大きく琴音に告げた。
「……じゃあ。ソロの曲は、また今度、一対一の時に聴かせて! 琴音の最高にカッコいい演奏を聴くのはその時にとっておく!」
「じゃあ、今日は控えめに吹いてみるね。チューバ吹くのも久しぶりだから」
「よろしく!」
と、ここまでやり取りをしたところで、周りのトランペットの音が鳴り止んだ。
そろそろアンサンブルのスタートだろうか、と。私はチューバを持ち上げ、椅子に腰を下ろす。
ちなみに琴音は左隣。右にはサードトランペットから順々に並んでいる。つまりは右隣は神坂遠子というわけだ。
──ヴォォーー。
琴音からチューバの分厚い音。まるでゾウの鳴き声だ。
吹いている人は、きっと巨体の男性なのだろう。残念、琴音でした。
琴音のその音は、久しく楽器を触っていない者の音とは思えない程に重厚に響いていた。
ウォームアップの音に感嘆し、耳を貸しつつ。私は譜面台に置かれた『未定』と書かれた楽譜を見遣った。
調はシャープ一つのト長調。『ト』なのでつまり『ソ』である。言い換えればGメジャーだ。
随所にソロ的な音の並びがある。明るめの曲だろう。
最初から順を追って目を通しながら、神坂さんの作曲力に感嘆し。
遂にはフィナーレ部分。壮大な流れのまま壮大に終わる──かと思いきや。違かった。
最後の4つの音。それらには、途轍もない程の違和感が含まれていた。
「あの、神坂遠子さん、だっけ。ちょっといいですか?」
と、軽く手を挙げ問いを投げたのは。右端にいるファーストトランペット担当の藤崎さんだった。
琴音のチューバの音が止み、再びこの場に静寂が訪れる。
「どうしたの?」と神坂さんは淡々とした口調で答えた。
「私、作曲初心者だから、これが現代音楽的作曲法を駆使しているならすみません。……最後の4つの音の意図を教えて欲しいです」
どうやら藤崎さんも同じ疑問を抱いていたらしい。
トランペットの楽譜がどうなっているかは定かでは無いが、チューバと似たような感じなのだろう。
具体的に音を説明するなら。ドとファとレとミ、これら4つの四分音符で構成されて締めだった。
跳躍進行、というのにも少し無理がある。不協和音になりかねない短調的な、それよりも悲しい響きだ。
藤崎さんの言った通り、少し現代音楽的とも取れる。だからと言って、この流れで現代音楽に曲調が方向転換されるのは変だった。
しかし神坂さんにはこうした意図があるのだろうと、少し楽しみに彼女の返答を待つ。
「……あー。そこか。……私、とりあえず一旦は勢いで曲を仕上げるから、そこの訂正を忘れてた。ごめん、書き換える」
「分かりました。ありがとうございます」
……期待虚しく。そういうことだったらしい。
しかし私は、どうしても引っ掛かってしまう。
なぜこんな不気味な音を書いたのか。
勢いで書いたとは言うが、それまでとは確実に色が違う。
天国にあった落とし穴が、地獄まで繋がっていたって感じの落差だ。
「あの。神坂さんは、この曲はどういうイメージで書いたの?」
気付いた時には、私は口を開いていた。
神坂さんと共に、琴音からの視線を感じた。
「これは、この曲は。私の理想とする未来を想像して書いた。仮に題名を付けるなら『理想郷』ってところなんだろうけど、しっくりこなくて『無題』にした。……最後のは、急に現実に戻ってきた感じなんだろうね。……うん。変だ。確かに変だ」
「なるほど……」
一応は納得が出来たので、それ以上は聞かないことにした。
しかし、どこか含みがある。神坂さんの現実が、この不協和音だというのは、ねぇ。
こうなってくるとトランペットの音も気になってくるものである。
ここは少し藤崎さんにも聞いてみよう。
「あ。あの。藤崎さんはそこの音どうなってるの?」
声のボリュームのつまみを回しながら、私は藤崎さんに声を届けた。
楽譜を見ていた彼女は、そのまま楽譜を凝視し、私に声を投げ返す。
「実音で。一つ目から、ファ・ソ・上のド・下がってラ。ですね」
「なるほど。……ありがとう」
やはりだ。
曲の終止には大体4つのパターンがある。
全終止・変終止・偽終止・半終止。これら4つだ。
五度の音程から一度の音程に下がるのが全終止。
ト長調で説明をすると、ソの音が一度となるので。レからソに下がり曲が終わるのが全終止というわけだ。
次に変終止。これは四度の音程から一度の音程に下がること、つまりはドからソに下がって曲が終わるのが変終止。
偽終止は六度から五度、ミの音からレ。
半終止は、五度で終わるもの。レで終わるならほとんどが半終止というわけだ。
さて。ダラダラとやったが、今回の曲はどうだろう。
チューバのドとトランペットのファの音程差は四度。
同じくファとソの音程差は二度。
レと上のドは七度。
ミとラが四度。
4・2・7・4。
七度から四度に移行して、この曲は締められている。どの終止形にも当てはまらない。
要するに、これだと曲が気持ち良く終われていない。
言い方は悪いが、気持ちの悪い曲の締め方だ。
どう考えても。これはおかしいだろう。
「……じゃあ。少し書き加える」
神坂さんは立ち上がり、私たちの楽譜へと修正と書き足しを、手早く行った。
その手直された楽譜は、曲の流れを十分に維持した、とても気持ちの良い終わり方へと変化していた。
「おぉ。すごい」
無意識に漏らす。
神坂さんは、少し嬉しそうな表情になり、トランペットを持ち上げ「さて」と皆に向けて言い放つ。
「修正終わったので、アンサンブルを始めましょう」
「生き急いでいるので」と毎度の台詞を付け足した。
神坂さんに応じて、続々と楽器を構え出す面々。
琴音も準備万端のようだ。私も構えて、楽器に息を吹き込む。
音出しをしていないので、いきなり吹けるのかが不明瞭ではあるけれど。
これ以上神坂さんを待たせても。生き急いでいる彼女にとったら、これは余計すぎる時間なのだろう。
「ファーストからなので、とりあえず私が合図出しますね」
と、藤崎さん。
楓花が「はーい」と頷いていた。
マウスピース部分に口を当てた私は、声も出せずに頷くのみ。
沈黙。静寂。
続くのは緊張感。
ピストンを軽く動かし。
横目でチラと琴音を見る。
不相応な楽器を軽々と抱えていた。
「いきます」
再び藤崎さん。
目配せを全員に送り、皆が彼女に目で返事をした。
曲のテンポに合わせ、藤崎さんは楽器を下に下げ、呼吸と同時に楽器を前に向ける。
──トランペットの華々しいファンファーレ。
セカンド・サードと音が続く。チューバは四小節間の休符がある。
三つの音が練習室に鳴り響く中、少し。その中に溶け込めていない音が一つ。
それが右隣から聴こえる音だと気が付き。私は横目で見る。
先に言った通り、そこで吹いているのは神坂さんだ。
出てくる音は、別に下手ではない。しかし、違和感はあった。
これはまだ。音楽を楽しめていない音だと、潜在的に察した。
どうするべきか。と、私は楽譜に視線を戻す。
チューバの出番まで。あと二小節。一小節。
三拍。二拍。一拍。
「すっ」と音を立て、大胆に息を吸う。
表示されたフォルテッシモのマークに従って、私はチューバに己の腹から息を込めた。
チューバから飛び出した、深く重厚な音がトランペットの音を包み込む。
その『深く重厚な音』ってのは、ほとんどは琴音の音なんだけど……。
琴音はやはり上手い。私が惚れた演奏だ。そりゃ上手に決まっている。
下手に音がデカい訳じゃない。むしろ音量は控えめである。
それなのに。どこか、分厚くて。力強くて、安心感のある音だ。
惚れ直しながらも。それでも、私も琴音と肩を並べたくて少しだけ背伸びをしてみる。
届かないと分かっている、その音に近付きたくて。私はチューバに息と想いを込めた。
私たちのアンサンブルは、より華やかなものへと移り変わる心地がした。
いや。気のせいではない。チューバと共に、トランペットの音色が変化している。
特に右隣から聴こえる音──神坂さんだ。
吹きながら神坂さんを見れば、少し目を見開いた驚きに似た表情で、ただ楽譜を真っ直ぐと見つめていた。
何かに気が付いたかの様に。ピストンの上で指を楽しげに踊らせている。
その様子に微笑みそうになるのを抑え、楽譜と楽器に注意を戻した。
もう数小節でチューバのソロが訪れる。
簡単な四分音符を吹きつつ、ソロ部分を先読みする。
十六分音符が連続で続くそれは。どうやらトランペットと同じメロディだ。
それも最初のファンファーレと同じ。いわゆる、再現部。というやつだ。
なるほど面白い。思わず鼻で吹き出してしまいそうな譜面だ。
これをチューバに吹かせるとは、中々に酷なことを要求してくる。
だが。チューバのメロディパートとは。
チューバ奏者が、最も自身を輝かせられる場所だ。
ここで。自身を曝け出さなくてどうする。
ソロと言っても、琴音も同じ譜面だ。
今度は琴音を横目で見る。そして目が合った。
お互いに口角を上げ、目を細めて。『さぁソロだ』と不器用なウィンクで合図を出す。
楽譜に向き直り。迫るソロパートまでの残り時間を心の中で数え。
数え。数え。数え。そして──。
──今だ。
息の速度を上げ、高速に十六分音符をタンギングする。
神坂さんが作った音の世界を、琴音と私。二人一緒に舞い踊る。
二人完璧に合わさった、とまではいかなかったが。
楽しさが前面に押し出されていたソロパートだったのは間違いないと。
そう思いながら、共に駆けて、ソロパートを抜ける。
そしていよいよ曲のクライマックス。
一旦ピアノに落ち、静かになった音楽は。徐々に明るみを帯び出す。
最後に向けクレッシェンドされる音楽。感情も共にクレッシェンドをする。
書き換えられた最終局面。フォルテピアノののちに再び盛大なクレッシェンド。
楽しすぎて気持ちが昂る。そしてラストの一小節。スフォルツァンドの表示。
これこそ盛大に。壮大に楽器を鳴らし。音楽はそこで、気持ちよく切り上げられる。
訪れるのは。私たちを現実に引き戻す静寂。
昂った気持ちが、次第に落ち着き出す。
この静けさは、どこか寂寥感がある。
さっきまでの楽しい時間が、一気に身を引いた感じがした。
「いやぁ、めっちゃいい曲だね!」
静寂を破ったのは、楓花の嬉々とした声だ。
感情を顔面に曝け出した楓花が、藤崎さんにそんなことを告げる。
「……うん。すっごく楽しかった」
藤崎さんが、笑顔を楓花だけに向けていた。
「琴音はどうだった?」
楽器を床に置きながら、楽譜をまじまじと見つめる琴音に問う。
「……やっぱり合奏は良いよね、って思った。日菜子も、凄く良い音だったよ」
琴音も。私だけに笑顔と声を向けた。
「そっちこそ」と照れ隠しで、琴音を小突く。
そして次。
「神坂さんは、どうだった?」
彼女は未だ現実を受けいられていないかのような、ぽかーんとした表情をしている。それでも。顔は紅潮して、どこか全体的に明るみを帯びていた。
ぽかーんと言っても、しっかりと表情は存在している。
それも。笑顔に近い、そんな表情だ。
そして──。
「あ、あのっ」
彼女の震えた口から。
「もう一回。やってみてもいい?」
嬉しそうな。そんな声が飛び出して。
「あと。曲名。思いついた」
はにかみながら、恥ずかしそうに。私たちにこう言ってくるのだった。
「──『新世界へ』っていうの。どうかな」
もちろん。皆、肯定の返事だった。
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