決意を形へ

 15時はもう寸前だった。

 スマホの画面を五秒ほど眺めた私は深呼吸をつき、屋上のベンチを立ち上がった。


「じゃあ。行こっか」


 自然に差し出した手を、琴音が繋いだ。

 屋上の扉を抜け、階段を降り、音楽棟を抜ける。

 まずは、と。楽器庫からチューバを取り出す。

 それを背負い、今度は会場である音楽ホール棟へと赴く。

 中に入り、休憩スペースを歩き、音楽ホール前方のドアの前に立ち止まった。

 私たちは繋いでいた手を取り外し、その重い扉をゆっくりと開く。


 前方のドアとは言うが、舞台からは一番遠い。

 同時に、ホール内を見渡せる場所でもあった。

 肝心の舞台だが、既に整えられているようだった。

 真ん中に黒い宝石の様なグランドピアノが、眩しいライトに照らされて輝きを放っている。

 チューバ用か、一つの椅子も舞台中央に配置されていた。


 次に目に入ってくるのは客席だった。

 幾人かの生徒と先生が椅子に腰を掛けているのが見える。

 その中の一人──白石梨奈が私たちの登場に気付き、足早にこちらにやってきた。


「一分遅刻です」


 彼女の第一声はそれだった。


「ちょっと色々してて」


 話してただけとは言えず、つい言い訳を口にする。

 すると彼女は軽く私を睨みつけた後に「まぁいいです」と溜息を一つ。

 次に、その視線は客席前方側に向けると、淡々とした口調で声を発した。


「一応公平に、ということで。審査員にピアノ専攻の生徒を二名。管弦打専攻の生徒を二名。そして音楽科の教授一名に来て貰っています。彼女らには、コンクールの模擬演習ということで説明をしているので」

「なるほど。了解」


 確かに。これは公平だ。

 教授がいるのなら、不正が動くことは無い。

 だが。そんな公平な審査方法にしたのは、白石梨奈の自信ゆえだろう。

 ここで私に、圧倒的な差を見せつけ琴音を奪い去っていく、という算段なのかもしれない。


「やけに余裕ですね。……まぁいいです。どっちから演奏を始めますか?」


 と、言われたが、今の私は別に全く余裕じゃない。

 琴音の前だからって、ちょっと気取ってる感じを出しているだけだ。


 して、演奏順。

 私は正直、その問いを待っていた。


「そっちからでいいよ。私、後の方がやる気出るから」

「……分かりました。始めるので、付いてきてください」


 それ以上は何も無く、白石梨奈はただ歩き出した。

 私はチューバを背負い直し、琴音と共に彼女の背中を追う。

 舞台裏の下手しもて側。最終的に辿り着いた場所はそこだった。

 その場所は舞台装置などが置かれている場所であり、コンクールの際も出番が近くなるとここで待機をする。

 コンクールが始まる様な気分にさせられ、段々と緊張が湧き上がってきた。

 私は背負っていたチューバを床に置いた。肩が軽くなる。


「じゃあ。まずは私から。……七瀬さんの彼女に相応しいのは私なので」


 最後のセリフを言い放った彼女の顔は、勝ちを確信した表情だった。

 まぁ。そんな表情になるのも無理はない。

 だって、私のチューバじゃ彼女に敵わないから。

 いや。そんなことより、『七瀬さんの彼女に相応しいのは私』……って。


「私の方が相応しいけどね」


 抵抗してみるが、案の定というか華麗にスルーされた。

 白石梨奈は「それでは」と最後に琴音のことをチラと見て舞台の方向へと身体を向けた。

 深呼吸を一つした彼女は、楽譜も何も持たずに舞台上へとスタスタと歩き出す。

 木の床を踏む音が、音響の良いホールにはよく響いた。

 舞台裏から舞台に上がる隙間から、私たち二人その様子を見る。


「音楽科。ピアノ専攻一年。白石梨奈。ドビュッシー作曲『喜びの島』」


 ピアノの前に立った彼女は観客席に向かってそう言うと、綺麗なお辞儀をしてピアノ椅子に座った。

 演目は『喜びの島』。これに関しては思っていた通りだ。

 彼女の手が、鍵盤の上に添えられて──。


「すっ──」


 呼吸の音がホールに木霊し、トリルが奏でられる。

 あぁやはり。昨日聴いた通りだ。彼女の音楽は美しくて、繊細だ。

 これを聴く審査員の人たちは、白石梨奈の勝利を確信しているのだろう。

 琴音も少し驚いた様な表情で、彼女の演奏に耳を傾けている。


 だが。ダメだ。ここで彼女の演奏に飲み込まれちゃ、後は無い。

 私の決意を形にする時は、すぐそこへと近付いている。

 というより。今である。

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