天才少女が私とシたい10のコト

沢谷 暖日

プレリュード

七瀬琴音は天才少女

 七瀬ななせ琴音ことねは天才少女、らしい。

 この芸術大学の試験内容の一部である、楽典がくてん聴音ちょうおん新曲視唱しんきょくししょう

 どれもトップの成績でこの大学に入学した、らしい。

 だが、大学生であるので年齢的に少女ではない。

 彼女がそう呼ばれているのは、華奢な容姿に低い背丈。まるで人形の様に綺麗な肌。

 それらの要素が集まり、まるで少女の様な見た目になっているから、らしい。

 なぜ全て「らしい」と曖昧な表現をするのかというと、単純にこれらは人から聞いただけなのだ。

 私が実際にその人物のことを知っているのか、と問われれば全くと言っていいほど知らなかったのである。

 ──否、最後の容姿については「らしい」から言い切れる程に、その姿を見て、なるほど、と納得をした。

 確かに、見た目は少女と言っても差し支え無いものであった。


 そんな前置きをしたのは、そう。

 私は、今現在、七瀬琴音と対峙しているのだ。

 ピアノが一台置かれた、狭い狭い個室の中で。

 メトロノームがカチカチと律儀にアレグロを刻んでいる、そんな部屋の中で。

 顔を見合って熱い呼吸を交わしていた。

 私を見上げる彼女の息が私に当たり、彼女を見下ろす私の息が彼女に当たる。


 ……どうして、こんなことに。


 メトロノームが、次第にずれていっているのは気のせいだろうか。

 違う。私の中の普段のテンポが。次第に噛み合わなくなっているだけだ。

 心臓の音がうるさい。耳を塞ぎたくなるほどにうるさい。

 これは七瀬琴音の音ではない。これは私の心臓の高鳴りだ。

 

 ──鼓動が。アレグロの速度を超える。


 そんな私を、彼女は赤らめた顔で見つめながら。

 背伸びをして、顔をずいと近付けてきて。

 恥ずかしそうに、小さな声で、言ってくるのだった。

 

「ずっと前から、あなたが好きでした」


 言われた刹那、心臓は壊れた。

 しかし冷静ではあった。

 驚異と恋心に似た何かから、至って論理的に心臓は壊れたのだ。


 なぜこんなことになったのか、私は思い返す。


 数時間前の私は、後に待つことを知らず。

 実に呑気で、浮かれていた──。


 

     ※



 私──音海おとみ日菜子ひなこ

 九州のとある芸術大学の音楽科・チューバ専攻のなりたてほやほや一年生。

 オリエンテーションも午前中で終わり、さぁ明日からの講義を頑張るぞ!と意気込みながら、同時にゴクリと唾を飲んだ。

 今は食堂で一人、思考を回している。

 どうやらここは学生たちの溜まり場らしく、昼休みを過ぎた今でも人数は多い。

 周りが仲良く話している中、知り合いも誰一人いない私は一人ポツンと端の席だ。

 つまり今の私は、圧倒的にぼっち。


 だが。しかし。

 ここから始まるのだ。私の大学デビューが!

 薄く染めた茶色の髪も、可愛く仕上げて貰ったこのボブも。

 大学に行く前に学んだ化粧の仕方も。ヘアアイロンの使い方も。

 全ては今のためにあると言っても過言ではない、というかもう今のためにあると言い切ってもいい。

 高校生の頃の虚無すぎた毎日がまるで嘘だと思える様な、晴れやかなキラキラ大学生活を、私は送る!


 という、少し変なテンションだった。……少し? いや、とても変だった。

 スマホを取り出し、画面の明るさを最大限に暗くし、不審にコソコソと自分の顔面を確認する。

 自分に自信が無い私が、頷けるほどの見た目ではあった。

 確認した私は、座っていた席をゆっくりと立ち上がり、辺りを見回す。


 友達。友達。お友達。

 そうお友達。お友達が、欲しい。

 とても。欲しいです。(切実)

 そのために、私がやらなければならないこと──それは、友好を持つ為に、とりあえずは誰か同期に話しかけること、という。とっても単純明快なことだった。

 

 見知らぬ誰かに話しかけるのは、私にとったら辛いことであるのは間違いない。

 が、事が上手く進めば、辛さも一瞬で無くなるはずなのだ。

 その明るい未来だけを私は見ながら。遂に行動に移した。


「あ、あの!」


 反対側の、トランペットケースと共に座っていた一人の女の子。その子に私は、声を投げる。

 オリエンテーションで見た顔なので、同期の一年生であるのは間違いない。

 黒髪の美しいロングを携えた彼女は、耳にはめていたイヤホンを取り外し、私を見る。

 私は人当たりの良い、散々練習した笑顔を向けて、軽くペコリとお辞儀一つ。

 少し驚いた様な顔をした彼女は、優しく微笑み「どうしたのー?」と聞いてくる。


 めっちゃ、優しそう……。

 国語が全く出来ない私が抱いた、語彙力皆無の感想だった。

 嬉々としながらも表情には出さず、私は如何にもこれが普通のことだと言う風に、極自然に台詞を続けた。

 

「いやえっとね。同じ一年だよね?」

「うん。そうだよ」


 彼女は、変わらない優しい表情で答えた。

 ──ちなみに、私がこんなにも友達作りを焦っているのには理由がある。

 大学デビューもあるけれど、一番の理由は八月上旬の前期実技試験にあった。

 オリエンテーションで初めて知ったことだが、実技試験は必ず複数人が必要だった。

 先生が言った言葉を覚えている範囲でそのまま引用すると、『試験はソロ、二重奏、アンサンブル。どのような形で受けても構いません。ソロ曲の場合は伴奏者を。伴奏者が見つからない場合は、演奏員に依頼してください』という。

 ここはそんなボッチ殺しの大学だった。(大学のホームページにはちゃんと大きい文字で書かれていた)

 演奏員とは──変な言い方をすると、外注のお友達である。

 依頼するとなると、かなりお金がかかるだろうし、何となく虚しさもありそうなものだった。

 生憎、今の私には無駄に使えるお金が存在しない。

 だから私は、一緒に試験曲を演奏してくれる様な、そんな友人が欲しかった。


 深呼吸を一つ吸う。


「あ、あのさっ」


 言うべき言葉を頭の中で唱えてみる。

 『友達になってください』文字に起こすと、たった十文字だ。

 いける。私なら、いける。

 言い聞かせて、なけなしの勇気を振り絞り。

 私は言い放つ。


「……お友達に。……なりませんか」


 囁き声の様な、自分の耳にも届かない小さな声だった。

 だが。それに気付かないくらいに、私は疑問に思ったことがあった。

 ……普通『お友達になってください』って、初対面で言わんくない?

 こういうのって『あなたって音楽科? 私も音楽科なんだ! よろしくね!』みたいな感じで、そのまま流れる様にラインを交換して、ついでに『インスタやってる?』ってインスタのQRを見せ合う感じじゃない?


「えっと、友達? になりたいの?」


 聞き返す彼女は、きょとんとした顔だった。

 恥ずかしかった。恥ずかしかったけど、その問いはありがたかった。

 私にはもう、頷く以外に出来そうなことは無かった。

 ので、勢いに任せて声を投げる。


「そ、そういうこと!」

「そっか。私、この大学来てからまだ友達はできてないから、そう言ってくれて嬉しい」


 彼女は再度、笑った。

 そんな温かい笑みのまま「えっとね」と私の目を見ながら、彼女は二の句を告げる。


「私は、古賀こが楓花ふうか。見ての通りトランペット専攻。出身は宮崎、下にある県ね」

「あ、私も宮崎! えーっとね。私は音海おとみ日菜子ひなこ。楽器はチューバ。よろしく!」


「よろしくー。音海さんか……。しかも宮崎。じゃあ、親しみを込めて『おとみん』で!」

「お、『おとみん』ですか!」


「え。ダメだった? あー確かに、苗字の方だしねー」

「いや! いやいやいや! むしろ全然いいというか、なんと言いますか!」


 心臓がドキッとする。

 やばい。すっごくドキドキしてる。

 呼ばれた『おとみん』というその響きを脳内で復唱してみる。

 ジーンと心に広がる何かがあった。

 感動のあまり震える。


「ちょ。おとみん大丈夫?」


 あぁ。おとみん。素晴らしい。

 自分の苗字が誇らしい。ありがとう、ご先祖。

 古賀さん──否、ここは『古賀っち』と呼ぶのが礼儀だろうか。

 それとも『ふうちゃん』とか……。これもいいな。

 ともかく、ここは『古賀っち』と呼ぶとしよう。


「大丈夫。感動していただけだよ、古賀っち」

「あ、私のことは普通に楓花でいいよー!」


 玉砕だった。

 先までの盛り上がりすぎた想いと相殺され、私の心は冷静を取り戻してきた。

 対する古賀っち──じゃなくて、古賀さんは天然なのか嫌味の無い様子だったので、少し安心した。


「……あ。じゃー。ふ、楓花……?」

「うんうん」


 結局名前呼びになってしまったが、けれどこちらも友達らしくて好きです。

 らしい、というよりも、私たちはもう友達ってことでいんだよね。

 ちょっと不安だけど、そういうことにしておこう。

 内心少し引っかかりを持ちつつも、続く言葉に耳を向ける。


「というか、おとみんはチューバなのか。意外な感じだね」

「あはは。確かに。チューバって一般的な金管楽器の中じゃ一番でかいもんね」


「そうそう。そんな大きな楽器を、こんな美人さんが吹くだなんてねー」

「び、美人⁉︎ そ、そうかな……」


 またまた心臓がドキッとする。

 嬉しい。すごく嬉しい。

 思わず下を向いて、「へへ」とはにかむ。


「そうだよ!」

「それを言うなら楓花だって、凄く綺麗だよ……」


 なんだこのやり取り。

 思ったことを伝えただけなのに、すっごく恥ずかしいんですけど!

 楓花は嬉しそうにぽりぽりと頬を掻きながら「ふふ」と柔和に微笑んだ。

 楓花が笑うたび、私の中がとても温かくなるのを感じる。


「ありがと。でも、私は全然だよー。……あ、容姿の話で思い出したんだけどさ」


 と、急に話題が変わりそうだったので、私はうんうんと傾聴する体勢に入る。

 

七瀬ななせ琴音ことねって知ってる? 私たちと同じ一年なんだけど。背がめっちゃ低い」

「えっとー。いや、知らないかな。……有名人とか?」


「私の中では有名人かなー。宮崎の子だしね。その子、チューバなんだけど、数年前の音楽コンクールでグランプリ獲ってる。ソロで。あぁ、それとね、大学試験。実技を除いて、全部トップの成績だったんだって!」


 …………ん⁇

 チューバで、ソロコングランプリ?

 大学試験、実技以外トップ?

 しかも同期?

 

「そマ?」

「マ」


「……な、なるほど。まるで雲の上の存在だ」

「だよねー。そしてね、見た目はまるでお人形さん! すっごく肌が綺麗。……と言っても、間近で見たのは今日が初めてなんだけどね」


「漫画のキャラみたい……」

「うんうん。凄い」

 

 本当に凄い──というか、何というべきか。

 その様な有名人が、私と同じ楽器って……少し不安だ。

 ……いや、今考えるべきことではない。一人になった時に、存分に不安になろう。

 私はその様な思考に至り「それは置いといてさ!」と、手をパンと叩き本来の目的に移る。


「んー? なーに?」

「えと、そういえばなんだけど……前期実技試験さ。何の曲吹くとか決めた……? 決めてなかったら、私と他の人とか集めてさ、アンサンブルやりたいなーとかって、めっちゃ勝手に思ってるんだけど……」


 恐る恐ると聞けば、楓花は「あー」と明後日を見ながら呟いて。

 視線は徐々に私に移り、申し訳なさそうに顔の前に手を合わせた。


「ごめんね。私もう、トランペットの子と二重奏しようって話になってるの。ほんとごめん!」

「あ。あ、あぁ! いやいや! 全然気にしてないよ! わ、私はソロ曲でもやろうかな!」


 言いつつも、内心はとてもがっかりだった。

 というか、友達いたのか……。

 『大学に来てから友達できてない』……って言ってたけど。

 そっか。前の学校の友達とかなのかな。

 ショックだけど。しょうがないか。

 だからと言って、私たちの関係が壊れるわけではない。よね?

 

 飛び出そうになる溜息をグッと堪え、笑ってみせた。

 私の笑顔に楓花が笑い返した。

 数秒が経ち、話題が尽きたかと思われた、その時だった。

 何か、影が私の後ろに覆い被さり。

 かと思えば、


「ねぇ、楓花」


 私の友達のその名を呼ぶ、声が聞こえた。

 反射的に声の発現場所を見ると、私の事を睨む様な目で見る美女が一人。

 私と同じボブ。輝き、どこか白さが見える緑の黒髪だった。


「あ、桃杏もあ。おかえり」


 楓花が、美女の名前を呼ぶ。

 『もあ』と呼ばれた彼女は「ただいま」と不機嫌そうに答えると、訝しげに私の事を一瞥し、楓花に向き直る。

 『もあ』って……ジャイアントモア? ごめんなさい違いますよね。

 

 閑話休題、兎も角だ。

 不機嫌そうな彼女の表情を見るに、私は歓迎されてないらしい。

 チラチラと私の事を吟味する様に見ながら、楓花に問いを投げていた。

 

「……この人、誰? 彼女?」


 んな訳あるかい。

 

「さっき友達になった、おとみんこと音海日菜子ちゃんだよ!」


 楓花はその素っ頓狂な問いに、変わらず明るい調子で私を紹介した。

 よかった。ちゃんと友達って認識してくれてた。


「ふーん。おとみんね」


 また、チラと私を見てきて。

 身体ごと私に向け、彼女は私に手を差し伸べた。


「よろしく。私、藤崎ふじさき桃杏もあ


 なんだか全然よろしくされていない様な気がしてしまうのは気のせいだろうか。

 私は、少しおどおどしながらも、差し出された手を握る。

 ひんやりと冷たくて、そして──。


「ど、どうも……。よろしく。音海日菜子、です」


 不思議と、握られる手は痛かった。

 痛かったというか。痛い。超痛い。

 やばい。離して欲しい。

 あれ? なんだか凄い良い笑顔なんですけどこの人。

 笑った顔も美しい──とかそんな描写をしている場合じゃなくて!


「ちょ、っと?」


 私も笑顔で対抗し、首を傾げて声を飛ばす。

 

「どうしたの? おとみんこと、音海日菜子さん?」


 更に笑顔だった。

 『おとみん』の部分だけ、やけに強調されている。

 握られた手をくねくねと踊らせてみるが、離れる気配は一切もない。


「少し、力が強いなーって。というか、も、もう良いんじゃない?」

「楓花のお友達なんでしょう? おとみんこと、音海日菜子さんは」


 威圧感を、顔面で受け止める。

 何故こんなにも歓迎されていないのだろうか、と少し考えてみる。

 楓花とジャイアントモアさん(仮名)は、この様子だとかなり仲が良いのだろう。

 楓花が私の事を『おとみん』なんて呼んでいるから、嫉妬している。と考えるのが妥当?

 いや。そうだとしても、ここで首を横に振る理由は無かった。

 私たちは、誰が何と言おうとなのだから。


「いやうん。そうだけどぉおお痛たたたた!」


 喋っている途中で急に力を込められ、思わず叫ぶ。

 近くに座っていた学生の目が私を向き、私は顔を一気に熱くする。

 しかし楓花は不思議そうな顔で、こちらを見ていているだけだった。

 私たちの間にある謎のギスギスな空気を、楓花は見えていないらしい。


 同時に彼女は、私の手をパッと離した。


「おとみんこと、音海日菜子さん。……じゃあ、また、ね?」


 妖艶ようえんに微笑んだ彼女は、楓花の手を握ると。


「さ、行こ!」


 快活に言い放ち、仲睦まじく食堂を去っていくのだった。


「あ、おとみんまたねー」

 

 その背中を見送る呆然と立ち尽くした私は、

 手の痛さを覚えつつも、虚無感をより強く覚えていた。


「なんか急に私、ぼっち……」


 友達はできたのだから、今はそれで十分満足するべきなんだろうけど。

 うまくいきすぎたせいか、この虚無感が非常に辛い。

 でも。まぁ、ラインとかで繋がれる大学の同期が出来ただけ良かったよね。


「あ……」


 ライン聞くの忘れてた。



      ※



「はぁ……」


 溜息を吐きながら廊下を歩く。

 結局あの後、虚無感に押し潰されそうになった私は、楽器庫に仕舞っていたソフトケースに包まれたチューバを取り出し、ランドセルの様にそれを背負って、練習室に向かっていた。


「重い……」


 溜息と共に、心の声も漏れてしまう。

 チューバはとっても重い。背負い慣れてない私にとったら尚更である。

 ちなみに、チューバのケースには、ハードケースとソフトケースの二つがある。

 二つのケースの違いは、と言えば。持ち運びのし易さ、丈夫さにあるだろう。

 持ち運びがし易く、丈夫さに難ありなのがソフトケース。その逆がハードケースの特徴だ。

 と言っても、私はチューバを始めて日も浅いし、余り詳しくは無いんだけど。


 私はソフトケースであり、今はそれを背負っている。

 確か14キロくらいだったかな。めっちゃ重い。

 だが。練習室がある音楽棟までもう少し。

 音楽棟入ってすぐの練習室に入れば、私は救われる。

 そこで溜まった複雑な想いをチューバに込めて、吹き飛ばそう。


 なんて思っていると、もうそこは音楽棟だ。

 入口を抜けると、様々な音が私の耳に届く。

 透き通るソプラノの声、刺す様なトランペットの、私の横を通っては消える音の塊。

 風の様に私の身体を撫でるフルートの美しい音色。

 それら全てが美しい事に気付き、音大はやはり凄いなと実感し、音楽の意欲が湧く。


 ──いや。

 

 ただ、しかし。それらの音に混ざる、多少不快な音一つ。

 ピアノだ。この音色は一般的には綺麗なのだろうけど、私にはそうは届かない。

 少しだけ恐ろしくて、私の心を少しだけ蝕むような。そんな音。

 

 私はピアノの音が嫌いなのだ。

 一時期は聞くだけで胸が苦しくなっていたが、今はもう回復している。

 理由はあるのだけれど、思い出すだけでも吐き気がしそうなのでやめておいた。


 私は他の楽器の音だけに耳を傾けながら、手前の空いている練習室へと足を踏み入れる。

 肩の荷を下ろし、ようやく私は一息つけた。


 グランドピアノ一台、譜面台一台、メトロノーム一台。

 それらが詰め込まれた、かなり狭い個室。

 チューバの私にとったら、これは他の人が思う以上に狭いと感じてしまう。

 練習室はここしか無いので、しょうがないと納得する他ない。

 溜息を吐くと共に、油圧式のピアノ椅子に腰を下ろす。


「……あれ?」


 と、同時に、一冊のノートが目に入った。

 グランドピアノの蓋の上に置かれたそれを拾い上げる。

 誰かの忘れ物だろうか。

 表紙には「したいことノート」と小さな丸い文字で書かれている。

 裏面を見てみると端っこに、これまた小さな文字で「七瀬琴音」と書かれていた。

 その名前に見覚えと聞き覚えがあり、記憶を辿るとすぐに見つけた。


 あぁ。音楽の天才少女、だったっけ。


 チューバってことは、一緒に演奏する機会もあるのかな。

 だとしたら、私の演奏、凄く見劣りしちゃうだろうなぁ。

 なんだかそれって……超憂鬱。

 だけど、しょうがないか。

 そもそも経験年数が違う。

 向こうはきっと幼い頃からやっているんだろう。

 比べて私が始めたのは、高三の九月辺りだった。

 チューバに運命の出会いをして、それで練習を始めて。

 とっても遅い。とてもギリギリだった。

 それこそ大学に受かったのだって最早奇跡。

 だから。私はここから上手くなればいいだけだ。

 何の為に音大に入ったのかよく思い直そう。

 技術が無いから、技術を磨くためだ。

 他の人が上手いからって、ここは左右されずにいこうじゃないか。


 と、勝手に落ち込んで、勝手に盛り上がりを見せた私の脳内だった。

 意識した途端、焦点が思考から現実へと合う。


 そうだった、そうだった。

 この『したいことノート』なるものは……えーっと。この「七瀬琴音」の持ち物ってことだよね。

 じゃあ。忘れ物……ってこと、かな?

 さっきまで、ここで練習をしていたのだと思う。

 忘れたってことに気付いたら取りに来る、よね?

 中を見てみたいけど、プライバシーの侵害だからやめとこう。

 これについては一旦は思考から取り除いて、練習しよ。


 私はソフトケースから銀色のチューバを取り出す。

 マウスピースをケースから出し、接続部分に取り付ける。

 ピアノ椅子の高さを調節し、グランドピアノに背を向けて、チューバを抱きながらそこに座る。

 太ももに滑り止めを配置し、チューバを設置。

 重く、体勢を崩しそうになりながらも、私は口をマウスピース部分へと運んだ。

 何を吹こうかと考えながら、楽譜も無かったので入試の時の曲をしようか、と。

 私は楽器に軽く息を吹き込み、一旦口を楽器から遠のかせて、近くにあったメトロノームのゼンマイを片手で器用に巻き、起動させる。

 テンポは適当に132、アレグロに合わせた。

 カチカチカチカチ。メトロノームの音は意外にも鋭く。意外にも耳に痛い。

 その時、視界の端に映るもの一つ。それは勿論、先のノートだった。


 私は吹こうしていたチューバを、何故か床に置いていた。

 なぜだろう。私の好奇心が意地悪を働く。

 書いてあるものは何だろうか、と。

 楽器が上手くなる秘訣でも書いてあるのだろうか、と。

 一度思い出してしまったら止まれず、椅子から立ち上がりノートを拾い上げた。

 

 「したいことノート」と書かれたそれは、あまり中身は想像できない。

 むしろ、それ故に私は止まれなかった。

 一ページを開くと同時に、プライバシーの侵害を犯した。


『私はここに。音海日菜子さんと、したい10個のコトを記します!』


 そこにあったものは。

 でかでかと、一ページ丸々使って書かれた可愛らしい文字だった──って、え?

 音海日菜子。音海日菜子。なぜ、その文字が書かれているの?

 無論それは、私の名前だ。

 けれど。私はこの人と、何も面識がない。

 同姓同名? だとしてもそれの確率は圧倒的に低いだろう。

 ならここに書かれているのは、私の名前であるのがどちらかと言えば自然だ。

 というかそれ以前に「したい10個のコト」ってなに?

 分からないけど。……この先に答えが載っているのかな。


 捲る。

 罪悪感も覚えずに。好奇心のみで、ページを。

 

『したいこと一つ目。お話をする!』


 大見出しに、無機質な黒なのに、どこかキラキラとした文字。

 下には、ズラーっと、みっちり文字が埋まっていた。

 何をそんなに書くことがあるのか、というくらい。

 確かに文字は可愛らしい、が、可愛らしさを忘れさせる程の文字列。

 しかしブレーキは効かず、目を通す以外の選択肢は無い。


『やっぱりこれが第一歩目。10個目をして貰う為には。いや、為にはじゃなくて、そもそもの、全ての事柄に置いての第一歩、だよね。……けど、いつ話そうかな。そればっかり考えてるけど。でも。まだまだ時間はあるから。入学式の一ヶ月後までに、その方法はなんとか考えておこう。……けど、音海さんが別の大学に合格してこの大学を蹴るなんてことも、有り得てしまうのかな。それに関してはもう、信じる以外の事はできないよね。それでもし、音海さんがこの学校にこなかったとしても、音海さんを見れたことに、これはとっても価値があるものだと思う。試験でチューバを背負った音海さんを見た時、運命だと思った。それ以外を疑わなかった。ようやく初恋に、私は』


 ハッとした私は、漸くノートを閉じる。

 「したいことノート」と書かれた表紙は、読む前とは全く違う色を放っていた。

 

 ……変だ。体温が上がる。上がる。

 このノートは、私への、何?

 理解しているはずなのに、うまく纏まらない。


 私は今、酷いことしているのだろう。

 読んでしまったこと、謝らないと。

 でも──。


「──はぁ。──はぁ」


 何故か呼吸が辛い。

 キツイとかじゃない。何なら全くもってキツさはない。

 喜ばしさ? そういう類の物だ。

 おかしい。何かが、おかしい。


 困惑し、ただ立ち尽くした。

 膠着状態で、数十秒が経過する。

 その時だ。


 ──バンっ。


 練習室のドアが勢いの良い音を立て、うるさく開かれる。

 反射で見れば、息を切らした可愛らしい少女がそこにいた。


『華奢な容姿に低い背丈。まるで人形の様に綺麗な肌』

 

 どこかで聞いた情報が引き出され、照らし合わされ、一致した。

 七瀬琴音。恐らく、その人だった。


 そして正しく、少女だった。

 セミロングの、栗色を思わせる茶色は、薄く。細く、透き通る。

 握ったら潰れそうなくらいの華奢で、美しい白さの肌。

 耳横あたりに、如何にも少女らしい可愛い白い花の髪飾り。

 見た目のせいか大きく見える彼女の瞳の中は、汗か涙か少しだけ濡れていた。

 ──そう。本当に見た目だけなら少女だったのだ。

 だが私は、彼女を少女だとは、とても思えなかった。

 見た目は完全に少女のそれだ。背も私に比べてかなり低い。けれど、違う。

 前にいるのは。可愛らしくて、それでいてとても美しい、一人の女性だった。


「……み、見ました、か?」


 自然な上目遣いで、彼女は私の顔を覗く。

 彼女が口を開き、それに混じるメトロノームの音が鬱陶しい事に気付く。

 思いながらも、私はすぐに目の前で手を合わせた。


「ご、ごめん。ほんと悪気は無くて!」

「どこまで……?」


 震えた声だった。何か、緊張しているのかもしれない。

 なんのことだろうと思ったが、理解は早かった。

 ノートをどこまで読んだか、そういう事だろう。


「えと……。最初の一つ目のしたいこと? の途中まで……」

「じゃあ、バレたんですね。私の秘密。……そう、バレたんだ」


 声量はディクレッシェンドし、やがて消えた。

 溜息混じり。呟くその声には、若干だが喜びの色が混じっている様だった。


「本当にごめん! 何でもするから!」


 勢いで追い討ちをしたつもりだったが。

 勢いが良すぎて、言葉を整理できておらずに迂闊な事を口走る。

 「あ……」と漏らした時には、もう遅かった。


「……ん?」


 もちろんと言うべきか、彼女は引っかかりを覚えて。

 まるで弱った獲物を仕留めるかのように、すぐに問うた。

 しかしこれじゃ、どっちが弱った獲物かピンとこない。

 はい、私です。


「て、適当な事を言う音海さんには。何でもして貰いますから、ね?」

「……う、うん」


 頷くことしか出来なかった。

 なぜならこの状況、悪いのは完璧に自分なのだから。

 ここで断ってしまうのは、そう。完全な悪者になるのと同義だ。と思う。

 

「……そ、そう」


 彼女は俯いてポツリと漏らす。

 隠れ切らなかった微笑は、私の目にしっかり映る。


「じゃ、じゃあ。その前に……。バレたのなら。私の口で伝えさせてください」


 刹那。私の心臓の鼓動が早くなる。

 伝える内容が。きっと、ノートの内容だからだ。

 言われることを予測して、私は心臓は速度を上げていた。


 彼女は顔を上げる。

 真っ赤に染められた顔だった。

 彼女の柔らかく荒い息が、私に当たる。

 対する私も、荒い息を彼女に向けていた。


 メトロノームがやけにうるさい。そして乱れている。

 しかし違くて、私の心臓の音が、私の普段のテンポとズレているだけだった。

 即刻アレグロを越した。今までに無い、早鐘の様に早く鳴る心臓の高鳴り。

 そう。高鳴りなのだ。

 心臓がただ鳴っている訳では無く、高鳴り。

 私はそれを、非現実的だと思いながらも受け入れた。


 ゴクリと、唾を飲み込む音が個室に響く。

 どちらが発した音なのか、考える暇も、思い出す暇も与えずに。

 背伸びをし、私の前にずいと顔を近付けてくる。

 それはまるでキスをされるようで。

 なのに後退あとずさりも何もしなかった自分が変に思えた。

 七瀬琴音は、意を決した様に。小さな声で、こう言ってくるのだった。


「ずっと前から、あなたが好きでした」


 言われた刹那、心臓は壊れた。

 しかし冷静ではあった。

 驚異と恋心に似た何かから、至って論理的に心臓は壊れたのだ。

 恋心に似た何か。そう思ってしまった自分が更におかしい。


「……うん」


 呟くと、彼女は背伸びをやめて、再び顔を伏せた。

 耳まで真っ赤っかだった。

 けれど私も、きっと人の事を言えないくらいに赤いのだろう。

 今まで感じた事ないほどの体温だ。

 コンサートホールの上でも、こんなに身体が熱くなったことは無かったのに。


 私たちの間に静寂が訪れる。

 鳴っていたメトロノームはいつの間にか止まっていた。

 しかし、少しも静かとは感じない。

 心臓の音だけじゃない。

 何か、私を取り巻く何かが、鬱陶しくて仕方がない。


「その……なんでもして貰う、その内容ですが……」

「……うん」


「こ、この。ノートのしたいこと10コ。……全て、して貰います」

「えっ……と……」


 正直、若干困惑した。

 けれど──、


「だってしょうがないですか。私の秘密を、見たんですから」


 そう言われると、何も言い返せない。

 

「……分かった。いいよ」


 私は渋々──いや、そうでも無く。

 極小の期待をしながら、彼女の小さな声に応じるのだった。


「一つ目の叶いましたので。……じゃあ次は」


 私の手からノートを取り上げた彼女は、パラパラと捲りすぐに止める。

 ノートを開き、後ろに自分の顔が隠れるようにして、私に見せてきた。


 書かれた可愛らしい字の大見出しに、私は目をやる。


『したいこと二つ目。一緒にご飯を食べる!』


 ノートが少し下がり、ひょこっと可愛い顔が現れる。

 恥ずかしそうに、目をうるうると輝かせ、まるで姉に甘える妹の様だ。


「ちなみに。……私のしたいことは、段々とハードルが上がっていきますからね」


 私は小さく「分かった」と囁き声を発す。


「……覚悟、していて下さい。それじゃあ、明日……」


 踵を返した彼女は、ドアを開けると駆け出した。

 何となしに、見失った彼女の背中を追い、私もドアを抜けその背中を見た。

 美しい髪をバサバサと左右に揺らしながら、小さい体が更に小さくしている。

 廊下を駆ける、彼女の靴音は依然として大きく。やがて、姿と共に消えた。

 私の心臓は未だドキドキと、恐ろしい速度で脈を打っている。

 だが。いなくなったお陰か、それも長くは続かず、落ち着き出す。

 今、目の前で起こった事を簡単に整理してみようかと、私は思考した。

 

 えっと。つまり。

 七瀬琴音は、私に試験会場で一目惚れをして。

 それで。私がこの大学にくるかも分からないのに『したいことノート』を完成させて。

 私はそれをさっき、偶然にも見てしまって。

 今、本当に偶然に出会えて。告白をされて。

 明日、一緒にご飯を食べることになった……?


 整理しても、整理できているのか謎だった。

 だって。聞いた話だと、音楽の天才少女らしいじゃないか。

 そんな子が、私に惚れるなんて。疑ってしまわざるを得ない。

 しかしその疑いは一瞬で、あの顔を思い出せば、疑う事は野暮だと気付かされる。


 だから──。と、その前に。言い訳一つ。

 ──私はきっと、ちょろい。

 それはもう、超が付くほどに。

 好きって言われて、こんなにも心臓を動かしてしまっているのだから。

 

 あぁ。落ち着いたけど、まだドキドキはしている。

 この気持ちを何て呼ぶのだろう?

 なんて在り来たりな問いかけをしてみる。

 だけれど、そもそも問う必要も無く、答えは決まっていた。

 今の私が抱く想いを、端的に分かりやすく説明するのだとしたら、何の疑いも無く私はこう説明するのだろう。


 ──私は、七瀬琴音に一目惚れをした。


 異常気象の様に唐突に訪れた私の春。

 唐突すぎて、訳が分からない。けれど、それは中々どうして、とても素敵で華やかな大学デビューじゃないかと、そう思ってしまった。




【あとがき】

お久しぶりです!

沢谷です!暖日です!


前作に比べ、重い成分がほぼ無い、女子大生二人の百合いちゃラブです!

前々作キャラがチラッといるのですが、それは単に作者が好きなキャラだからです😇

ストックは8万文字(このエピソード含め)あるので、徐々に投稿していきます!

よろしくお願い致しますm(_ _)m

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