■■■■■したい100のこと
神坂さんは暫く下を向いたままだったが、暫くして顔を上げた。
目は赤く充血して、未だウルウルと涙が溜まっていた。
彼女は鼻を啜ると、深く呼吸をして落ち着かせたのちに私の誘いに返答した。
「……アンサンブル。……そう」
「そうそう。合奏ってだけでも、楽しいと思うよ」
私は未だ吹奏楽やオケの授業でしか合奏に取り組んだことはない。
だけど。その時間は確かに、一人で楽器を吹くのとはまた違った楽しさがある。
自分の音が音楽の一部になり、ホールに響いてるのが最高に気持ちがいい。
最近であれば、チャイコフスキーの『1812』とか最高だ。
フィナーレの金管楽器が大暴走する場所なんか、酸欠なっちゃうけどめっちゃ楽しい。
閑話休題。
神坂さんは、作曲コースのため。合奏系は取れない。
いや。作曲コースでも取れはするのだけど、前期は作曲コース必修の授業と被っていると聞く。
まぁだから。彼女は大学に入ってから、はたまたこれまでに、合奏の経験が無いのだと思う。
ここでアンサンブルをすれば、音楽をまた、楽しいと思えるのではと考えた。
しかし──。
「……私、生き急いでるから。無理」
私の誘いは呆気なく断られてしまった。
あまりにも。あまりにもあっさりとしていたので、少しだけショック。
「んー。でもさ──」
ここで食い下がるわけにもいかず、反論をしようと声を投げかけた、
その時──。
──ピロロロロロロロ。
雨の音すらもつんざく煩い音が鳴った。
私は肩をびくりと揺らしたが、神坂さん微動だにせず『はぁ』と溜息を吐くと、ケータイ電話をポケットから取り出し、パカりと開く。
ガラパゴスは絶滅していたと聞いていたが、生き残りがいたらしい。
ガラパゴスってアレね、ガラパゴス携帯。ガラケーね。
大学でこれを使っている学生っているんだなぁ、と謎の関心をした。
「もしもし。母さん。……うん、大丈夫」
神坂さんの話し相手はどうやら母親らしい。
ケータイ越しの声は聞こえなかった。
しきりに頷きく彼女の表情は、あまり良いものとは言えない。
負の感情が顔に表れ、少しだけ面倒臭そうにしている。
あと。目の中のウルウルとしていた涙は既に乾いていた。目元はまだ赤い。
「大丈夫。大丈夫だから。うん。……じゃあ、後でまた。迎え呼ぶ時に電話する」
──プツッ。
電話の切れる音。
電話越しから聞こえていた人の声らしきノイズも、強引に遮断された。
なるほど。どうやら彼女は母親と仲がよろしく無いらしい。
しかし。今は、それ以上に気になることがあった。
「ガラケーなんだ……」
割と当然の疑問だった。
「ちなみに、三年前まではポケベル使ってたけど」
もっと気になることが出てきやがった。
「ポケベル!? それは、90年代の代物ではなくて!?」
「私が好きだから使ってたってだけ。……でも、使えなくなるらしかったから、ガラケーに替えた」
「スマホで良かったんじゃない?」
「スマホはお金がかかるから。私のために、親には金を無駄にしないで欲しい」
「親は厳しいの?」
「全く。むしろ過保護。これでもか、ってくらいに過保護」
「ふーん。ならどうして?」
自然な流れの様に問うたが。しかし流れはここでせき止められてしまった。
「……さっきからなに? 私のプライベートに土足でズカズカと」
私にとっての自然な流れが止められるのは、彼女にとったら当然の流れだった。
少し口調を強めに言われ「ごめん」と、私は一歩、二歩と引いた。
パラソルの外に出て雨が頭部に触れたので、一歩前に移動した。
「……ん。じゃあ、私。まだここで練習するから」
「さようなら」と、また楽器を構える体勢へと入る。
「いや。だから、濡れちゃうよ? というか服とか結構濡れてるじゃん」
何も言葉は返ってこない。
彼女は楽器に息を込めるためか、ゆっくりと息を吸っていた。
ここで音が奏でられれば、私の言葉なんて届きそうになかった。
だから。その前に、もう一度。彼女に問いを投げる。諦めきれなかった。
「ねぇ。やっぱり。アンサンブルやってみない?」
彼女の呼吸は止まる。
何かを考え込むような沈黙があり。しかし、私から顔を逸らしてしまう。
明後日の方向へと。ぶつぶつと、何かを呟く声が聞こえ出し、
「無理。私、──」
続く言葉を理解した私は、そこへ強引に言葉を滑り込ませる。
「生き急いでる? でも。時間は一定に進んでいくよ」
これは咄嗟の、言うなれば無意識の言葉だった。
まぁきっと。このままだと彼女は動いてくれないって察して。
だから。少しだけ煽ってやろうと思ったのだろう。
「なに普通のことを深い事みたいに言って……」
「だって本当だもん。生き急いだら、何か色々なものを見落とすかもよ。今の、神坂さんみたいに」
明後日に向けられていた彼女の顔は、遂に私を見た。
悔しそうな顔だった。下手に刺激したら、また涙を流しそうだった。
「…………私が。楽器を楽しめていないのに、楽器を吹き続けていること?」
「そう。神坂さんは、ちょっと急ぎすぎかも。そんな後ろ向きに前向きに進まない方がいいって。……だからさ、ちょぴっとだけ、私に時間を貸してよ」
私は親指と人差し指の間に隙間を作り『ちょぴっと』を表現した。
神坂さんは悔しそうな表情をしながら、雨で濡れた地面を見た。
見える部分の表情は動かない。心の中で色々なものを動かしているのだろう。
やがて彼女は仕方ないという顔をして、根負けしたように、私を見遣った。
「分かった。ちょぴっとだけだから」
「ありがとう。じゃあ、やってみよう!」
私が嬉々として大きく頷く、彼女も少しだけ微笑んだ。
そして彼女はトランペットを横にある小さな机に置くと、
ポケットからシャーペンと、メモ帳の様な小さなノートを取り出した。
一瞬映ったそれの表紙には、こんなことが書かれていた。
『■■■■■したい100のこと』
既視感のあるそんな文字を見て。私は反射的に言葉を返した。
「したいことノート?」
身内ネタの単語を使ってしまったことを、数秒遅れでハッとする。
だが。彼女は顔色ひとつ崩さずに答えた。
「うん。そんなものだけど」
「あ。そーなんだ」
どうやら。ノートに『したいこと』を記すのは、私と琴音だけの文化じゃ無いらしい。
黒塗りの部分は、私と琴音の文化からはかけ離れた要素だけど。
何か誤字でもして、そこを塗り潰してしまったのだろうか。
少しだけ引っかかる。いや、凄く引っ掛かる。
「なんでそこ塗り潰してるの?」
「母さんに、塗り潰されただけ。私は何も。……いつの間にか、こうなってた」
母親に、黒く塗り潰された。
やはり彼女は、親との何かいざこざを抱えているのは間違い無さそうだった。
私は敢えて、そこに隠された二つのものには触れないことにした。
敢えてというか、当然だろう。
「……え、えーっと。今は、何を書いてるの?」
多少の気まずさを感じながら、私は話題転換を試みる。
彼女は開いたノートにサッとペンを走らせていた。
「ん」と彼女は、こちら向きに差し出した小さなノートの中身を指差した。
指された場所を私の視線が追いかける。
『合奏をしたい○』
追いかけ終えて、その文字を確認した。そして、他の文字も確認した。
大体が『〜〜したい』と書かれており、そのどれもが簡単な内容だった。
八個ほど『したいこと』がある中、目で追ったそれだけに○が付いていた。
その○が叶ったことに対して付けられる印だと気付き、私は少し目を丸くする。『少し目を丸く』なので、多分楕円形とかである。知らんけど。
「合奏したかったんだ?」
意外さを帯びる声を隠せずに問う。と。
彼女は若干恥ずかしそうにしながら頷いた。
「……まぁ。それなりに」
「なら話は早い!」
早すぎる。なんだ、したかったんだ。となるから。
『したい100のことノート』──と勝手に命名するが。それに『合奏をしたい』と書かれていたのなら彼女は何故『生き急いでいるから』と断ったのだろうか。
謎だったが。この謎は、いずれ解明されるのだろうか。
まぁ、それらは今考えても仕方の無いことだった。
「じゃあ──夕方五時くらいに中練習室予約するから、そこ来れる?」
「帰るのは六時くらいだと思うけど。それでいいなら」
と、時間と場所までスルスルと決まっていく。
だが。ここで、私は不意に思い出す。
「あーでも、まだメンバー確定してないんだよね……。しかもバランス悪いし」
考えてみれば、神坂さんの担当楽器もまたトランペットだった。
楓花、藤崎さん、神坂さん、私。
この四人は、圧倒的にバランスが悪い。
「今揃ってるのは? なんの楽器?」
「神坂さん含めると、ラッパ3。チューバ1」
「……分かった。人数多すぎるのも私、嫌だから。それでいいよ」
「あ、いいの? でも。まだ曲とか全然決めてなくてさ……」
これは確かに、大きな問題点だった。
先生はアンサンブルの楽譜は付属の図書館から借りろって言ってたけど。
こんなマイナーな構成の四重奏の楽譜なんてあるわけないだろうし。
「いいよ」
しかし彼女は、どうしてか肯定の返事を寄越した。
そしてガラケーを開き、画面を見て頷く。
「五時って言ったよね?」
「うん。その予定にするけど……」
「なら待ってて」
彼女は楽器ケースを持つと、トランペットを片手にすぐに屋上を降りた。
私と雨音と少しの哀愁を残して。
「…………孤独感すげー」
まぁ。良い方向に進んでよかった、のかな。
それと。これまた、少しだけ引っかかったことがある。
彼女──神坂さんは、大学内の変わり者として有名人だ。
私も、そういう認識をしていて。屋上に訪れた時も、変物だと感じた。
しかし。話してみるとどうだろうか。変わっていただろうか。
ただ。何か色々なことを抱えている女性ではあった。
やっぱり良くない。
簡単に人を変わってるとかって決めつけちゃうのは。
私も。この件は猛省しないとな。
「……ま。よかったよかった」
やはり、私のあの選択は、正解だった。
一見不正解のような、あそこで彼女に余計なお世話をするという選択だ。
『今は分かっても未来は分からない。今の選択肢が悪いものであっても、未来から見れば正解』
その教訓的な何かは、本当にその通りなのだと再確認。
私はそれを『未来信仰』と名付けた。教祖は私。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます