白石莉奈の演奏
晩御飯は美味しかった。以上。
この他に語るべきことは特には無いけど、それで済ますのも味気ないので少し付け足してみる。
えっと。食堂はバイキング形式であり。如何にも旅館、といった感じのメニューでは無かった。
それは寧ろありがたいことで、適当に食べたいものを皿につぎ分けていった。
琴音と談笑しながら、もぐもぐと食事を口に運んだ。それだけ。
それだけとは言うが、もちろん琴音との会話は楽しい時間だった。
だからこそ言える。
晩御飯は美味しかった。以上。
「……日菜子さん。私、売店に寄るので先に部屋に戻ってもらっていいですか?」
食堂から出た際、急に立ち止まった琴音はそんなことを口にした。
断る理由も特になく、何を買うのか気になりながらも私は頷く。
「おっけー。……あ、お風呂の用意でもしてれば良き?」
歩いてすぐに立ち止まり、温泉のことを思い出して私は横目で問う。
琴音は返事をすぐには寄越さず、何かを考えるような神妙な顔つきになったかと思えば、こう言ってきた。
「……あー。えっと。……とりあえずは、部屋で待ってて貰っていいですか?」
「分かった。りょーかーい」
※
部屋に戻り、琴音の帰りを待つ。
こういう旅館って部屋に戻ったら布団敷かれてるのかな、って思ったけどそんなことは無かった。
だが。どうやら掃除を除きそこら辺はセルフサービスらしい。
プライベートを守られてる感があるので、正直それでもありがたかった。
腹がそこそこ膨れた私は、牛になると分かってはいたが、畳の上にゴロンとだらしなく身を投げる。
「……」
目に映る焦げ色の天井。
見上げながら、私はぼーっとする。
私を取り巻く自然音すら耳に入らない。それほどの無意識。
だからか、私の脳が何かを無理にでも考えようとしたのか、一つ私の脳から泡のように何かが湧き上がった。
「……明日。どうしようか」
琴音と一緒にいたら忘れられたそれが、はっきりと浮かび上がる。
このことはあまり考えたくは無かったが、思考の泡の膜はどうやら簡単に壊せないほどに固いようだ。
しょうがないか、と思う他無く。私は少しだけそれについて思案してみる。
白石梨奈。去年のソロコンの福岡代表。
彼女が出場したソロコンが私たちと同じものかはともかくとして、かなりの実力者なのは間違いない。
如何程の実力か、事前に調べておきたいところだが、そう都合よく彼女の演奏を聴くことは──。
「……あ」
私は一つを思い付く。
地面に投げ出していた身体をのっそりと起こし、はいはいでスマホの元へ向かう。
取り上げたスマホで動画アプリを開き、私は彼女──白石梨奈の名前を検索した。
読み込まれたのちに現れたページの一番上に目を通す。
『2020年 ピアノ部門 福岡代表・白石梨奈』
ビンゴ。インターネットすげー。
そういえば琴音の時も、こうやって演奏を調べたんだっけ。
懐かしく思いながら、私はその動画のサムネイルに触れる。
動画の説明欄を見る限り、どうやら福岡で行われた予選の演奏らしい。
ホールが画面に映し出され、白石梨奈の入場と共にアナウンスが入る。
私は再び寝転がり視聴する体勢に入った。
「プログラム13番、白石梨奈。ドビュッシー作曲『喜びの島』」
なるほど。ドビュッシー。
しかも『喜びの島』。難易度はかなり高い。
私が弾いた『英雄ポロネーズ』と比べるなら──いや、比べるべき対象同士では無いとも言える。
英雄の作曲者であるショパンの作風はロマン派であり、ドビュッシーは印象派。
この二つの作風の間には隔たりがある。故に、比べるのは少し変なのかもしれない。
だが敢えて比べさせて貰うなら、単純な難易度で言うなら英雄が上。必要とされる表現力で言うなら喜びの島が上だろう。
私も過去に手をつけたことがあったが、喜びの島で必要とされる表現力には中々唸るものがあったと思う。
いや。
今は私の話なんてどうでも良くて、白石梨奈の演奏である。
どうやら準備は整ったらしく、鍵盤に置かれた右手が、今正に動き出そうとしていた。
「────」
──凪いだ美しい水面に広がってゆく一つの波紋。
冒頭のトリルは、正しくそういう演奏だった。
その水面へと大粒が一滴一滴垂れるような、左手の演奏。
私は思わず、息を止めていた。
音楽は弾き手・聴き手によって色を変える。
私が別の人の演奏を聴いたのなら、また別の印象を私の耳に与えただろう。
あぁなるほど。こんな演奏が出来るのだから、私から琴音を取り上げるのも容易だと判断したのだろう。
納得と同時に、悔しさが襲い唇を軽く噛んだ。
グランドピアノから飛び出る音は、キラキラと輝いて目に映る。
題名通りの『喜びの島』その楽しい様子を連想させてくれる。
補足としてこの曲の背景を簡単に説明するなら、作曲者のドビュッシーが当時の妻であるロザリーを置いて、銀行家の妻であるエンマと不倫関係に陥り、旅行先のジャージー島で二人ヒャッハーしてる時に作られた曲である。(諸説あり)
……と、これだけ聞くと割とサイテーなのだが。いや、これだけなのでサイテーではあるのだが。
しかし曲はと言うと、ドビュッシーの作曲的センスがかなり光り輝いている素晴らしい曲ではある。
それ程までに、エンマとの不倫旅行は楽しいものだったのだろう。(遠い目)
置いといて、このドビュッシーの最低なエピソードは、どこか今の私たちらしかった。
ロザリーを私とするなら、ドビュッシーが琴音。エンマが白石梨奈。
このエピソードは、何か今後の未来を暗示しているようで。
具体的に言うなら、琴音が白石梨奈の元へ行ってしまうという──。
なんて吐き気が込み上げてくる例えだろう。しかも、琴音の立場がこれだと可哀想だ。
そんなマイナスの思考から現実に引き戻されたのは、演奏が中間部分に入った時。
風が流れるような演奏が始まった。
そよ風とも違う、どこか力強さを感じる優しい風だ。
風が吹き終えると、今度は小鳥のさえずりの様な美しいメロディに入る。
この場面は喜びの島の最難関と言ってもいい。
白石梨奈はと言えばここで少し躓いた様だが、それでも鍵盤の上に指を躍らせる。
それもやけに楽しそうに。彼女は、音楽をしていた。
再現部を経て、遂にラストへ向かう場面へと入る。
ファンファーレの様なメロディは、非常に派手でゴージャスだ。
彼女は指どころか全身を躍らせるように、今にも立ち上がるかのように力強くピアノを鳴らす。
それを見て、思わず私の身体は震え鳥肌がぞわぞわと立ち出した。
華々しいフィナーレ。
最後。四段の鍵盤の階段を上り、一気に数段飛ばしで階段を降りる。
最後の最後は重低音で締められ、その独特な響きがホールに残った。
拍手が会場を包み込む。
仰向け状態の私も、思わず手を叩こうとしてしまっていた。
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