変態観測

 午後4時。私が住んでるアパートの自転車置き場で。

 バニラ色の自転車に跨って、両立スタンドはそのままにペダルを漕いでみる。

 大学生になると同時に買って貰った自転車は、未だ新品同様だ。

 ギアは2。後輪は地面に掠りもしていないというのに、かなり重く感じた。

 20回転ほどして息が上がる。私を見守る琴音から冷たい視線を向けられていた。


 なぜこんなことをしているのか、とその前に、これまでの経緯をば。

 アンサンブルを終え、今日の講義は終えていたので「帰ろうか」と、私のアパートまで琴音と共に向かうことになった。まぁここまでは良い。

 アパートまでは徒歩五分ほどだが、道中は若干の上り坂だ。

 そんな大したことのない坂道で私が息を切らしたものだから、琴音から「日菜子って運動できないの?」と。

 その問いに私は何故か得意げに「その証拠を見せてやるぜ」と、それが今。


「……日菜子。……入学当初に私と追いかけっこした時、結構走ってたよね?」


 足の動きを止め、自転車から降りる。

 途端に琴音からそんなことを言われてしまった。

 追いかけっこ。とは、あれだ。琴音が私に『英雄ポロネーズ』を聴かせた時の出来事だ。

 今では思い出の一部だけど、あの出来事が無かったら今の私たちの関係は存在しなかったのかなーと考えると少し怖い。

 置いといて。あの頃の私は少なくとも今以上には体力はあったと思う。

 しかし──。


「なんというか……自堕落な生活してたらこうなってた」

「ちゃんと運動しよう。ね? チューバも肺活量かなり必要だよ?」


 かなり心配されてしまった。

 ニートの姉を心配する中学生の妹の図の完成である。

 その発言に私の口は噤まれる。ぐうの音も出ない正論だった。

 琴音は私のそんな様子を気にもせず、頬を赤らめながら続けた。


「それと。……えっちにも体力は必要、だと思うよ?」


 琴音の顔は次第に下へ落ちた。

 確かに。と、私は「ぐう」と漏らす。


「……いるね。手とか、他にも色々と疲れそう」

「……うん」


 本番の際、私がバテてる姿を容易に想像できた。

 ベッドの上にだらしなく身を投げて、呼吸を荒げつつも。

 気付けば、泥のように眠っている。そんな姿を。

 それを思うと。体力は必要不可欠と言っていいものなのかもしれない。


「琴音は──体力あるよね……」


 まぁでも。私が一方的に攻められるのもいいのかなーと。

 そう思いながら、一つの事がパッと頭に入り込んできた。


「あ、自転車漕いでみてよ。さっきの私みたいに」


 と、促す。私との体力の差が、ふと気になってしまったのだ。

 琴音は『しょうがないな』という風に、よじのぼる様に自転車に跨った。

 身長の低い琴音じゃ、どうやら地面に足が付かないらしい。


「サドル下げよっか?」

「ペダルには届くから良いもん」


 不機嫌気味に言われる。

 琴音は背を低いのを気にしているのだろうか。

 思いつつ。琴音がペダルに体重をかけ出すのを見守る。

 しかし──いや、やはりというべきか。私の意識が向くのは琴音だった。

 意味なんて無くて、ただ琴音なのだ。


 今日の琴音の服装。下半身はスカート。

 短くもなく長くもない。単色のシンプルなスカート。

 吸い込まれるように視線がそこに移る。同時に好奇心が湧き上がってきた。

 私は周りに注意を向け、誰もいないことを確認しつつ、スカートを摘んでみる。

 琴音は漕ぐのに夢中で、摘まれていることに気付いて無いようだった。

 自分でも何しているんだ、と。思ったが、しかし好奇心には逆らえず。ペロンとスカートを捲ってみた。

 瞬間。琴音は足の動きをピタリと止めた。後輪が回る音が虚しく静寂に響く。

 危険を察知した私はそっと手を離して、スカートを自然な位置へと戻した。

 ちなみに白だった。


「……日菜子。何をやってるの?」


 琴音は自転車から飛び降りて、私に問うた。

 別に怒ってる様子は無く、ツンデレが4:6といった感じ。


「あ、あはは。見えないものを見ようとしまして……」

「変態を観測しました」


「琴音も変態だよー」

「日菜子ほどじゃない」


「琴音も変態!」

「日菜子ほどじゃない!」


「お酒を飲んだらもっと変態!」

「お酒を飲んだ私に流される日菜子が変態!」


「マーキングとか言って私にキスマ付けてくる琴音が変態!」

「キスマし返してきた日菜子も変態!」


 ──と。

 こんなやり取りが、もう暫く続いた。

 やがて琴音は観念した様に「じゃあどっちも凄い変態さん」と締め括って、別れの挨拶とした。


「……じゃあ、今日はここで。帰ったらラインするから、スマホの前で待機しててね」

「はーい。また後でねー」


「あと。明日までに体力付けててね」

「……善処する」


 そんな会話をして、互いに手を振り別れを交わす。

 背中を見せられて、それが消えるまで手を振った。

 途端に私を襲うのは、孤独感だった。

 それでも。明日への高揚感の方が圧倒的であった。

 

 なんと無しに、空を仰ぎ見る。

 大半を占める白。奥に見えるは灰色。

 不意にコンクリートの匂いが鼻を刺激した。

 梅雨明けは一ヶ月くらいは先だろうか。

 明日が来るのとそれだと、早いのはどちらだろう。

 答えは私には出せなかった。

 昨日神坂さんに『時間は一定に進むぜ』的なこと言ったのに。

 

「……可笑しいなぁ」


 空に向かって呟いて。

 自転車に跨って、ペダルを回す。

 新品の自転車が、少しだけ擦り減った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る