新世界へ

 『新世界へ』

 音楽を楽しめなかった神坂さんが、この曲を吹いて楽しめたのなら。この曲名はぴたりと当てはまっているように思える。

 実際に、合計で五、六回ほど曲を通した。

 彼女はきっと、自分にとっての新世界を見つけられたのだろう。と。

 彼女の表情を見れば、そんなことは一目瞭然だった。


 そして現在時刻は、というと18時手前だ。

 神坂さんが帰る時間となったので部屋を片付け、練習室から出たところである。

 楓花と藤崎さんは一足先に帰ってしまった。えっちでもしにいくのだろう。羨ましい限りだぜ。知らんけど。


「母さん、正門前に迎えに来てるって」


 神坂さんは、ガラケーをぽちぽちしていた。

 表情を覗けば、先の演奏の余韻が残っているような明るいもので、安心に近い感情を抱く。

 私がしたことは、きっと間違っていなかったと思えたのだから。

 私も。アンサンブルなんてしたこと無かったから、凄く楽しめたし。

 一石で二羽の鳥を仕留めたのも同然だ。


「じゃあ。今日はここで解散にしよっか」


 神坂さんに呼びかける。そして琴音の方へと足を向けた。

 そうした時、彼女は「あ……」と何か慌てたように、私を呼び止めた。

 少し緊張した様子の彼女は「えっと」と前置いて声を発した。


「また。明日もアンサンブルしていい?」


 生き急いでるんじゃなかったのかーとか。そういう野暮なツッコミはやめておいた。

 今の彼女には。この言葉だけで十分だろう。


「いいよ。……あーまぁ、他の人の都合も考えないとだけど」

「うん、ありがとう。……じゃあ私、帰ります」


 踵を返した彼女の背中に「はーい」と投げる。

 さて、琴音と帰ろうかな。と私もまた踵を返した時「あ、待って」と再び呼び止める声。

 その声に応じ、またまた回れ右をする。


「正門まで一緒に来てくれない? 少し話したいことがあるから」


 と。そう言われてしまった。

 別に断る理由も無かった。正門なんて、すぐそこだし。

 頷いた。そして私は琴音に顔を向けた。


「琴音も来る?」

「わ、私は……ここで待ってます……」


 萎縮した様子で琴音は答える。見慣れたいつかの光景だ。

 誰かが声の聞こえる範囲にいると、琴音はこうなってしまうのだろう。

 琴音のシャイ度は。なんというか、最低値すぎて正確な数値が測れない。

 けどまぁ。琴音が心を開くのは、私だけで十分か。


「分かった。すぐ戻るから」



    ※

 


 私と神坂さん。二人、音楽ホール棟を抜ける。

 雨は既に止んでおり。濡れたコンクリートから、独特の雨の匂いが漂っている。

 蒸し暑さも感じて、自身を手であおぎながら正門を目指していた。

 考えてみれば、琴音以外と大学内を歩くなんて珍しい。

 他の生徒からの視線を感じるのは、それ故だろうか。

 いや。それの解答なんて、気にする必要も全く無かった。


「今日は。凄く楽しかった。ほんとに、ありがとう」


 右隣の。俯きがちの神坂さんは嬉しそうな声を出した。

 私も嬉しかった。『楽しかった』と、その言葉を引き出せて。


「やっぱり生き急ぎすぎないのも大事だったでしょ?」


 少し意地悪に聞いてみた。

 彼女は生き急ぎすぎて、多くのことを見落としていた、のだと思う。

 それを今日は一つでも。拾い上げることができた、のだと思う。

 所詮は私の想像の域なので決めつけることはできなかったけれど。


「それは確かに、そうだった。音楽って、やっぱり楽しむものだね」

「そうでしょうそうでしょう。楽しまなきゃ損だよ」


「うん。懐かしい気持ちになれた」

「あ。それとさ。神坂さん凄く良い曲作るね! 本当に尊敬、流石主席」


「作曲は。うん。……凄く好きだから」

「いやー凄いよ。将来は作曲家だね!」

「…………うん。まぁ、そうなのかな」


 神坂さんは言い淀んだ。

 何か良くないものに触れてしまったのかな。

 そう不安になりながら、これ以上はやめておこうか、と。


「なるほどねー」


 それだけで私はその話を切り上げた。

 なんてしていると、いつの間にか正門に辿り着いていた。早い、近い。

 そして、その場所には一台の白い軽自動車が停まっている。

 神坂さんの母さんというのは、おそらくあれだろう。


「あの車だよね」

「うん」


「ここまでだね。また明日もよろしく」

「うん」


 しかし彼女は動かなかった。俯いた顔も上げなかった。

 そう思った矢先。耳をほんのり染まり出していることに気付いて。

 刹那。自身の顔を重そうに持ち上げて、私の目を見た。


「あの。連絡先聞いても良い? とりあえず電話番号だけでも」

「あ、いいよ。全然!」


 なるほど。

 連絡先を聞くのは、確かに緊張する。分かる。

 だが。連絡先を他の人から聞かれる、だなんて私にとったらとても珍しい。

 だから、彼女のそのお願いは、普通に嬉しかった。


「ありがと」


 彼女はパカりとケータイを開き、ピピピっとボタンを器用にいじる。

 「電話番号どうぞ」と向けられたので。私は言われるがままそれを伝える。

 これまた器用にボタンを操作して、私の番号を電話帳に登録していた。

 彼女は満足そうに笑いながら、ケータイを閉じ、仕舞う。


「じゃあ、また、ね?」


 疑問符が付いた別れの挨拶を寄越され、


「うん。また明日ね」


 軽く上げた右手を宙に回す。

 と。ここで本当にお別れかと思ったのだが。彼女は自身のポケットを探り出した。

 またスマホでも出すのだろうかと思ったが、そこからは一つのペンと一つの小さいノート──。

 否、一部が黒く塗り潰された『したい100のことノート』が取り出されていた。

 彼女はすかさずペンを走らせ、書き込みを入れる。

 何をそんなに急ぐのか、と。夢中に書き込んでいる彼女の横をお邪魔して、ノートを覗いてみる。


「み、見ないで!」


 大袈裟な素振りでノートを隠されてしまう。

 のび太さんのえっちー。みたいなノリだった。

 ノートを自身の裸の如く。大事に大切に隠してしまった。

 そんな焦った様子の彼女に、思わずクスッと笑みを零してしまう。

 しかし私は。そこに書かれた、とても可愛らしい文字と言葉を見逃さなかった。


『友達を作りたい◯』


 そう書かれていたのだから、笑ってしまうのも仕方が無い。


「……あ。……えっと」


 彼女は顔を真っ赤に染めて、唇を震わせていた。

 どうやら恥ずかしさで何も言えない状態らしい。

 顔の紅潮具合が、それを物語っている。

 なら。ここの発言権は今、私が有しているわけで。

 うーん。ここはなんて言葉をかけるべきなのだろう。

 そう思いつつも。

 彼女は私を友達だと認識した、という事実が確かに存在しているのなら。

 まぁ。ここでは、こういう言葉掛けをするのが道理であり、正解なのだろう。


「じゃあ改めて」


 コホンと咳払いを、これみよがしに。


「私、音海日菜子。これからよろしく!」


 そんな訳で、こういう感じに。

 この日。私は神坂遠子と友達になったのだった。

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