セレナーデ

 風呂を上がり、髪を乾かし、部屋に戻り、二つの布団を敷いて消灯。

 えぇもちろんそれ以上のことは無かった。

 まぁまぁ。これは先ほどしょうがないかと納得したので。

 だけど。実際に何も起こらなかった、というのは少し悲しさもあるものだった。


「おやすみ。琴音」

「おやすみなさい。日菜子さん」


 暗い天井を眺めながら、おやすみを交わし合う。

 二度目の事後だけれど気まずさは特に無い。

 これがマジもんのえっちなら多少は気まずいのかもしれないけど。

 私たちがしたのはハグとキスだったので、気まずく無かったのかもしれない。

 マジもんのえっちって言っても、私はそこら辺の理解が深く無いので少し学びが必要だなと思った。

 って。これだと絶対するみたいになってるけど……まぁ、いつかはしたいよね。という感じだった。


「子守唄流しますね」


 琴音は言った。

 眠れないということを発言で察し。次に、流される曲も察した。


「……あれでしょ。私の『英雄ポロネーズ』」


 琴音は「はい」と答えた。

 前に言っていた、寝る際に子守唄として聴いているらしい私のコンクール音源だ。

 ピアノ曲なので『唄』では無いのだが、ここは触れないでおこう。


「聴けますか? まだダメそうならイヤホンで聴きますけど」

「いや、多分大丈夫。琴音のお陰で克服できたと思うから」


 言うと、琴音は嬉しそうに「そうですか」と暗闇に呟いた。

 ぽちぽちとスマホを触る音が隣で聞こえて、その音が止まったかと思われた瞬間に。


 ──ダーーーン!!


 重々しいミ♭の3オクターブが聴こえた。

 英雄ポロネーズ。最序盤。

 静寂を切り裂くには十分すぎる程の力強さ。

 この時点で不快感を覚えていないということは、聴ける演奏なのはその通りだった。

 発生する音は、すんなりと私の耳に入り脳へと届く。

 サビの快活な場面も、かっこいいなと素直に思えた。


 曲のサビ部分を経て、中間部分。転調。私的にはここは最難関だ。

 左手でオクターブを十六分音符でずっと刻まなければならない。

 ただそれだけならなんとかなりそうだが、右手との兼ね合いがまぁ難しい。

 今、私にここを弾けと言われたら、あまり弾ける気がしない。

 そもそも私には約三年のブランクがある訳で。……微妙そうだった。


 更に曲調の変化が訪れる。

 ここはこの曲の中で、最も落ち着いたところだと思う。

 悲哀に満ちているとでも言えばいいとだろうか。


 最後のサビ。

 そこへと迫るアラルガンドは私自身とても好きだ。

 咲き誇るのを待ち侘びた花が、一気に満開になる感じだ。


 そして最高のフィナーレへ。

 曲はポロネーズのリズムと力強い打音で締められる。

 同時に巻き上がる盛大な拍手の渦。


 これが私──音海日菜子の演奏。

 きっと拍手を貰っている時、私は一位を確信していたのだと思う。

 何故そんなことが確信できたのか。

 それは最高の演奏をしたから。これだけだ。

 今聴いても、この曲は私の全てがぶつけられている。そう思わせる演奏だった。


「私。日菜子さんのこの演奏が、凄く好きなんです。何せ一目惚れしたくらいですから」

「……ありがと。嬉しい。……具体的にはどの辺が好き?」


「……んー。長くなると思いますが、それでもいいなら」

「全然いいよ。むしろ嬉しい」


 嬉々として答えると、琴音は「了解です」と、これまた凄く嬉しそうに返答した。

 コホンとわざとらしい咳を一つしたその後に、琴音は言葉を追わせる。


「……まずですね。最初のオクターブ。……あれは震えました。すごく震えました。実際に日菜子さん以外の人の演奏も聴いたことがあったのですが。単純に見えるあのオクターブも弾き手によってかなり色を変えるんだなって思いましたね。……そして次の小節。あそこをあんなに音の粒をはっきりと弾ける人はピアニストでも中々いないと思いますよ。私も日菜子さんに憧れて英雄ポロネーズをしてみたんですけど、もうそこで私はギブアップしましたね……。そして次の小節、音の処理の仕方がとても丁寧ですよね、その上力強くて。もう最強ですよね。そして次。十六分音符を両手で弾くアレですが、本当に全てが纏まっているというか、なんか日菜子さんの演奏って『右手と左手で弾いてる』というよりは一つの音楽なんですよね。……そして次ですが、序盤のリズムの繰り返しではあるのですが、最序盤と比べて確かに色が違うんですよね。どうやって弾き分けているのか凄く気になりました。そして──」


(ry


「最後のポロネーズの刻み。あれはもう、日菜子さんの全てを感じましたよ。もう曲が終わる前に拍手をしそうになりました。ピリピリと身体が震えて。もう凄かったです。……好きなところはそれくらいですかね。自分語りもかなりしてしまいましたが……」

 

 あろうことか。

 本当にあろうことか、琴音は少なくとも一時間は私の一曲について語っていた。

 ほぼ一小節ずつであり、尚且つ丁寧。そして早口だった。

 私の英雄ポロネーズの全てが好きなのかと思わせる熱弁だった。

 ずっとこの想いを私に伝えたかっただろうと思う。恐らくね。


「私の前に英雄が現れた心地でした。変な例えですが」


 琴音が最後の最後に、それだけ付け足した。


「……うん。凄く嬉しい。ありがとう」


 凄く嬉しい。言った通りだ。

 やはり。自分の音楽を他人に褒められる。

 この場合は琴音に褒められたからかもしれないが、それは本当に嬉しいことだった。 


 そして、一つの疑問が解消された。

 これに気付いたのは、今更すぎると言えた。

 私は琴音にそれを告げた。


「琴音って。最初から頑なに敬語だったよね。なんだか、その理由が腑に落ちた気がする」


 酔っていた時は、幼児退行していたせいかゴリゴリにため口ではあったが。

 あれに関しては、ため口を聞かれているという感覚はなく、子供に弄ばれるって感覚でノーカンだ。

 あ。待て。琴音がえっちになってた時もちょっとため口ぽかったけど──まぁそれもノーカンだ。

 性欲というアルコールよりも自分を酔わせてしまう物質が、あの時の琴音にはひどく回っていたから。


「……そうですね。日菜子さんは、私の憧れで、とても高い存在でしたから」


 琴音はしみじみ言った。

 憧れで、高い存在。嬉しい言葉だ。

 いや。それでも。少しだけ嫌だった。

 欲張りを言うようだけど、私は琴音と対等でいたい。

 その理由で敬語を使われているのは、少しだけ壁を感じた。

 欲張りなのは心底理解していた。……否、しているつもりだった。

 じゃないと、こんなことを言いはしないだろう。


「でも。さ。……私は。琴音に敬語を抜いて欲しいって思う。……私が琴音にとって憧れの対象でっていうのは、それは本当によく伝わって。でも、琴音は私にとっても憧れの対象なの。やっぱり対等でいたいよ」


 私も琴音の音楽が好きだ。チューバが好きだ。

 それは逆の立場でも、同じことを言えた。


 琴音は「うーん」と少しだけ唸った。

 でも少しだけだ。返答は案外すぐだった。


「……じゃあ。私の『したいこと9つ目』が叶った時。それでいいですか? いきなりは、少し恥ずかしくて」


 琴音の『したいこと9つ目』、それは『付き合うこと』。

 確かに。これこそ私たち二人が対等になると言えるのかもしれない。

 それでも少しだけ腑に落ち切らなかったけど、琴音の意思をねじ曲げる気はない。


「分かった。いいよ。それで」


 今、告白したらOKを得られたのか、どうだろう。

 振られることは無くて、多分普通にOKを貰えそうな気もする。

 でも。今はそれをするべきではなかった。理由は無い。


「……じゃあ。名前だけ『日菜子』って呼びますね?」

「ありがと」

 

 余計なことは言わなかった。

 琴音がそうしたいと言ってくれていて、私は素直にそれを受け取った。

 嬉しさは内面だけに留めて置こうと思ったけど、ついニヤニヤしてしまった。


「じゃあ。そろそろ寝ましょうか」


 言われた途端に、私を眠気が襲う。


「そうだね」

 

 今は深夜の何時だろうか。

 明日はちゃんと起きられるか、少し心配なところではある。

 チェックアウトは午前中に済ませればいいらしいから、大丈夫だと信じて。


「おやすみ。琴音」

「……うん。日菜子。おやすみ」


 琴音はすぐに安らかに寝息を立てて眠りに就いた。

 琴音の言った『日菜子』というその響きを、何度も頭の中でリピートしていた。


 私は琴音が好きだ。琴音に、恋に、私は溺れてしまっている。

 それでも私は。恋に溺れて。そのまま海面を目指さずに溺れ続けたい。

 恋は盲目と言うが、琴音以外なら何も見えなくてもいいのだろう。

 沈み続けて周りは真っ暗でも、目の前に琴音がいるのなら。それで。

 それほどまでに、好きだ。ベタ惚れである。


「…………」


 目を瞑る。と同時に。

 私は今日の15時からの勝負に絶対に勝利してやると、心の底から思った。

 なに。好きな人に自分のかっこいいところを見せたいという考えは、恋に盲目な自分にとって何一つ違和感の無い、純粋で潔く無垢で正直な、誰でも思いつく、ありきたりでありふれた、一人の恋する女子大生の考えだろう。

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